ネコのトイレ砂買いに行っただけなのに side:夫
その日、俺は何も考えていなかった。
本当に何もだ。
休日の昼下がり。近所のホームセンターへ猫砂を買いに行く途中だった。
うちにはすでに猫が二匹いる。
だから猫砂がいる。
それだけの話だった。
コンビニで缶コーヒーを買い、公園脇の道をのんびり嫁のママチャリを借りて漕いでいていた。
5月の風が気持ちよくて、スマホを見ながら「今日は晩飯なにかな」なんて考えていた。
その時だった。
――カァーッ!
妙に近くでカラスが鳴いた。
見ると、植え込みの向こうで黒い影が2羽ほど騒いでいる。
「なんだ?」
最初はゴミでも漁っているのかと思った。
だが、その時。
かすかに聞こえた。
みぃ。
小さい。
風に消えそうな声。
俺は足を止めた。
みぃ。
今度ははっきり聞こえた。
「……まさか」
嫌な予感がした。
植え込みを回り込む。
すると。
茶色と黒と白が混ざった、小さな毛玉がいた。
いや。
毛玉というより。
骨と皮だった。
子猫だった。
カラスが一羽、地面をつつこうとしている。
「おい!」
俺が声を上げるとカラスは飛び去った。
小さい。
いや、小さすぎる。
お腹はぺったんこ。
目やにも出ている。
カラスに囲まれていた。
近くに母猫はいない。
周辺を探した。
十分ほど待った。
それでも現れなかった。
動物病院へ電話すると、
「衰弱しているようならすぐ連れてきてください」
と言われた。
だから連れて行った。
それまでは勢いだった。
目の前の命を放っておけなかった。
それだけだ。
問題はここからだった。
◇
「生後一か月くらいですね」
診察室で先生が言った。
「体重は二百グラムちょっと」
軽すぎる。
「かなり栄養状態が悪いです」
診察台の上の子猫は小さく鳴いた。
みぃ。
先生も苦笑する。
「でも元気はありますね」
元気。
そう言われると少し安心する。
「しばらくはこちらで預かれます。その間に先住猫との隔離環境を整えてください」
「助かります」
「先住猫がいるから、絶対に隔離ですよ」
「はい」
即答だった。
何なら俺の部屋を全部明け渡してもいい。
筋トレベンチ?
捨てる。
本棚?
どける。
机?
最悪なくても生きていける。
だがそこで先生が言った。
「奥様とは相談されました?」
「……」
俺は黙った。
「まだですか」
「まだです」
先生が笑いをこらえている。
「それは頑張ってください」
「はい……」
急に自信がなくなった。
病院を出る。
嫁のママチャリに跨り、帰ろうとした…。
しかし発進できない。
ハンドルを握ったまま止まる。
「どう言おう……」
誰もいない駐輪場で呟いた。
まず事実を言うか。
いや駄目だ。
帰宅早々、
『子猫拾った』
では怒られる。
確実に怒られる。
では順序立てて説明するか。
『実は今日、カラスに襲われている子猫がいて――』
いや。
途中で、
『それで拾ったの?』
となる。
そこから先は詰む。
なら先に謝るか。
『申し訳ございませんでした』
駄目だ。
何をやったか分からない状態で謝る人間は信用できない。
むしろ怖い。
なら感謝だ。
『結婚してくれてありがとう』
……。
いや待て。
それ浮気か借金の前振りじゃないか?
絶対そう思われる。
だが他にいい案がない。
俺はシートに沈み込んだ。
「なんで抱いちゃったかなあ……」
正確には抱かなかったらよかったのだ。
見つけた段階ならまだ理性があった。
病院へ連れて行くまでは社会人だった。
しかし抱いた瞬間に終わった。
上着の中で震える小さな体。
弱々しい鳴き声。
指を握る前足。
あれは反則だ。
あんなものを抱いて無事でいられる人間はいない。
「俺はもう無理なんだよ……」
ため息が出た。
そして思った。
妻も無理だろうな、と。
あいつも猫には弱い。
理屈ではなく弱い。
今まで何度も見てきた。
だからたぶん最後は許してくれる。
問題はそこに至るまでの過程だ。
「怒られるだろうなあ……」
ペダルをまわし、帰宅する。
信号待ちのたびに考える。
どう言えばいい。
どう切り出せばいい。
何が正解だ。
結局、家に着いても答えは出なかった。
玄関を開ける。
「ただいまー」
「おかえりー」
妻の声がする。
いつも通りだ。
だから余計に言いづらい。
リビングへ行く。
妻がソファに座っている。
「どうしたの?」
俺の顔を見て首をかしげた。
まずい。
もう怪しまれている。
俺は覚悟を決めた。
「結婚してくれてありがとう」
「は?」
やっぱり変な顔をされた。
「これからも俺とずっと一緒にいてほしい」
「何それ」
「愛してる」
妻が眉をひそめる。
「浮気?」
「違う」
「借金?」
「違う」
「会社潰れる?」
「違う」
「リストラ?」
「違う」
「じゃあ何」
逃げ場がなくなった。
俺の声は、自分でも驚くほど小さくなった。
「三毛の子猫拾っちゃった……」
数秒の沈黙。
「は?」
「カラスに突かれてて……」
「は?」
「母猫いなくて……」
「は?」
「病院連れてったら生後一か月くらいで……」
「は?」
一歩ずつ後退したくなる。
だが妻は逃がしてくれない。
「そんで?」
「二百グラムの三毛ちゃん……」
「どうするの?」
「病院で少し預かってくれてる……」
「その後は?」
「隔離環境作ります」
「どこで?」
「俺の部屋です!」
「飼うの?」
俺は姿勢を正した。
もうここしかない。
「一生かけて愛したいです!」
沈黙。
長い沈黙。
やがて妻が頭を抱えた。
「えーーーーーー」
だが俺は確信していた。
「見たら分かるから」
「何が」
「抱いたら戻れないから」
「そんなわけ」
「俺はもう抱いちゃった!」
妻が大きくため息をつく。
そして額を押さえながら言った。
「……写真ある?」
勝った。
俺はスマホを取り出した。
そして思った。
ああ、この家の下僕がまた一人増える。
いや違う。
二人とも、もう増えているのだ。
写真を見た瞬間に。




