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9/13

ネコのトイレ砂買いに行っただけなのに side:夫

 その日、俺は何も考えていなかった。

 本当に何もだ。

 休日の昼下がり。近所のホームセンターへ猫砂を買いに行く途中だった。

 うちにはすでに猫が二匹いる。

 だから猫砂がいる。

 それだけの話だった。

 コンビニで缶コーヒーを買い、公園脇の道をのんびり嫁のママチャリを借りて漕いでいていた。

 5月の風が気持ちよくて、スマホを見ながら「今日は晩飯なにかな」なんて考えていた。

 その時だった。

 ――カァーッ!

 妙に近くでカラスが鳴いた。

 見ると、植え込みの向こうで黒い影が2羽ほど騒いでいる。

「なんだ?」

 最初はゴミでも漁っているのかと思った。

 だが、その時。

 かすかに聞こえた。

 みぃ。

 小さい。

 風に消えそうな声。

 俺は足を止めた。

 みぃ。

 今度ははっきり聞こえた。

「……まさか」

 嫌な予感がした。

 植え込みを回り込む。

 すると。

 茶色と黒と白が混ざった、小さな毛玉がいた。

 いや。

 毛玉というより。

 骨と皮だった。

 子猫だった。

 カラスが一羽、地面をつつこうとしている。

「おい!」

 俺が声を上げるとカラスは飛び去った。


 小さい。

 いや、小さすぎる。

 お腹はぺったんこ。

 目やにも出ている。

 カラスに囲まれていた。

 近くに母猫はいない。

 周辺を探した。

 十分ほど待った。

 それでも現れなかった。

 動物病院へ電話すると、

「衰弱しているようならすぐ連れてきてください」

 と言われた。

 だから連れて行った。

 それまでは勢いだった。

 目の前の命を放っておけなかった。

 それだけだ。

 問題はここからだった。

◇

「生後一か月くらいですね」

 診察室で先生が言った。

「体重は二百グラムちょっと」

 軽すぎる。

「かなり栄養状態が悪いです」

 診察台の上の子猫は小さく鳴いた。

 みぃ。

 先生も苦笑する。

「でも元気はありますね」

 元気。

 そう言われると少し安心する。

「しばらくはこちらで預かれます。その間に先住猫との隔離環境を整えてください」

「助かります」

「先住猫がいるから、絶対に隔離ですよ」

「はい」

 即答だった。

 何なら俺の部屋を全部明け渡してもいい。

 筋トレベンチ?

 捨てる。

 本棚?

 どける。

 机?

 最悪なくても生きていける。

 だがそこで先生が言った。

「奥様とは相談されました?」

「……」

 俺は黙った。

「まだですか」

「まだです」

 先生が笑いをこらえている。

「それは頑張ってください」

「はい……」

 急に自信がなくなった。


 病院を出る。

 嫁のママチャリに跨り、帰ろうとした…。

 しかし発進できない。

 ハンドルを握ったまま止まる。

「どう言おう……」

 誰もいない駐輪場で呟いた。

 まず事実を言うか。

 いや駄目だ。

 帰宅早々、

『子猫拾った』

 では怒られる。

 確実に怒られる。

 では順序立てて説明するか。

『実は今日、カラスに襲われている子猫がいて――』

 いや。

 途中で、

『それで拾ったの?』

 となる。

 そこから先は詰む。

 なら先に謝るか。

『申し訳ございませんでした』

 駄目だ。

 何をやったか分からない状態で謝る人間は信用できない。

 むしろ怖い。

 なら感謝だ。

『結婚してくれてありがとう』

 ……。

 いや待て。

 それ浮気か借金の前振りじゃないか?

 絶対そう思われる。

 だが他にいい案がない。

 俺はシートに沈み込んだ。

「なんで抱いちゃったかなあ……」

 正確には抱かなかったらよかったのだ。

 見つけた段階ならまだ理性があった。

 病院へ連れて行くまでは社会人だった。

 しかし抱いた瞬間に終わった。

 上着の中で震える小さな体。

 弱々しい鳴き声。

 指を握る前足。

 あれは反則だ。

 あんなものを抱いて無事でいられる人間はいない。

「俺はもう無理なんだよ……」

 ため息が出た。

 そして思った。

 妻も無理だろうな、と。

 あいつも猫には弱い。

 理屈ではなく弱い。

 今まで何度も見てきた。

 だからたぶん最後は許してくれる。

 問題はそこに至るまでの過程だ。

「怒られるだろうなあ……」

 ペダルをまわし、帰宅する。

 信号待ちのたびに考える。

 どう言えばいい。

 どう切り出せばいい。

 何が正解だ。

 結局、家に着いても答えは出なかった。


 玄関を開ける。

「ただいまー」

「おかえりー」

 妻の声がする。

 いつも通りだ。

 だから余計に言いづらい。

 リビングへ行く。

 妻がソファに座っている。

「どうしたの?」

 俺の顔を見て首をかしげた。

 まずい。

 もう怪しまれている。

 俺は覚悟を決めた。

「結婚してくれてありがとう」

「は?」

 やっぱり変な顔をされた。

「これからも俺とずっと一緒にいてほしい」

「何それ」

「愛してる」

 妻が眉をひそめる。

「浮気?」

「違う」

「借金?」

「違う」

「会社潰れる?」

「違う」

「リストラ?」

「違う」

「じゃあ何」

 逃げ場がなくなった。

 俺の声は、自分でも驚くほど小さくなった。

「三毛の子猫拾っちゃった……」

 数秒の沈黙。

「は?」

「カラスに突かれてて……」

「は?」

「母猫いなくて……」

「は?」

「病院連れてったら生後一か月くらいで……」

「は?」

 一歩ずつ後退したくなる。

 だが妻は逃がしてくれない。

「そんで?」

「二百グラムの三毛ちゃん……」

「どうするの?」

「病院で少し預かってくれてる……」

「その後は?」

「隔離環境作ります」

「どこで?」

「俺の部屋です!」

「飼うの?」

 俺は姿勢を正した。

 もうここしかない。

「一生かけて愛したいです!」

 沈黙。

 長い沈黙。

 やがて妻が頭を抱えた。

「えーーーーーー」

 だが俺は確信していた。

「見たら分かるから」

「何が」

「抱いたら戻れないから」

「そんなわけ」

「俺はもう抱いちゃった!」

 妻が大きくため息をつく。

 そして額を押さえながら言った。

「……写真ある?」

 勝った。

 俺はスマホを取り出した。

 そして思った。

 ああ、この家の下僕がまた一人増える。

 いや違う。

 二人とも、もう増えているのだ。

 写真を見た瞬間に。

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