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旅立ちの朝(2)

 目覚めた時、既に日は高く上っていた。そこここで鳥のさえずりが聞こえる。勢いよく毛布を跳ね除けると、マーヤーは寝床から出、寝間着を脱ぎ捨てた。そのまま、正面にある大きな青銅の鏡の前に立つ。一糸まとわぬ華奢な裸身が映し出される。14年前、何も持たずに、スワレートに連れられて彼女はこの小屋へ来た。そして、今日、これまでの暮らしを脱ぎ捨て、ここから彼女は1人で去っていくのだ。ほっそりとした自分の身体を、幾許かの羞恥と、誇りとを感じながらマーヤーは見つめていた。


 わたしだ…わたしが映ってる。魔法使いでも冒険者でもないわたし。村人でもないわたし。何も持っていない、何もつけていない、わたし。

 ここへ来た時の、身一つのわたし。

 今日から、また、始まる。今日から、新しいわたしが始まる。新しいわたしが生まれる。わたしが、わたしを生み出す。


 今日が新しい自分を生み出す日なのだ。自分自身の手による自分自身の誕生! しばし、そんな思いに彼女は酔っていた。それから、ワードローブから、1着の旅行着とマントを取り出した。革でエッジを補強しただけの、普通の衣服。彼女が自分で作ったものだ。ゆっくりとマーヤーはそれを身に付けた。この瞬間から、魔法使いとしての彼女はいなくなるのだ。そんな思いを味わいながら。1つだけ、師から渡されていたブローチを左胸の上につける。幼かった日に、森の中で師に見つけられた彼女のたった一つの持ち物だったそれを、師は、常に身に着けておくように言っていたものだった。


 パンとハム、それに森で取れたフルーツの朝食を済ませると、身支度を整えてマーヤーは小屋を出た。目を閉じれば14年間の思い出が走馬燈のように脳裏をよぎる。大きく目を見開いてそれを振り切ると、彼女は老師の杖を振り上げた。微かなためらいを感じつつ、魔法の言葉を唱える。次の一瞬、小屋は燃え盛る炎に包まれていた。朱金に輝く火を見つめながら、マーヤーは、スワレートへの永訣の言葉を呟いていた。そして、小屋が燃え上がった時、彼女は踵を返すと、そのまま街道に向かって森の中を歩き始めたのだった。今や魔力を使い果たしてただの杖となったそれが、唯一、老師をしのぶよすがであった。


 歩き始めた時、今ひとつの彼女を旅に駆り立てた理由が心の中に浮かび上がってきた。

 幼いころから、記憶の底に見え隠れしていた不思議な情景。

 常日頃は、心の奥底に隠れているが、時折意識の上に上ってきて、マーヤーの心を揺さぶる、不思議な記憶。


 あれは、一体どこなんだろう。

 行ったことのない場所。見たことのない景色。

 小さなころから、覚えている、どこか知らない場所。

 見渡す限り、地平線まで続く、広い草原。薄紫の混じった雲。雲間から射して、地上に降り注ぐ日の光。

 別の方へ眼を向ければ、見たことのない形の山々。山の上の方が白くなっているのは雪をかぶっているから、かな…。だとしたら、ずいぶんと高い山。

 ゆるやかに流れる大きな川。向こう岸に小さく見えるたくさんの家。…このあたりの家とは違った家。


 どこの国か、いつの時代なのかもわからない。物心ついた時から彼女の記憶にあったそこは、成長するにつれて薄れるどころか次第に鮮明さを増し、最初は山々や草原、緩やかに蛇行して流れる川の情景だっだものが、近辺の村や町、そこに住まう人々の姿など、より多くの光景があふれてくるのだった。


 御師様や、冒険仲間とは、はっきりと違った顔立ちと、見たことのない服装のの人たち。

 聞いたことのない言葉。

 記憶の中の言葉は、いくつか、思い出せる。思い出して、口にもできる。…でも、意味は解らない。

 御師様にもわからない、って言ってた。ただ、アミューセラス、古い、昔の国で使われていた言葉に似ている、…発音が似ているけど違う言葉だ、って御師様は言ってた。

 アミューセラスは、もうなくなった国。そこの言葉を使う人は、もういないし、だれも覚えていないんだ、って。


 あれは、どこなんだろう。

 どこかに、本当にあるのかな、あの場所は…。

 どうして、そんなところを知ってるんだろう。

 …夢、なんかじゃない。

 夢で見たことなんてないから。

 ただ、時々、頭の中に浮かび上がってくるの。


 記憶の中の邦は、マーヤーがこれまでに見たどの町や村とも違っており、人々の服装や、店に並ぶ野菜や果物も、マーヤーが実際に見たことのないものが多かった。そして、記憶の中で彼女が住んでいた神殿。それは彼女の知るどの神をまつるものとも違った様式で築かれ、彼女が聞いたことのあるどの神の名とも違った神を称える祈りがあった。


 その(くに)で、わたしのいたのは、神殿。

 現実に存在する神殿とは、形も、大きさも、造りも、中にいる人たちの様子も違うけど、神殿だ、ってことはわかる。

 神さまの像がたくさん並んでいて、その一番奥、真ん中の一番大きな像が、一番偉い神様。…きっと。

 神さまの名前は、思い出せない。

 わたしの知ってる、どの神様でもない。

 たくさんの像の、どの神様も、わたしの知らない神様。だけど、その神様たちを、たぶん、全部、わたしは知ってる。…思い出せないだけ。

 わたしは、そこで、神様に、…一番偉い神様に祈ってた。

 神さまの教えを学んで、神殿に来る人に話してた…気がする。

 どんな教えだったのかな…。思い出せないよぉ。


 神殿では、魔法も習ってた。

 魔法は、習った魔法は、あんまりよく思い出せないけど、記憶を頼りに、やってみることができたのもあったな。そんな時、御師様は、ものすごくびっくりしてたっけ。だから、あれは、わたしの妄想なんかじゃない、ってこと。

 …なかには、うまくいかなかったのもたくさんあるけど、そのうち、できるようになるかもしれない。…あ、魔法は、もうやめるんだっけ。


 記憶にある光景がどこかにまだあるのなら、あるいは、すでに失われた国であっても、その手掛かりになるものがどこかになるのなら、探してみたい、という希望が、マーヤーにはあった。


 でも。…記憶の中のどこかへ行くのと、静かな暮らし。どっちを取るか、って言ったら。

…うん、いまは、普通の暮らし。記憶の中の邦は、もし見つかったら、ラッキーかな、くらい。


 平凡な暮らしへのあこがれと、記憶の底の未知の世界への熱望。あるいは矛盾する2つの希望に駆り立てられ、彼女は森を後にしたのだった。


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