列伝2 〜シュアン
帝国ラグーンで大きな勢力を持ち、帝国の枢要な多くの役職を占めるのは、ローザン一族であった。
歴代の皇后の多くは、この一族の出身であり、現在の皇后ルーセイラもその例にもれなかった。
現皇帝ナル・アレフローザは、十九歳の時に、十八歳だったルーセイラを妻に迎えた。
ナル・アレフローザはこの時、皇太子であった。
ルーセイラは帝国の大貴族ローザン一族の出身ではあったが、一族の中では傍系に属する。
父親は侯爵だったが、帝国政府内において名誉職以外の実質的な役職をもってはいなかった。
そのルーセイラが皇太子妃となったのは、その類い稀な美貌によった。
幼少のころから彼女は、一族の中で有力な皇太子妃の候補と目されていたのである。
アレフローザも幼少時からルーセイラとは面識はあったが、親しく口をきくというようなことはなかった。
実際に皇太子妃の有力な候補として、アレフローザの意向の確認のためにルーセイラと対面した時、それ以前に最後に会った時から、五年以上の月日が流れていた。
その対面の時、アレフローザは驚嘆した。ルーセイラは少女から大人の女性に変貌しており、その美しさは目もくらまんばかりのものとなっていた。
アレフローザは直ちに皇太子妃として迎えたい旨を父である皇帝に伝え、皇帝もこれを了承した。
だが、その美しさに対してアレフローザは気後れしてしまった。
将来の帝位を約束されて育ってきたにもかかわらず、アレフローザはそのことが素の人間としての価値とは何の関係もないと考える、生来の謙虚さと賢明さをもっていた。
そういうアレフローザにとって、かくも美しい女性が自分の妻になるというのは、ただひとつ自分が将来の皇帝であるからにすぎないと思った。このことが、ルーセイラに対して距離をおく態度をアレフローザにとらせることになった。
また、ルーセイラのその美しさには、何か気安く声をかけるのをためらわさせる高貴なる威厳があった。
この最初の気持ちの動きがその後のこの若い夫婦の仲を決定づけることになってしまった。
ルーセイラはナル・アレフローザに憧れていた。
少女の頃から、直接に口をきいたことはほとんどなかったが、稀に眺める少年アレフローザの姿は少女の憧れを満たすのに充分なものであった。
周囲の大人達の「いずれは皇太子妃に」との思惑も敏感に感じており、将来アレフローザの隣に立つ自分の姿を夢見た。
皇太子妃となるべく、ナル・アレフローザと対面したとき、ルーセイラの胸は緊張の極にあった。その時のアレフローザはルーセイラにほとんど声を掛けることもなく、まともに見ようともしなかった。
「お気にいっては下さらなかった」
そう一人決めして悲嘆にくれるルーセイラの元に数日後
「皇太子妃とする」
旨の皇帝からの勅使が訪れた。
ルーセイラは感激のあまり泣き出した。
それから結婚式までの間、ルーセイラには幸せな日々が続いた。
「この前、お目にかかったときはほとんど、お声を掛けては下さらなかったけれど、晴れて夫婦となった暁にはいろいろとお話下さるだろう」
結婚後の生活と、その相手を夢に描くことに関してはルーセイラは、世の常の少女と何ら変わることはなかったのである。
しかし、結婚してのちもアレフローザのルーセイラに対する態度はよそよそしいままであった。
ルーセイラは失望した。
「嫌われている」
とルーセイラは思った。
自分が皇太子妃となったのは、殿下のご意向ではなく、何か別の力が働いたのに違いない、と思い込んだ。
こうして、もし何かきっかけさえあれば、おそらくは人もうらやむ仲となったであろう若い夫婦は、そのきっかけをつかむことのないまま、年月を重ねた。
ルーセイラが妊娠することはなかった。
妻との間に暖かな心の交流を見いだせなかったナル・アレフローザであったが、以後の数年間は、他の女性を渉猟するというようなことはなかった。
その気になれば世の中の美女をいくらでも手に入れることが可能でありながらそうしなかったのは、理由が二つある。
ひとつはよき皇太子でありたい、とする気持ちが強く、
普段の意識の多くがそのことによって占められていたこと。
そしてもうひとつは世のどの女性をみてもルーセイラ以上に美しいと感じることはなかったことによった。
アレフローザは心の深い部分では常にルーセイラを求めていたのだ。
皇帝は折に触れ、帝国内の各地を巡幸する。アレフローザが即位した翌年、二十三歳の時の巡幸先は帝国内で東方と総称される領域であった。
東方の中でも最も繁栄した都市のひとつであるヤナハラとその周辺地域が巡幸の場所に選ばれた。
巡幸の途上、周辺地域のひとつクカ地方の領主である伯爵コスロフの館に泊まったアレフローザはそこで一人の女性に心惹かれた。
皇帝の元に挨拶にきたコスロフ自慢の愛妾シュアンであった。
美しさという点でいえば、やはりルーセイラには及ばない。
皇帝はそう思った。しかし、その容姿は、アレフローザの官能を刺激した。
有り体に言えば皇帝は「抱きたい」と思ったのだ。
アレフローザは生来のものか、意識してそうなったのかは定かではないが、元々女性に対する肉体的欲望はそう強くはなかった。
ルーセイラに対しても心密かに求めていたのは主に精神的な交流であった。
そのアレフローザがシュアンに対しては違った。
東方に居住する民は帝国中枢部の民とは異質の民族である。
本来のラグーンの美の基準から言えば、決して美人と称される容姿では無いはずだった。が、シュアンは、東方的価値観においては、やはり大変な美人であったのである。
「東方には帝国中枢部とは異質な美がある」
巡幸を重ねる中で、アレフローザは東方の風物を見るにつけて、そう感じていた。
そしてそれは女性美についても同様であった。
これまで、皇帝としての権力の乱用を厳に慎んできたアレフローザであったが、この時はコスロフに対して、シュアンをもらい受けたい旨申し入れた。
シュアンを手に入れるに際してコスロフはそれなりに苦労はした。人妻であり子供もいたシュアンをその家族から無理矢理に引き裂いたのであったから。
むろんコスロフのもつ権力によればそのことは可能であった。しかし、
「人々の上に立つ者には高貴なる義務がある。貴族は一般民の模範たるべくあらねばならない」
それが帝国貴族に求められることであったから、コスロフは自らの評判の下落と引き替えにシュアンを手に入れたのだ。
それからまだ一年もたっていない。
コスロフは一応、控えめに抵抗は試みた。
シュアンが一般民の出身であること。陛下より年上であること(この時二十五歳であった)。
かつては人妻であり、子供もいること。
しかし、アレフローザの意向を翻すことはできなかった。
シュアンを手放すことはなんといっても惜しかったが、
「これで陛下の覚えがめでたくなれば。なんといっても陛下とは特別な関係で結ばれることになるのだから」
こう思ってコスロフは自らを慰めた。
アレフローザとシュアンの間に、翌年、男の子が産まれた。
アレフローザにとって初めての子供であった。イリューシュトと名付けられた。
自分との間には出来なかった子供を陛下は別の女性との間にもたれた。
このことによりアレフローザとルーセイラとの間の精神的破局は決定的なものとなった。
それまでルーセイラは貞淑な妻であることに異議を挟まれるような行動をとることはなかった。
「陛下はいつか、私の方を振り向いて下さる」
ルーセイラはそう信じていた。
だが、今回のことは最終的な打撃であった。
ルーセイラの心の中に秘めていた何かが壊れた。
以後、ルーセイラは多くの若い貴族と浮き名を流すようになる。
元々、帝国には男女関係に関しては自由な風土があった。結婚前も結婚後も人々は自由に恋愛を愉しんだ(コスロフが非難されたのは、それが無理強いであったからだ)。
若き美貌の皇后の変化は、その元に多くの若い貴族の求愛の申し込みをもたらすこととなった。
領主コスロフに連れ去られた、スオウの妻シュアンが、今度は皇帝に見初められ、皇宮の住民となった。
そのことは、当然大きな噂となり、スオウとメイリンの耳にも入った。
スオウは、驚倒した。
スオウの村を統べる領主コスロフの元にいるのであれば何かのおりに、ひとめその姿を見るような機会もあるかもしれない。
そのことを心の支えにしていたスオウだが、シュアンは遥か遠くに去ってしまった。
また、時が経過した。
スオウは、黙々と弛むことなく、日々を送った。
娘メイリンの成長を楽しみにしながら。




