第三話 決別の城
一勝一敗と言えなくもないが、確実に流れは孫権軍にあった。
初戦は曹仁の、と言うより牛金の想定外の武勇に苦しめられたと言えるが、その後の夷陵の戦いでは明確に孫権軍の勝利だった。
曹仁軍は多大な被害を出し、撤退の際にも呂蒙の伏兵にあって兵馬を三百頭も奪われると言う物資的な被害も出している。
そして、兵士は勝敗の気配には恐ろしく敏感であり、下手な武将達より圧倒的に早くその気配を察知して次の行動に移す。
敗戦の気配を察した兵は脱走などの離反を繰り返し、実際の被害以上の損害を軍に与える。
そうなるといかな名将であったとしても、歯止めが効かなくなってくる。
翌日、孫権軍と曹仁軍が南郡城を前に向かい合った時には、曹仁軍は実際に与えた被害以上に兵を減らしていた。
とはいえ、全軍崩壊とは言えず軍としての戦力を十分に維持しているのは、さすがと言うべきだろう。
しかし、布陣は防御的なものに変わっているのは仕方が無い。
「ここは一気に踏み潰しますか?」
「……いや、これは策だな」
周喩が曹仁の布陣を見ながら、呂蒙に言う。
「策? この状況で?」
「間違いなく。いかにも守りに固まっている様に見えて、しかもすぐに城に逃げ込める様などこか腰の引けた布陣を見ると確かに一気に勝負を決めたくなりますが、おそらく敵軍の布陣前に落とし穴が仕掛けられている事でしょう」
「落とし穴? 牛金が攻めてきた時には無かったはず」
「おそらく、夷陵の包囲に加わらず南郡の城を守っていた兵士達が曹仁の指示を受けていたのでしょう。こちらの本陣を狙ってこなかったのも、この仕込みに使っていたと思われます」
呂蒙に説明しながら、周喩は曹仁の凄さを実感していた。
この罠は、前もって用意していたものではなく、夷陵による囲い込みからの地続きの罠だったはずだ。
これは周喩の想像でしかないが、この罠は本来であれば留守になった南郡の城を奇襲しようとする別働隊に備えたものになるはずであり、夷陵の囲い込みを行いながら罠の指示をしていた事になる。
夷陵の囲い込みが失敗して野戦に持ち込むにしても、落とし穴の罠があっては自由に布陣する事も出来ないのだから、落とし穴の罠は効果が無かった場合には埋めてしまう事もある。
単なる予測でしかないが、曹仁はこの罠が空振りに終わったと考えず、万が一の備えとして用意させていたと説明して兵士の離脱を防いだのだろう。
その機転は見事と言うべきだろうが、当然しわ寄せは来る。
例えばこの罠を活かす為には、必ず防御的な布陣をする必要がある。
落とし穴の罠があるのだから、当然自由に動き回る事は出来ず相手に動いてもらう事になる。
そこは武将の腕の見せどころではあるのだが、曹仁ほどの名将であってすらその意図を隠しきる事は出来ないのだから、それは致命的というべき欠点だ。
それでも、曹仁だからこそ夷陵の敗戦を取り戻す為の一手に出来たと言える。
それだけに手詰まりである事も伝わってくる。
あれだけの大掛かりな策を使って敗れたのだから、次の一手など早々に出来るはずもない。
それが分かった以上、これ以上曹仁に付き合う必要も無い。
周喩は凌統、甘寧、蒋欽、徐盛、丁奉、呂蒙までも両翼として投入して左右から曹仁の陣を締め上げにかかる。
さらに周喩は本隊をゆっくり前に進め、曹仁軍に圧力をかける。
勢いに任せて突撃した時にこそ落とし穴の罠は最大の効果を発揮するのだが、ゆっくりと前進する部隊にはほぼ無力である。
今回は最初からその罠の存在を意識して、わざわざ地面を長槍で地面を叩きながら進んでいるのだから罠にかかるはずもない。
しかもこの行動はただ落とし穴の罠を避ける為ではなく、曹仁に対する心理的な牽制にもなる。
こちらはそちらの罠を見抜いているぞ、と行動で伝えていくのだ。
本隊の行動を見て、曹仁軍に動揺が走るのは見て取れた。
崩れるのは近いな。
周喩の予測した通りに落とし穴の罠があり、本隊がそれを看破したところで曹仁は退却を始めたのだがそれを見逃すほど周喩は甘く無い。
周喩は本隊を二手に分けて落とし穴の罠を回避させると、両翼で戦う軍の間を縫う様に曹仁の本隊を狙って突撃する。
これによって勝負アリの一手となった。
少なくとも周喩はそう思ったのだが、それは周喩だけでなく孫権軍全体がそう実感した。
曹仁軍の両翼が戦っているのだから、総大将である曹仁が入城したからといって城門を閉ざす事も出来ない。
その隙を突いて周喩率いる本隊も、南郡城になだれ込む事に成功した。
そこから一気に制圧する。
はずだった。
「かかったぞ! 今だ!」
必死の思いで城内に逃げ込んだはずの曹仁は、城内で反転して攻勢の構えを取っていた。
周喩が罠にかかった事を知ったのと同時に、曹仁の号令がかかる。
城壁の上に伏せていた牛金の伏兵が姿を現し、一斉に周喩に向かって矢を放つ。
周喩自身の武勇も並みではないのだが、だからといって矢の雨をその剣だけで防ぎ切れるモノではない。
無数の矢が周喩を捉えようとした、まさにその時。
大きな人影が周喩の前に立ちはだかり、その矢の雨から身を呈して周喩を守る。
「大都督、ご無事ですか!」
「……周泰か? 何故ここに?」
ここにいるはずのない人物が突如現れた事で、周喩は驚く。
「主君と参謀殿から命じられました。今守るべきは主君ではなく大都督である、と」
無数の矢に曝されながらも、周泰は矢を体中に受けているにも関わらず笑って周喩を守る。
「ここは俺が食い止めますから、大都督は一時撤退して立て直しを! 外には両翼の軍がいます!」
周泰は殿軍として曹仁軍を食い止めるが、勢いが逆転してからの曹仁軍は強かった。
騎馬の突撃力は歩兵とは比べ物にならない破壊力と物理的圧力があり、どれほど勇猛で有能であったとしても周泰の一隊で防げるほどに軽くない。
重い一撃に周泰の防壁は粉砕され、曹仁の刃が周喩に届きそうになった。
が、それを防ぐ者は尽きていなかった。
「大都督! ご無事ですか!」
徐盛が周喩の元に辿り着く。
それは外の戦いに決着が着いたと言う事であり、徐盛が来たのはこちらの勝利を意味していた。
それでも反転して攻撃に出る事は出来ない。
曹仁の凶刃は、まさに周喩を捉えようとしていたのだ。
周泰と徐盛の決死の奮戦が功を奏し、二人は重傷を負って戦線を離脱する事になったが周喩を戦場の外へ逃がす事に成功するところだった。
が、天命とも言える一矢が周喩の脇腹を切り裂く。
その激痛によって周喩は落馬し、その眼前に曹仁軍の槍と剣が迫る。
それでも曹仁軍の刃は、周喩には届かなかった。
血に塗れた周泰と徐盛が周喩の前に立ちはだかり、その後方からは蒋欽や丁奉の部隊がやって来て周喩の救出に成功したのである。
南郡城の攻防戦はまさに一進一退であり、兵力では孫権軍が優勢なのだが、総大将の負傷と言う戦果は士気と勢いにおいて曹仁軍が掴んでいた。
この時代、医術は占いや呪術より下位の扱いであり妓楼の一種とされていた。
その事もあって、占いや呪術を否定した孫策の元の江東にあっても弾圧されずに済んだ。
その僅かな幸運が、孫権軍の完全崩壊を防ぐ事になった。
脇腹の怪我と言うのは内臓を傷つける危険が極めて高く、もしそうだった場合にはまず助からない。
「もう少し体の内側を傷つけられていたら、命に関わるところでした」
周喩を診た医師の言葉だった。
怪我だけで見ると周泰や徐盛の方が重傷ではあったのだが、周喩の方が命に関わる怪我だったと説明する。
「治療は行いましたが、完治した訳ではありません。何卒安静にして下さい。激しい動きはもちろん、怒ったりする事も控えていただかなければ傷口が開く恐れがあります」
「気をつけますが、それは出来る事なら曹仁将軍に伝えて下さい」
周喩は笑いながら医師に言う。
その情報を知ったのか、翌日から曹仁は周喩の本陣に向かって悪口雑言を喚きたてて挑発してくる様になった。
「あの医者、本当に伝えた訳ではあるまいな」
呂蒙が剣の柄を叩きながら、苛立ちを隠さずに言う。
周喩はむしろ感心していた。
あの夷陵の大仕掛けの後に、万策尽きたかの様に落とし穴の罠に縋ってみせた。
が、それこそが罠だったのだ。
恐らく曹操の仕掛けた罠の本命は、あの城壁の伏兵だったのだろう。
この策の巧妙なところは、その策の手順である。
城壁の伏兵など誰でも考える事であり、落とし穴の罠も当然警戒される罠である。
しかし、最初に大本命と思われる大仕掛けの夷陵があり、最後の一手と思われた落とし穴の罠を看破してしまったら、もっとも稚拙な罠であるはずの城壁の伏兵が意識から抜け落ちる様に誘導されてしまう。
あとはトドメの一撃を見舞う為にも、本陣から引きずり出したいのだろう。
「挑発など戦の常道ですよ。もし曹仁が負傷したとなれば、私も挑発するでしょうから」
そう言うと周喩は立ち上がる。
「大都督! 絶対安静でしょう!」
「この状態では安静になど出来ないでしょう? 曹仁の相手をしてやらないと、ゆっくり休めそうもありません。呂蒙、程普殿と凌統を呼んで下さい。曹仁の独創性の無い挑発をいつまでも聞いてやる義理はありませんからね」
周喩はそれぞれの武将に曹仁を破る策を伝えると、兵を率いて戦場に立つ。
「ふっはっは! どうした周喩! 本陣で枕を抱えて怯えていなくても良かったのか? 今からでも遅くないぞ、丞相に頭を垂れるが良い! 少しでも立場を良くしたければ妻を差し出してはどうだ? 年増であっても十分に可愛がってもらえるだろう」
「……下卑た挑発ですね。曹操であればもう少し気の利いた独創的な挑発も出来たでしょうに」
周喩はため息をつきながら、前線に立つ。
「とはいえ、多少は付き合ってやる必要があるでしょうね」
周喩は隣に控える程普に呟く。
「では、こちらも準備致しましょう」
「よく囀るな、曹仁。実績も無く、ただ曹操の身内と言うだけで重用されるのは辛いだろう。お前程度に城主は務まらないのであれば、張遼なり楽進なりに変わってもらえばどうだ? いや、むしろ牛金の方が適任なのではないか」
周喩が負けずに、曹仁を挑発する。
「貴様! 曹仁将軍を愚弄するか!」
牛金があっさり挑発に乗ったのは想定外だったが、そのせいで曹仁は冷静さを取り戻す。
「見事なり、周喩! やはり貴様は軍を率いて戦をするより、歌でも歌っている方が似合っている様な、良き声だ! 大都督など止めて妓楼としてやって行く方が似合っていよう! いっそ去勢して宦官にでもなったらどうだ? 如才無い貴様にはお似合いだろう」
曹仁軍の兵士達も大笑いしている。
「これ以上は付き合う義理も必要もないでしょう。それでは始めましょうか」
周喩の言葉に程普が頷く。
「誰か、あの無礼者の……」
言いかけたところで周喩は、大量の血液を吐き出す。
「大都督!」
冷静な程普が似合わない大声を上げる。
その程普の声を合図に、孫権軍の本隊は慌てて本陣に引き始める。
曹仁とて実力は十分にあり、兵力に余力がある訳でもないのだからここが決め時である事は読み取る事は出来る。
それこそが周喩の狙いである。
周喩率いる孫権軍は基本的に冷静沈着であり、それを支える副都督の程普も孫権軍最上位の冷静さを持った人物であり、そう簡単に崩れる軍ではない。
それが大きく崩れたのだから、勝機を見るのも当然である。
むしろその勝機を見いだせる戦術眼があったからこそ、曹仁は罠にかかったと言えた。
総大将が血を吐いて倒れたなどと言う大事で混乱する本隊を急襲して打ち破るのは、孫権軍の両翼が助けに来るより早く終わらせられると言う判断こそ、最初から周喩が見抜いていた曹仁の勝利に対する飢えと言う大き過ぎる問題点であり、これは何ら解消されていない。
だからこそ、周喩自身と言う極上の餌には喰いつくと言う自信はあった。
周喩は程普と呂蒙の部隊に守られながら、慌てふためく様に本陣に逃げ込む。
もちろんこれは周喩と程普、呂蒙、そして詰めを行う凌統くらいしか事実を知らず、本当に兵士達は慌てふためいていたのだ。
「時間に余裕はありませんよ、すぐに迎撃の準備を」
大量の血を吐いたはずの周喩は、まったく苦しむ様子も無く呂蒙と程普に伝える。
面と向かって挑発し合っていたならともかく、十分な距離を取っていた事もあって詳細な状況など互いに知りうるはずもない。
遠間から血を吐いた様に見えればそれで済むのだから、鎧の隙間に袋を入れてもっともらしいところでその袋を叩いて血に見える液体を吐き出させれば、そう見えてしまうのだ。
「やはり、城主は荷が重いのでは?」
本陣に雪崩込んで来た曹仁軍は、すでに迎撃の準備が整った周喩に出迎えられて足を止めた。
「やり返される気分はあまり良くない様に見えますね。問答するのも楽しそうですが、降伏するのであれば迎え入れる準備は整えますが?」
「ほざくな!」
曹仁は一言吠えると、剣を振る。
「皆、我に続け!」
曹仁はそう言うと、すぐに行動に移す。
と言っても、周喩に突撃した訳ではなく、全軍に退却を指示したのである。
「見事。だが、城に帰らせるほど私は甘くないですよ」
曹仁が本陣を抜け出そうとするところを、本陣の外に伏せていた凌統が逃げる曹仁軍に襲いかかる。
これは曹仁軍に被害を与える事が狙いと言うより、わずかでも撤退の足を鈍らせる事が目的であり、その時間で両翼の部隊が南郡城への退路を断つ事が目的である。
これによって曹仁は南郡城を捨てて、荊州北部の拠点である襄陽へ去って行き、周喩率いる孫権軍が勝利を収めたのである。
だが、孫権軍の誰も想定してなかった事が起きていた。
南郡城は既に劉備軍に乗っ取られていたのである。
「……これはどういうつもりですか?」
周喩は城楼に立つ趙雲に向かって尋ねる。
「大都督、約束の通り参戦させていただきました。ご自身で交わした約束だったはずですが」
趙雲の言葉に、甘寧や蒋欽は今にも攻め込もうと言う気配を見せたが、それは叶わなかった。
周喩の脇腹の傷口が開いて、出血したのである。
「……劉備と諸葛亮がここまで露骨に、手段を選ばないとは思ってもいませんでした」
苦しげに傷口を抑え、周喩は苦笑いする。
この時に孫権軍の全員が分かった。
周喩は想像を絶する自制心で怒りを抑え、穏やかな表情を浮かべてみせているのだと。
その怒りは、おそらくこの場の誰よりも苛烈であったのだろう。
それこそ、傷口が開くほどの怒りをその身に宿しながらも、それを誰にも見せない様にしているのだ。
「程普殿、申し訳ございませんが魯粛に副都督を譲って頂けませんか?」
「それは構いませんが、何故にかをお尋ねしても?」
「劉備がこちらを後ろから刺してもまったく悪びれない事は分かりました。こちらからも、後ろから刺すかもしれないと警告させるべきでしょう」
周喩は傷口を抑えながら、それでも表情を歪めようとせず、笑う様に程普に向かって言っていた。
南郡城を巡るアレコレ
正史ではこの戦いに劉備軍は一切関与していないみたいです。
純粋に周喩対曹仁の形であり、周喩が負傷しながらも曹仁に勝利した戦です。
で、南郡城なのですが周喩や呂範は反対したみたいですが、魯粛が劉備に貸し与えたと言う流れで劉備軍は南郡城に入る事になったみたいです。
一方の演義では孔明先生のスーパー千里眼で南郡城を奪取するワケですが、この時って一応劉備軍は孫権との同盟中なのです。
にも関わらず、孫権軍に曹仁軍と戦わせてその隙に城だけを奪い取ると言う、有り得ない行動を取っています。
演義ではぶちギレ大都督が切れ散らかしているので悪役感が出ている事もあって薄れていますが、とてつもない不義理です。
この南郡の城から、いよいよ孫権&周喩と劉備&孔明の関係が悪化していきます。