山小屋のコゼット(4)
翌朝、起き出したマーヤーは、小屋の入り口の扉に、何やら奇妙な図形を描いていた。円の中にいくつかの動物とも、樹木とも見える不思議な形をいくつか配したものだった。
ポーチに入れていた炭や、何かの葉を乾燥させたもの、青みがかった灰色の砂、動物の骨のかけら、そういったものを細かく砕いて、水と、少しばかりの自分の血を混ぜて溶き、古い鳥の羽にそれをつけて。
描き上がった図形は、最初はぼんやりと黄色い光を放っていたが、 乾くと全く目に見えなくなる。
「それは、あなたの魔法なのですか、マーヤー」
コゼットの問いにマーヤーはうなずいた。
「そう、おまじない」
そう言って、昨夜ジャベールとコゼットが話していた部屋の壁、天井にもいくつかの図形を描いていく。扉に書いたのとは、また違った大きさの図形。あるものは絵のようにも見え、また異国の文字のようにも見える。またあるものは、円と直線を組み合わせた図形としか見えない。
「あの男は、今夜来るのね。来れば、この部屋に通すのでしょう?」
ええ、とコゼットがうなずく。
「ジャベールが部屋に入ると、何かあるのですか?」
「うん、どれだけ効き目があるか、わからないけど」
「…壁が崩れたり、天井が落ちてくるようなことはないのでしょうね」
「そんな魔法は使わない。…そんなことをしたら、あなたも死んじゃう」
たしかにそうですね、とコゼットはうなずく。もっとも、狼男が小屋の壁を破れば話は別だが、とのマーヤーの返しにコゼットは少し眉をひそめた。
同じような図形が、他の部屋にも描かれる。全部の図形を描き終わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
次に、マーヤーはポーチから何枚かの乾燥させた草の葉と、これも乾燥させた花を取り出した。それを細かく砕いて粉にし、ろうそくの蝋を垂らすと、銀色のスプーンで練り上げる。歌うような、ささやくような呪文を唱えながら。そして小半時ほどかけてできあがったのは、親指の先ほどの大きさの、涙滴形の藍色の玉だった。それに、銀色の細い糸をつけてコゼットに渡す。
「今夜は、これをつけていて」
「これは、何でしょう」
「魔除け」
「…魔除け?」
「わたしが彼と戦っているときに、あなたが連れて行かれないようにするためのお守り」
コゼットはうなずいた。ジャベールの目的はコゼットを連れて行くことだ。マーヤーが邪魔をしようとすれば、マーヤーと戦うことにはなるだろうが、別にマーヤーを倒さなくとも、コゼットさえ手に入れればそれで十分なのだから。ジャベールの形勢が不利になったとき、コゼットをさらって逃げ出されてはマーヤーの負けなのだ。
(今日も狼はいる、か)
窓から外を見たマーヤーは、昨日と同じように、小屋を守るように、あるいは見張るように、茂みの中を徘徊する狼の姿を目にとめた。
(昨日の口ぶりじゃ、わたしのいることは、もうわかってるんだよね)
あの狼はジャベールの眷属に違いない。狼の身に起きたことはそのままジャベールに伝わっているのだろう。狼の見たもの、聞いたものまでがそのままジャベールに伝わっているかどうかまではわからないが、その可能性も計算に入れておく必要はある。
マーヤーは使ったことがない魔法だが、動物を自分の使い魔として使役することで、使い魔の感覚を共有する術があることは知っている。ジャベールの狼もそれと同じでないとは言い切れない。
(結界、張っておこうかな…)
結界と言っても、外敵の侵入を阻むような類いのものではない、一定の時間、結界の中を外から見たり、あるいは中の音を聞いたりできなくするだけのものだ。
小屋全体を不可視の結界で包むと、狼の様子をうかがう。
しかし、狼は茂みから出てくる様子はなかった。一瞬見せた、驚愕の様子から、小屋が消えたことに気づいているのはわかるが、それ以上、狼は何かを仕掛けてこようとはしなかった。
(何かあっても、手出ししないように言いつかってる、ってこと? それとも…もしかして、単に目に見えなくなっただけなのに気づいて…いたりして?)
昨日の狼の群に幻が通用しなかったことを思い出す。においのない、目と耳をごまかすだけの幻を、狼は相手にしなかった。今日の結界も、においまでは消していないから、においで、まだ小屋や中の人間がそこにいる、消えてなどいないのだと判断しているのかもしれない。
(ま、いい、っか。それより、仕事。さっさと片付けなくっちゃ)
小屋の外の何カ所かに、いくつかの図形を描いていく。描かれた図形はどれも同じもので、扉や部屋の中に描いたのとはまた違うものだ。小屋の近くのどこから見ても、必ずそのどれかの図形が目に入るように図形を描き終わると、マーヤーは小屋に戻り、結界を解いた。
再び見えるようになった小屋に、狼は、今度も何の反応も見せなかった。
(…これで、準備は、よし、と)
日が暮れ、太陽が西に沈んでいく。同じ頃、東の空に満月が昇ってくる。山の中腹にあるここからは、地平まで遮るものはなく、沈みゆく日も昇り来る月もはっきりと見える。
ジャベールは、月が高く昇る頃にやって来る、と告げていた、おそらくは真夜中近くになるだろう。
早めに夕食を済ませ、マーヤーとコゼットはジャベールがやって来るのを待っていた。
コゼットは落ち着かない様子で、不安そうな表情を隠さない。
マーヤーは、師スワレートの杖を見つめながら、獣変人について、スワレートから学んだ知識を思い起こしていた。
人間の姿でいるときの獣変人は、屈強な人間といったところで、見かけ上も、動作もさほど人間離れしたところはない。ただし、変身後の動物――狼男なら、狼に命令していうことを聞かせることができる。
しかし、ひとたび変身すれば、変身した動物の能力が備わる上、人間としての知略も使いこなす。たいていの狼男は、通常の狼の力に数倍する能力を持ち、さらに、周辺にいる狼たちを呼び寄せ、自分の手足のように操ることができるという。
獣変人、ライカンスループというのは、それ自体が魔法的な存在であるため、稚拙な魔法の通用しないのは、コゼットも見たとおりで、魔法で強化されていない武器で傷つくこともない。強大な魔力か、あるいは銀でできた武器だけが狼男に血を流させることができるという。
スワレートの杖は、魔力を持った品だから、狼男を傷つけることはできるかもしれない。ただし、それは杖にその力がある、というだけのことで、マーヤーに狼男と戦うだけの杖術の心得があるわけではない。
だから、狼男との戦いでマーヤーが頼ることのできるのは、自分の習い覚えた魔法だけだった。
「今でも考えは変わりませんか、マーヤー」
コゼットの問いに、なぜ、とマーヤーが答える。
「ジャベールは恐ろしい男です。いまなら間に合います。あなたは黙って見ていて済ますこともできるのですよ」
マーヤーを気遣ってか、あるいはジャベールを怒らせるのを恐れてか。しかし、コゼットの言葉にマーヤは首を横に振る。
「魔法は仕掛けた。だから、もう戻れないの」
そして、コゼットの目を見つめていう。
「ジャベールと戦うのはわたしだけ。…心配、しないで」
そんな間に、月は高く昇り、地上を明るく照らし出す。
そして、ジャベールがやってきた。昨夜とは違って、小道を登って。
扉が力強くたたかれる。
マーヤーは、目でコゼットに扉を開けるよう促し、自分は不可視の魔法で姿を隠した。
扉が開けられると、堂々とした振舞でジャベールが小屋の中に入ってくる。
「待たせたな、コゼット」
だが、一歩部屋に入った途端、その目に困惑が浮かぶ。
「俺の用意した服に着替えていないのか」
「ええ。わたしはあなたとは行かない」
ジャベールの顔に冷たい笑いが浮かぶ。
「いいや、連れて行く。俺の花嫁をな」
そう言ってコゼットの方へ踏み出した足が止まる。
「…何だ、何をした?」
コゼットは、ジャベールの額に汗のにじむのを見た。こんな様子のジャベールを見るのは初めてだ。マーヤーの言う、おまじないの効果か。それとも、身につけた青い玉の力か。あるいは…、と思いをはせた時、うつむいたジャベールの苛立たしげなつぶやきが聞こえた。
「お前の頼んだ者の仕業か、これは…」
「そうね、きっと」
「小細工を」
顔を上げ、ジャベールが言ったとき、マーヤーの声がコゼットの背後から響いた。
「ジャベール、あきらめて立ち去ってはどう?」
一瞬、ジャベールの目が大きく見開かれる。びくり、とその体が動き、2歩、3歩と後ずさる。
「…馬鹿なことを言うな!」
苦しそうに絞り出した声があらがう。同時に、その足が止まり、一歩を前に踏み出す。
(あ、わたしの魔法に耐えた…!)
イレジスタブルサジェスチョン。相手に、提案を受け入れざるを得ない、従うべきだと感じさせる魔法。人の心を縛る、強力な幻覚を、ジャベールは撥ねのけていた。
「そこにいるな、魔法使いが」
正確に、マーヤの居場所を探し当て、睨み付けてくる。腹に響くようなその声は、かなりの威圧感を伴っている。
(さすが狼男、すごい迫力だ…)




