旅立ちの朝(1)
夜は、まもなく明けようとしていた。薄寒い空気の中に朝の気配が忍び寄るのが感じられる。毛布にくるまったまま、マーヤーは柔らかげな闇を透かして辺りを見回していた。
もうじき、夜明け。でも、まだ、暗い。…ああ、目が覚めちゃったんだ。
今日は、行こう。この小屋を出て。そう決めたんだから。
子供のころから、ずっと暮らしたこの森。住み慣れた小屋。この部屋で、何度こうして朝が来たんだろう。…でも、今日が最後。
昨夜のうちに、支度はできてる。あと少し。朝になったら、ここを出るんだ。わたし、1人で。
寝返りを打って窓の方へ目をやる。まだ、外は暗い。闇はこれから彼女が出ていく世界をマーヤーの目から隠してくれていた。旅立ちは、いつも彼女にとって、期待と、不安の入り交じった冒険の道だった。そして、今日こそが彼女にとって最後の門出になるはずなのだった。小屋を出れば、二度とこの部屋に戻ることはない。だが、後悔はなかった。これは彼女自身が決めたことなのだから。
14年前、まだ2歳の彼女は森の中に捨てられていたのを老師スワレートに拾われ、育てられたのだった。老師は彼女に魔法への天分を認めると、彼女に普通の娘としての躾のほかに、魔法の技を身に付けるための教育をも施したのだ。それは幼い子供にとって、決して易しいものではなかったが、スワレートの見込んだ通りマーヤーは並外れた才能を示し、その上達振りにはスワレート自身も舌を巻くほどだった。だが、彼女にとって、魔法は決して楽しいものでも好もしいものでもなく、苦痛どころか時としては憎悪の対象ですらあった。それを忍んで老師の教えに付いてきたのは、ひとえにスワレートの人柄と、養父の喜ぶ顔を見たいという、彼女の思いによるものに外ならなかった。
彼女が成長し、いくつかの魔法を使いこなせるようになると、スワレートは数人の冒険者たちを雇い、彼女と共にいくつかの簡単な冒険を行わせた。それはあるときには廃墟に眠る財宝の探索であったり、村を襲うゴブリン達との戦いであったりしたが、本当の目的は、マーヤーに実戦での経験を積ませ、彼女を1人前に育て上げることだった。スワレートの期待通り、マーヤーはどの冒険をもやり遂げ、めきめきとその腕を上げていった。そのままスワレートの元で学べば、いずれは彼のすべてを受け継ぎ、彼以上の大魔法使いに成長することは疑う余地が無かった。
だが、2週間前の夜。高齢の老師は不意に襲った病魔のため、あっけなくこの世を去ったのだった。いくら魔法に長けていようと、人を癒す術を知らないマーヤーにはどうすることもできず、丸1昼夜の看病の末、彼女はスワレートを看取ることとなったのであった。老師の埋葬を済ませた後、マーヤーは彼女自身の今後について考えなくてはならなかった。それは生まれて初めてする、人生の岐路での選択であった。そして彼女は自分の最も憧れていた暮らしに向かい、旅立つことにしたのである。
魔法は、やめよう。御師様には悪いけど。
新しい魔法を覚えると、御師様が喜んでくれるのがうれしくて、たくさん魔法の練習をしたけど、もう御師様はいない。魔法を使っても、喜んでくれる人はいない。どんなに腕を磨いても、誰もほめてくれる人はいない。…いなくなっちゃった。
冒険仲間とも、もう会わない。そう決めた。仲間といれば、いつまでも今の暮らしが続くだけ。御師様が見つけてくれた仲間だけれど、火と、血と、暗闇の道連れだもの。明るい平和な里で手を取り合う仲間じゃない。
ううん、魔法は嫌いじゃない。魔法を使うのは嫌じゃない。いままでずっと使い続けてきた技だもの、本当は、好き。たくさん覚えた魔法は、私の自慢。もっともっと、いろんなことを覚えたい。
でも、魔法を使えば、普通の暮らしは手に入らない。
ええ、わかってる。魔法がなければ、今みたいには暮らせない。そうだけど、でも…。
わたしは、普通に暮らしたい。どこか小さな村で、他の人たちと同じような家に住んで、毎朝、お互いに挨拶して、おしゃべりして、畑に出て、掃除や洗濯をして、夜になったら寝て、それから…、いつか素敵な人と出会って…出会えるといいな。
家庭を持って、子供を産んで、育てて、家族のために食事を作って、布を織って服を作って、子どもにいろんなことを教えて、一緒に山へ行ってキノコや山菜を取ったり、そしてゆっくり年を取って。家族に囲まれて、いつかは…。
そんなふうに暮らせるところへ行きたい…行くの。やっと、チャンスが来たんだから。
でも。
そんなところへ行くには、長い旅をしなくちゃ。近くの村には、冒険者の、魔法使いのわたしを知ってる人がいるもの。いい評判も、悪い評判も、ついて回る。そんなところで、普通の人の暮らしは無理よ。だから、ずっと遠くへ行くの。誰も、わたしを知らないところへ。
女の子の一人旅が危険なくらいはわかってる。だから、魔法は絶対必要。魔法なしじゃ、1頭の狼に出会っても、命が危ない。守ってくれる仲間はいないから。魔法を使わなくていい場所へ行くには、魔法が頼り…なんて、ちょっと皮肉みたい。
魔法を使わなくって良くなるまでの旅。魔法を道連れに、魔法と別れるための旅。
夜明けの前触れの、冷たい光。窓の外が、うっすらと青一色に染まり始めている。今まで彼女の目に触れずにいたたくさんのものが、次第にその姿を現わし始めている。まるでそれは、異世界の眺めのように思われた。
出かける支度は、もう済んでる。
身の回りのものと、お金。貨幣はかさばるから、たくさん持てない。あとは宝石で。それから、御師様の杖と、わたしの呪文書。
魔法の杖が、御師様の形見。あと1回しか使えないけど。御師様のことは忘れられない…じゃなくて、忘れたくない。わたしを育ててくれた、大切な方。
呪文書は、今までのわたし。御師様が教えてくれたいろいろなこと、魔法や、いろいろな草や木のこと、花やキノコ、虫や鳥や…魔獣。何でも書いてある。冒険の途中で聞いた伝承や歌。神様や遠くの世界。めずらしい話を聞くたびに、この本に書いてきた。
御師様は何でも教えてくれた。わたしが見たこともない、お城や貴族のこと。そういったところでの作法や料理。料理やお酒の作り方だの食べ方だの。全部、呪文書に書いてある。今迄の日々にあったことも、みんな書いてある。魔法は捨てても、この本は手放せない…な。
冒険の旅に着ていたローブ。最初の修行のときに御師様がくれた服。破れたり、小さくなって切れなくなったりして、何度も直して着てたもの。でも、これはもういらない。
ローブは、魔法使いの証。魔法使いだったわたし。もう、さようならするの。誰にも、わたしが魔法使いだと思われたくないから。
名前も、今日からは変えるんだ。
マーヤー。
今日から、わたしはマーヤー。
マーヤーは幻。遠い異国の、秘密の教えに出てくる言葉。本当は実在しない、この世のあらゆる森羅万象。それがマーヤー。
魔法使いでいる間、旅を続ける間のわたしは、本当のわたしじゃない。魔法なしで暮らせるようになった時が、本当のわたし。それまでのわたしは、わたしの幻。だから、わたしは、今日からマーヤー。
旅が終わったら、その時は本当の名前を探そう。
室内は段々と明るくなりかけていた。青一色の中から、次第に様々な色彩が姿を見せ始め、いつもの見慣れた光景が現われようとしている。青い闇の中から世界が完全に姿を現わしたとき、それが新たな旅路に直面する時の訪れなのだ。今一時の安らぎを少しでも延ばそうとするように、マーヤーは、毛布を頭からかぶり、そっと目を閉じたのだった。




