第十四章 不完全な強さ
ガイルはソフィアに連れられ、アーヴィンの屋敷へ来ていた。
そこで、ソフィアの兄であり、グランシエル騎士団の部隊長でもあるアーヴィンに稽古をつけてもらうことになった。
庭に出ると、アーヴィンは軽く肩を回しながら言った。
「得意な武器と型は、君の好きなスタイルでいい」
先ほどまで妹にだらしなく甘えていた男とは思えないほど、声は落ち着いていた。
「まずは一度、手合わせしてみよう」
ガイルは頷き、硝石晶を取り出す。
左手に意識を集中させた。
「メルド」
硝石晶が鈍く輝く。
荒々しく、重い光。
それは、昨日ヴェルナへ向けて作り出したものと同じ形を成していく。
大きな戦斧。
ガイルの怒りと力を受け止めるような、重厚な武器だった。
アーヴィンはそれを見て、少しだけ目を細める。
「それでいいかな?」
「はい」
ガイルは戦斧を握り直した。
アーヴィンは屋敷の壁に立てかけられていた、使い古された木剣を手に取る。
「じゃあ、俺はこれでいいか」
「え?」
ガイルは思わず声を上げた。
「それでいいんすか?」
アーヴィンは木剣を軽く振る。
「まあ、君にはこれで十分だよ」
そして、ちらりとソフィアを見る。
「それに、ソフィアに良いところを見せたいからね」
ソフィアは呆れた顔で腕を組んだ。
「そういうこと言うから、余計に格好悪く見えるのよ」
「ソフィアちゃん、辛辣だね」
ガイルは少しだけ苛立ちを覚えた。
木剣。
自分は戦斧。
それなのに、十分だと言われた。
舐められているように感じた。
だが、ソフィアは真剣な目でガイルを見た。
「ガイル」
「なんだよ」
「これでも、お兄ちゃんはめちゃくちゃ強いから」
その声に、冗談はなかった。
ガイルは少しだけ表情を引き締める。
アーヴィンは木剣を肩に乗せ、にっこり笑った。
「では、始めようか」
そして、ソフィアへ視線を向ける。
「ソフィア、頼む」
ソフィアは一歩下がり、二人を見た。
空気が変わる。
ガイルも、アーヴィンも、顔つきが変わった。
「始め!」
ソフィアの声が響く。
まず、ガイルは戦斧を振りやすいように低い位置へ構えた。
重い武器を振るうには、初動が大事だ。
アーヴィンの木剣は軽い。
ならば、こちらは一撃の重さで押し切る。
そう考えた瞬間だった。
「は?」
気づいた時には、アーヴィンが目の前にいた。
低い姿勢。
足音もほとんどない。
一瞬で間合いを詰められていた。
木剣が、ガイルの顎を狙って振り上げられる。
「っ!」
ガイルは反射的に身体を反らした。
木剣が鼻先をかすめる。
「あっぶねぇ……!」
ガイルは慌てて距離を取る。
アーヴィンは少しだけ目を丸くした。
「ん? これをかわすか」
その声には、わずかな感心が混じっていた。
ガイルは舌打ちし、戦斧を持ち直す。
手の間隔を広げ、重心を下げる。
ただ力任せに振るだけでは当たらない。
ならば、持ち方を変える。
ガイルは地面を蹴り、横薙ぎに戦斧を振るった。
風を裂く音が鳴る。
だが、アーヴィンは軽く身を引くだけで避けた。
「うん」
まるで確認するような声。
「くっそ、当たらねぇ!」
ガイルは続けて踏み込む。
戦斧を振り下ろし、すぐに引き戻し、斜めへ払う。
相手の動きを見て、武器の持ち方を変える。
間合いを変える。
速度を変える。
ガイルには戦闘の勘があった。
ただの力任せではない。
相手の反応を見て、すぐに自分の動きを修正できる。
それでも、アーヴィンには届かなかった。
アーヴィンは軽い足運びで戦斧をかわし続ける。
無駄に逃げているわけではない。
戦斧のリーチを逆手に取り、振り終わりの隙へ入り込んでくる。
「くっ!」
アーヴィンが一気に距離を詰めた。
木剣が下から突き上がる。
だが、ガイルもそれを読んでいた。
戦斧は長い。
長い武器には、近づかれる弱点がある。
だからこそ、来ると思っていた。
ガイルは一歩後ろへ下がる。
アーヴィンの木剣が空を切った。
「今だ!」
ガイルは大きく戦斧を振り上げる。
そして、全身の力を込めて縦に振り下ろした。
「おおっ!」
戦斧が真っ直ぐに落ちる。
アーヴィンは木剣を構えた。
まるで、それを受け止めるように。
ガイルは思わず叫ぶ。
「それじゃあ、木剣が壊れるっすよ!」
だが、次の瞬間。
アーヴィンは木剣で戦斧の刃を真正面から受けたのではなかった。
刃の軌道に沿わせるように木剣を滑らせ、力の方向をずらした。
戦斧の重さが、横へ流される。
「なっ――」
ガイルの体勢が崩れた。
その一瞬を、アーヴィンは逃さなかった。
木剣の腹が、ガイルの顔面へ向かって叩き込まれる。
鈍い音が響いた。
「ぐっ!」
ガイルの身体が後ろへ吹き飛ぶ。
そのまま地面を転がった。
「ガイル!?」
ソフィアが慌てて駆け寄る。
「大丈夫?」
「いってぇ……」
ガイルは頬を押さえながら起き上がる。
鼻の奥がつんと痛い。
目が少しだけ涙で滲んだ。
アーヴィンは木剣を肩に担ぎながら、静かに言った。
「ガイル」
その声は、先ほどまでの軽さを失っていた。
「君は、戦闘に関してかなりのセンスがある」
ガイルは顔を上げる。
「相手の動きを見て、武器の持ち方を変えた。間合いも理解している。重い武器の弱点もわかっていた」
アーヴィンは続ける。
「それに、何より君は、ずっと腕を磨いてきたのがわかる」
ガイルは言葉を失った。
「そこらの騎士と比べても、大差ないレベルだと思うよ」
ソフィアも黙って聞いていた。
だが、アーヴィンはそこで声を少し低くした。
「だけど、聞かせてほしい」
ガイルを見る目が鋭くなる。
「君が今よりも強くなりたい理由はなんだい?」
「……」
ガイルは俯いた。
胸の奥に、昨日の言葉が蘇る。
――弱いわね。
「弱い自分を変えたい」
静かな声だった。
アーヴィンは問い返す。
「何が弱い?」
「……何もかも」
「何もかも?」
「俺は……」
ガイルは拳を握る。
「昔も、昨日も。何もできなかった」
アーヴィンはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと言う。
「では、弱さとは何だと思う?」
ガイルは答えられなかった。
「……わからない」
「わからないのに、君は自分を弱いと言うのかい?」
「……」
言葉が刺さる。
ガイルは何も言えなかった。
アーヴィンは木剣を下ろし、少しだけ視線を和らげた。
「弱さとは、自分自身の不完全さを知ることだ」
「不完全さ……」
「ああ」
アーヴィンは静かに頷く。
「人は完全ではない。誰もが足りないものを抱えている。届かないものがある。守れない時もある」
ガイルは唇を噛む。
アーヴィンは続けた。
「けれど、その不完全さを知るから、人は他者と繋がれる。誰かを思いやれる。自分一人では届かないものに、誰かと共に手を伸ばそうとする」
ガイルは顔を上げた。
「弱さは、恥ではない」
アーヴィンの声はまっすぐだった。
「弱さとは、他者との繋がりと思いやりを生み出すための、大切な人間の本質だよ」
「……」
「君は弱い」
アーヴィンははっきりと言った。
ガイルの肩がわずかに揺れる。
だが、アーヴィンは続けた。
「だけど、それでいい」
「……それで、いい?」
「ああ」
アーヴィンは頷く。
「大事なのは、弱い自分を否定し続けることじゃない。今の自分を受け入れた上で、それでも前へ進むことだ」
ガイルは、ゆっくりとその言葉を繰り返す。
「今の自分を……受け入れる」
「そうだ」
アーヴィンは木剣を軽く肩に乗せる。
「自分を信じてみろ、ガイル=バーンロート」
ガイルは何も言えなかった。
けれど、胸の奥で何かが少しだけ動いた。
ガイルは、ゆっくりと立ち上がった。
頬はまだ痛む。
体も重い。
それでも、目は逃げていなかった。
「もう一度……お願いします」
アーヴィンは、少しだけ満足そうに笑った。
「いい返事だ」
ソフィアは、そんなガイルを見て、静かに息を吐いた。
少しだけ安心したように。
アーヴィンは木剣を構え直す。
「では、続けよう」
ガイルは戦斧を握り直した。
さっきより少しだけ、構えが変わっていた。
怒りだけではない。
悔しさだけでもない。
今の自分を受け入れようとする、わずかな覚悟がそこにあった。
―――
――
―
翌日。
リュドは、いつも通りの朝を迎えた。
窓から差し込む朝の光が、部屋に並ぶガラス細工を淡く照らしている。
昨日までの重い空気が消えたわけではない。
ガイルのこと。
ソフィアが追いかけていったこと。
そして、自分がガイルのことを何も知らなかったこと。
それらはまだ胸の奥に残っていた。
リュドが身支度を整えていると、ネリィがそっと声をかけた。
「リュド、おはよう」
振り返ると、ネリィが優しく微笑んでいた。
「おはよう、ネリィ」
リュドも少しだけ表情を和らげる。
「今日もついてくるかい?」
ネリィは少しだけ悩むような顔をした。
行きたい。
ネリィは胸の奥で揺れる気持ちを押さえながら、ゆっくりと言った。
「今日は、部屋で待っているわ」
「うん。わかった」
リュドは頷く。
けれど、ネリィの表情はどこか落ち着かない。
行きたい気持ちと、残ると決めた気持ちがぶつかっているのが、顔に出ていた。
リュドはその様子を見て、少しだけ笑う。
「大丈夫?」
「え、あ、うん! 大丈夫!」
ネリィは慌てて答えた。
明らかに大丈夫そうではなかった。
けれどリュドは、それ以上追及しなかった。
「じゃあ、行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
ネリィは小さく手を振る。
リュドは一度微笑んでから、クラリスの窓を出た。
少しして、リュドはいつもの雑木林へ着いた。
木々の間を朝の風が抜けていく。
リュドは周囲を見回した。
「やっぱり、ガイルは来てないか……」
昨日のことを思えば、当然かもしれない。
けれど、どこか寂しさが残った。
その時、後ろから声がした。
「リュド、おはよう」
振り返ると、ソフィアが立っていた。
その傍らにはアルシェル。
そして、なぜかドランもいた。
ただ、ガイルの姿はない。
「ソフィア! アルシェルとドランも……ガイルは?」
リュドが尋ねると、ドランが低い声で言った。
「ガイルは、親友が王子に取られて拗ねた。そして浮気している」
「何言ってんのよ」
アルシェルがすぐに返す。
「あなたはガイルに邪魔者扱いされて拗ねて、ソフィアに浮気してるくせに」
「誰がこんな小娘に浮気するか」
「こんな小娘とは何よ」
ソフィアが眉をひそめる。
ドランはふんと鼻を鳴らした。
「事実だ」
「あなた、本当にガイルに似てきたわね」
「それは侮辱か?」
「褒めてないわ」
リュドは思わず苦笑した。
ソフィアはため息をつく。
「この二人の話は無視していいわよ」
「うん……そうする」
ソフィアは少し表情を整えてから続けた。
「ガイルは、気持ちを切り替えようとしているわ。今は私の兄に鍛えてもらってる」
「ガイルも特訓してるの?」
「ええ」
リュドは少しだけ目を伏せた。
「そっか」
そして、小さく言う。
「俺は、ガイルから色々教わりたかったし、ガイルのことも色々聞きたかったけど……今は多分、俺が行ったら邪魔だね」
その言葉に、ソフィアは少しだけ安心した。
リュドは、怒っていない。
置いていかれたと思っているわけでもない。
ちゃんと、ガイルのことを考えている。
「本当に仲いいのね」
ソフィアは小さく呟いた。
「え?」
「なんでもない」
ソフィアは軽く首を振る。
それから、周囲を見回した。
「今日はネリィは一緒じゃないの?」
「うん。ネリィは今日は来ないみたい」
「そうなの」
ソフィアは少し意外そうにしたが、深く聞かなかった。
代わりに、思い出したように言う。
「あ、そういえば、対戦相手が決まったわね。確認した?」
「え?」
リュドはぽかんとした。
「全然知らなかった……」
「あなたね……」
ソフィアは呆れたように額に手を当てる。
「自分が出る大会の対戦表くらい確認しなさいよ」
「いや、昨日いろいろあって」
「それはそうだけど」
ソフィアは苦笑する。
「あなたの初戦の相手は、フィリア=レイノートよ」
「フィリア……か」
リュドは名前を聞いて、少しだけ考える。
槍型のグラセルを持つ、お坊ちゃん口調の青年。
直接深く関わったことはないが、アカデミーでも目立つ存在だった。
「強いの?」
「弱くはないわ」
ソフィアは答える。
「エスティスっていう槍型グラセルを使うの。間合い管理が上手いタイプね」
「間合いか……」
リュドは少しだけ表情を引き締める。
剣術でも、メルドでも、間合いは重要だ。
昨日、レオニスに手も足も出なかったことを思い出す。
そんな話をしていると、遠くから足音が聞こえた。
いや、足音というより、軽やかな蹄のような音。
リュドたちが振り返ると、二騎の白い騎乗生物が木々の間から現れた。
馬に似ているが、少し違う。
白くなめらかな体毛。
額に小さな硝子質の角。
光を受けると、たてがみが淡く輝く。
ソルメルリアで近衛騎士や王族が用いる騎乗生物、シェルカだった。
一頭に乗っているのは、昨日出会った金色の髪の青年。
レオニス=セレディア。
もう一頭には、昨日のエドリックとは違う人物が乗っていた。
目の細い、優しそうな雰囲気の女性。
けれど、その姿勢は美しく、騎士としての芯の強さが感じられた。
「待たせたな」
レオニスが、当然のように言う。
その姿を見た瞬間、ソフィアは慌てて片膝をついた。
「レオニス王子」
リュドも慌てて姿勢を正す。
「いえ、俺も今来たところです」
「そうか。ならばちょうどいい」
レオニスはシェルカから軽やかに降りる。
「早速だが紹介しよう。私の隣にいるのは、近衛騎士のリシェル=アルナートだ」
女性騎士もシェルカから降り、静かに一礼する。
「リシェル=アルナートです。王子からお話は伺っています」
「リュド=グラスフェルドです。よろしくお願いします」
リュドは深く頭を下げる。
レオニスは満足そうに頷いた。
「リシェルは、私の剣術の師でもある。そして、母上直属の近衛騎士だ」
リシェルは少し困ったように微笑む。
「本来なら、エレノア様のお側にいなければならないのですが……」
ちらりとレオニスを見る。
「この通り、王子は一度言い出したことを曲げない性格です」
「良いことだろう?」
「時と場合によります」
リシェルはリュドへ向き直る。
「警護の時間もありますので、少しだけですが、お力になります」
「ありがとうございます」
リュドは丁寧に頭を下げた。
レオニスは横から堂々と言う。
「城にはエドリックの他にも近衛騎士はいるのだ。リシェルよ、時間など気にしなくてもいいぞ」
「あ、はい。ご遠慮させていただきます」
即答だった。
レオニスは少し不満そうに眉を上げる。
「つれないな」
「職務ですので」
そのやり取りを見て、リュドは苦笑した。
昨日のエドリックもそうだったが、近衛騎士たちはレオニス王子にかなり振り回されているらしい。
レオニスはふとソフィアへ視線を向けた。
「そんなことより、隣の子は誰だ?」
リュドが答えようとする。
「俺の友達で――」
その前に、ソフィアが背筋を伸ばした。
「ソフィア=ウォードと申します!」
「ウォード……」
レオニスは少し考えるように目を細める。
「ああ、アーヴィンの妹か」
ソフィアの表情がわずかに引きつる。
「兄をご存じなのですか?」
「知っているも何も」
レオニスはどこか悔しそうに笑った。
「五年前のグラセル・レガリア決勝戦で、奴にやられてね」
「え」
「そのせいで私は二位という、実に悲惨な結果になってしまった」
ソフィアの額に、冷や汗が浮かぶ。
「は、ははは……」
自分の兄が王子を倒していた。
しかも、その王子本人が目の前にいる。
気まずさで、笑うしかなかった。
「まあ、ウォード家の者がここにいるなら、なおさら良い」
「え?」
ソフィアが顔を上げる。
レオニスはリュドを見る。
「リュド。君は今日、リシェルに剣を教わる」
そして、ソフィアへ視線を移す。
「ソフィア=ウォード。君も見ていくといい。アーヴィンの妹なら、学ぶものはあるだろう」
ソフィアは少し驚いたあと、深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
リシェルは静かに木剣を取り出した。
「では、始めましょうか」
リュドは息を整える。
昨日、レオニスに一本も取れなかった。
自分には、まだ足りないものがある。
けれど、逃げるつもりはなかった。
「よろしくお願いします」
リシェルは穏やかに微笑む。
「こちらこそ」
その微笑みは優しかった。
けれど、構えた瞬間、リュドは理解した。
この人もまた、ただ優しいだけの騎士ではない。
レオニスの師。
王妃直属の近衛騎士。
リシェル=アルナート。
リシェルは、静かに剣を構えた。
「時間もありませんので、早速始めましょうか」
その声は穏やかだった。
けれど、構えた姿に隙はない。
「まず、私はあなたの基礎を知りたいです。メルドで武器を作り、私に攻撃を当ててください」
「攻撃を……当てる?」
「はい」
リシェルは微笑む。
「私は攻撃しません。避けるだけです」
リュドは少しだけ目を見開いた。
「本気で当てるつもりで、遠慮なく来てください」
「……はい」
リュドは頷いた。
左手に硝石晶を乗せる。
意識を集中させた。
「メルド」
淡い光が生まれる。
透明感のある、澄んだ輝き。
硝石晶は滑らかに形を変え、昨日レオニスと手合わせした時と同じ剣を作り出した。
歪みのない、透明な剣。
リシェルはその剣を見て、わずかに目を細めた。
「見事なものですね」
その言葉には、素直な感嘆があった。
リュドは剣を構え直す。
「行きます」
「どうぞ」
リュドは地面を蹴った。
一気に距離を詰め、リシェルへ斬りかかる。
リシェルは動かない。
いや、動いていないように見えた。
リュドの剣が届く直前、彼女は半歩だけ横へずれた。
剣先が空を切る。
「っ!」
リュドはすぐに体勢を変え、横薙ぎに振る。
しかし、それも当たらない。
リシェルは軽やかに身を引く。
鎧を着ているはずなのに、その動きは驚くほど軽かった。
金属の重さをまるで感じさせない。
リュドは何度も踏み込む。
斬り下ろし。
横薙ぎ。
突き。
フェイント。
だが、どれもリシェルには届かなかった。
リシェルは必要最低限の動きだけで避けている。
大きく逃げるわけではない。
リュドの剣筋を見切り、ほんの少しだけ身体の位置をずらす。
それだけで、攻撃はすべて空を切った。
「くっ……!」
リュドはさらに速度を上げる。
今日もまた、何もできずに終わりたくなかった。
だが、焦れば焦るほど剣筋は読みやすくなる。
リシェルはそれを責めることなく、ただ静かに避け続けた。
しばらくして、リシェルが片手を上げる。
「そこまでです」
リュドは動きを止めた。
「はあ……はあ……」
肩で息をする。
リシェルは、ほとんど息を乱していなかった。
「なるほど」
彼女は静かに頷く。
「基礎の剣術は、きちんと身についていると思います」
リュドは少しだけ顔を上げた。
「ですが」
その一言で、胸の奥が少し重くなる。
リシェルは続けた。
「グラセル・レガリアまで、残り三日。たった三日の特訓で、グラセルなしのまま、今の剣術だけで勝てるほど対抗試合は甘くありません」
わかっていた。
自分でも、どこかでわかっていた。
けれど、はっきり言われるとやはり悔しかった。
リュドは剣を握る手に力を込める。
「じゃあ……練習するだけ無駄ってことですか?」
その声には、悔しさが滲んでいた。
リシェルは首を横に振る。
「いいえ。そんなことは言っていません」
彼女はまっすぐリュドを見た。
「剣術だけなら勝てない、と言いました」
「剣術だけなら……」
「はい」
リシェルはリュドの手にある透明な剣を見る。
「人器一体」
「武器を長年扱っている者は、その武器を手足のように扱えます」
リシェルは自分の剣を軽く持ち上げた。
「剣士にとって剣は、ただの道具ではありません。槍使いにとって槍も同じです。長く触れ、振り、身体に馴染ませることで、武器は自分の一部になる」
リュドは黙って聞いていた。
「当然ですが、あなたはまだその域に達していません」
「……はい」
反論はできなかった。
剣を作ることはできる。
けれど、それを手足のように扱えているわけではない。
リュドは尋ねる。
「じゃあ、どうすればいいですか?」
リシェルは静かに答えた。
「あなたには、そのメルドがあります」
リュドは自分の左手を見る。
「メルド……」
「メルドで作った武器を使うのではなく」
リシェルはゆっくりと言葉を選ぶ。
「メルドそのものを、手足のように使える方法で戦えばいい」
リュドは息を呑んだ。
「メルドを……手足のように……」
剣を作る。
盾を作る。
今までも、メルドで形を作ってきた。
けれど、それはあくまで作ったものを使うという考え方だった。
メルドそのものを、自分の身体の延長のように使う。
その発想は、リュドの中に新しい道を開くようだった。
リシェルは続ける。
「王子に言われていますので、最低限三日間は剣術を中心に教えます」
「はい」
「ですが、メルドの活用方法は、あなた自身で考えてみてください」
リュドが顔を上げる。
リシェルは優しく微笑んだ。
「答えは、メルドを得意とするあなた自身が、一番わかるはずです」
その言葉が、胸に残った。
自分にはグラセルがいない。
剣も、まだ手足のようには扱えない。
だけど、メルドがある。
リュドがずっと磨いてきたもの。
「わかりました」
リュドは透明な剣を握り直した。
「三日間、よろしくお願いします!」
リシェルはにっこりと微笑む。
「はい。よろしくお願いします」
その声は穏やかだった。
―――
――
―
ネリィは、リュドがクラリスの窓を出ていくのを見届けると、しばらく玄関の方を見つめていた。
本当は、ついて行きたかった。
リュドがどんな特訓をするのか見たい。
リュドのそばにいたい。
けれど、今日は違う。
自分も、ただ見ているだけではいけない。
リュドを守れるようになりたい。
そう思ったから。
ネリィは小さく息を吸うと、ポポの部屋へ向かった。
「ポポ!」
勢いよく扉を開ける。
部屋の中で本を並べていたポポが、振り返った。
「はいはい。慌てない」
ポポはそう言いながら、机の上に一冊の本を置いた。
厚みのある古い本だった。
表紙には、さまざまな形のグラセルが描かれている。
獣。
花。
剣。
道具。
ネリィは興味深そうに本を覗き込む。
「これは?」
「グラセルに関する基礎の本よ」
ポポは本を開きながら言った。
「これを見ながら、グラセルの特性について説明するわね」
ネリィは真剣な顔で頷く。
「お願い」
ポポは小さな翼でページをめくる。
「まず、グラセルには主に四つの型があるの」
ページには、それぞれの型の絵と名前が記されていた。
「ベスティア、フロリア、アルマ、アーティア」
「ベスティア……フロリア……アルマ……アーティア……」
ネリィは一つずつ繰り返す。
「細かく分ければもっとたくさんあるんだけど、基本はこの四つね」
ポポは自分の丸い身体を少し見せるように翼を広げた。
「私は鳥の形をしているから、分類としてはベスティア型ね」
「ポポはベスティア」
「そう。生き物型のグラセルは、だいたいベスティアに入るわ」
ポポはネリィを見る。
「ネリィも人型だから……分類するならベスティアに近いのかしら」
「私も?」
「たぶんね。でも、人型のグラセルなんて私は見たことがないわ」
「そうなんだ……」
ネリィは自分の硝子の手を見つめた。
自分は、普通ではない。
それは、何度も感じていたことだった。
ポポは本の次のページを開く。
「そして、この四つの型のグラセルに共通する特性があるの」
「共通する特性?」
「ええ。大きく分けると三つ」
ポポは順番に指し示す。
「感知、共鳴、自律」
ネリィは真剣に聞く。
「感知、共鳴、自律……」
「まず、感知」
ポポは説明を始めた。
「グラセルは、周囲の気配や心の揺らぎ、硝石晶の反応を感じ取ることができるの。ただし、得意な感知は型によって違うわ」
「型によって?」
「そう。獣型なら敵意や動きに敏感。鳥型なら遠くの気配や広い範囲を見るのが得意。武器型なら持ち主の戦意や相手との間合いに反応しやすい。道具型なら素材の歪みや欠陥を感じ取るのが得意だったりするわ」
ネリィは頷く。
「じゃあ、私は何を感じ取れるんだろう」
「それはこれから探していきましょう」
ポポは次に進む。
「次に、共鳴」
「共鳴?」
「グラセルは、心と心、あるいは硝石晶同士の反応に共鳴することがあるの。持ち主の感情に反応して力が増したり、特定の記憶や場所に反応したりすることもあるわ」
ネリィは少しだけ胸元に手を当てた。
昨日のノア。
胸の奥が苦しくなった感覚。
そして、夢の中で自分を呼んでいた声。
あれも、共鳴なのだろうか。
ポポはネリィの表情に気づいたが、今は深く聞かなかった。
「最後に、自律」
「自律……」
「グラセルは、ただ命令された通りに動くだけじゃない。自分で考え、判断し、動くことができる」
ポポは静かに言った。
「もちろん、生み主との関係性や個体差はあるわ。でも、グラセルにはちゃんと心がある。だから、何をしたいのか、何を守りたいのか、自分で選ぶことができる」
ネリィはその言葉をじっと聞いていた。
「……うん」
ネリィは小さく頷いた。
ポポは本を閉じる。
「それぞれの型の特性まで説明すると長くなっちゃうから、それはまた別の機会にしましょう」
「わかった!」
ネリィは少し楽しそうに頷いた。
ポポは改めてネリィを見る。
「心の三原則は、リュドから聞いているかしら?」
「うん。聞いてるよ」
「澄魂、精律、融念ね」
ポポは翼で軽く数えるように動かした。
「硝石晶やグラセルの性質に大きく関わるものよ」
ネリィは自分の身体を見る。
「私は……ルパーティアでできているんだよね」
「ええ」
ポポは真剣に頷いた。
「だから、硬度は間違いなく8以上あるはずよ」
「8以上……」
「オスヴァルトが作る普通の高品質な硝石晶細工でも、硬度7くらいが限界に近いの。8以上なんて、本来なら奇跡みたいなものよ」
ポポは少し興奮したように続ける。
「それに、ルパーティアはただ硬いだけじゃない。澄魂、精律、融念、どれもかなり高い位置にあるはず」
「そんなに私ってすごいの?」
ネリィが不安そうに尋ねる。
ポポは即答した。
「すごいも何も、最強よ。きっと」
「最強……」
ネリィは自分の手を見つめた。
実感はまったくなかった。
ポポは少し考えてから、ぱっと翼を動かす。
「試してみましょう」
「試す?」
「オスヴァルトの失敗作の処分品を壊してみるの」
ポポは棚の奥から、透明な硝子の箱を持ってきた。
見た目は綺麗だが、よく見ると角のあたりにわずかな歪みがある。
「これは失敗作だけど、硬度7はあるわ」
「硬度7……」
「オスヴァルトのメルドで作ったものは、大体その数値を出すの。普通の硝石晶細工としては、かなり頑丈よ」
ポポは箱を机の上に置いた。
「でも、ネリィが本当にルパーティアでできているなら、硬度は8以上。単純な硬度だけで考えれば、この箱は簡単に壊せるはずなの」
ポポ自身も、少し興味があった。
硬度8以上のルパーティア。
それがどんな力を持つのか。
ネリィという存在が、どれほど特別なのか。
ネリィは、少し緊張した様子で箱を両手に持った。
「これを……壊すの?」
「そう。まずは両手で挟んで、力を込めてみて」
「わかった」
ネリィは真剣な顔になる。
両手で箱を挟む。
そして、力を込めた。
「ん……!」
しばらく沈黙が流れた。
ポポはじっと見守る。
硬度7の箱が割れる。
ひびが入る。
少なくとも、何かしらの反応はあるはずだった。
しかし。
「……え?」
ネリィの声が漏れた。
箱は割れなかった。
ひび一つ入らない。
表面に傷すらついていなかった。
ポポも目を丸くする。
「……あれ?」
ネリィはもう一度、力を込める。
「んん……!」
腕に力を入れる。
身体全体を使って押し潰そうとする。
けれど、箱は変わらない。
びくともしない。
「……割れない」
ネリィは呆然と呟いた。
ポポも、しばらく言葉を失っていた。
「おかしいわね……」
「私、最強じゃなかったの?」
ネリィが不安そうにポポを見る。
ポポは慌てて翼をぱたつかせる。
「ま、待って。挟む力だけじゃわからないわ。今度は叩いてみましょう」
「叩く?」
「ええ。衝撃でどうなるか確認するの」
ポポは箱を床に置いた。
「手のひらで、軽く叩いてみて」
ネリィはしゃがみ込み、箱を見つめる。
「壊していいの?」
「処分品だから大丈夫よ」
「うん……」
ネリィは右手を上げた。
そして、そっと箱を叩いた。
こつん。
軽い音がした。
箱は割れなかった。
ネリィの手にも、何も起こらない。
「もう少し強く叩いてみて」
「うん」
今度は少し力を込めて叩く。
こん。
それでも、箱には傷一つ入らなかった。
ネリィは困った顔をする。
「やっぱり、壊れないわ」
ポポは箱をじっと見つめる。
「……本当に硬度7よね?」
そう言って、ポポは箱へ近づいた。
「ポポ?」
「ちょっと確認するだけ」
ポポは小さな翼を持ち上げた。
「この箱、失敗作とはいえ私の羽で叩けば普通は私の方が危ないんだけど……」
そう言いながらも、ポポは軽く箱を叩いた。
こつん。
次の瞬間だった。
ぴしり。
小さな音が響く。
ポポの羽に、細いヒビが入った。
「いっ……!」
ポポは慌てて羽を引っ込める。
「ポポ!」
ネリィは驚いて駆け寄った。
「大丈夫!?」
「だ、大丈夫。ほんの少しヒビが入っただけよ」
ポポは慌てて笑おうとした。
けれど、その目は箱ではなく、ネリィの手を見ていた。
ポポの羽には、確かにヒビが入った。
でも、ネリィの手には何もない。
ヒビもない。
傷もない。
痛がる様子もない。
それなのに、箱は壊れなかった。
「やっぱり、あなたの身体はこの箱より強い」
ポポは静かに言った。
「でも、その強さが“壊す力”として出ていない」
「壊す力……」
ネリィは自分の手を見つめる。
硬い身体。
傷つかない手。
けれど、何も壊せない。
自分の中にあるはずの力が、どこにあるのかわからなかった。
「もう一度、触れてみて」
ポポが言う。
ネリィは不安そうに頷き、箱へそっと手を伸ばした。
指先が、箱の角に触れる。
その瞬間。
「……?」
ネリィの胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
箱の冷たさとは別に、指先へ何かが伝わってくる。
硬い。
けれど、ただ硬いだけではない。
硝子の奥に、細い筋のようなものがある気がした。
ネリィは無意識に、その一点を指で押さえた。
「ネリィ?」
ポポが声をかける。
ネリィは、自分でも理由がわからないまま、少しだけ力を込めた。
ぱきん。
小さな音がした。
箱の角に、細いヒビが入った。
そのヒビは、枝のように広がっていく。
次の瞬間、箱の一部が欠けるように割れた。
完全に粉々になったわけではない。
けれど、確かに割れた。
ネリィは驚いて手を引いた。
「……今の、私が?」
ポポも、目を丸くしていた。
「ええ……たぶん」
ネリィは自分の手を見る。
傷はない。
痛みもない。
けれど、箱には確かにヒビが入っている。
ポポは割れた箱を見つめながら、静かに呟いた。
「力任せじゃないのね……」
「え?」
「今のあなたは、叩いたんじゃない。押し潰したんでもない」
ポポは少し考え込む。
「何か、硝子の弱いところに触れたように見えた」
「弱いところ……」
ネリィは割れた箱を見る。
自分が何をしたのか、わからない。
ただ、指先に何かが伝わった気がした。
「私……変なのかな」
ポポはすぐに首を振る。
「変じゃないわ。ただ、普通のグラセルとは違うのかもしれない」
ネリィは黙って自分の手を見つめた。
その手は、美しい硝子のままだった。
壊す力があるのかもしれない。
でも、どう使えばいいのかはわからない。
怖さと、少しの希望が胸の中で揺れていた。
ポポはヒビの入った羽をそっと畳みながら言う。
「今日はここまでにしましょう」
「でも……」
「大丈夫。わかったことはあるわ」
ポポは優しく微笑んだ。
「あなたの身体は確かに強い。そして、あなたには何か特別な感覚がある」
「特別な感覚……」
「ええ。でも、それが何なのかは、ゆっくり確かめていきましょう」
ネリィは小さく頷、欠けた箱を見た。
「うん」




