エルサーナ叙事詩2 〜マンドハイ
草原の一部族アルーサの汗、エルラスの長子。今は亡き愛妾セルとの間に産まれたエルサーナは草原で成長した。
エルサーナは特別な人間である。
年を経るにつれて、アルーサの民たちの中で、
そのことは、むしろ当たり前のことであると見られるようになった。
父であるエルラス。同母妹セレナは、エルサーナに対して家族として接していた。
そしてもうひとり。エルラスの正妻であるラルフィンとの間に産まれた、エルサーナの六歳下の弟、嫡子エルラシオンである。
ラルフィンは、アルーサの中でも、汗の家系に準じる勢力を持つ一族の娘であり、幼少の頃からエルラスの許嫁となっていた。
だが長じたエルラスは、アルーサの中で、ずば抜けた美貌をうたわれていたセルと恋仲になった。
セルは一般民の家系であったので、正妻にはできない。
帝国ラグーンでは、男女の仲には寛容で、結婚前だけではなく、結婚後も配偶者以外の異性と自由に恋愛を愉しむという慣習があった。
が、草原においては、そのアンチテーゼであるかのように、生涯において、肌を接する異性は配偶者ひとりであるべき、という不文律があった。
エルラスが選択したのはセルを愛妾とし、ラルフィンとは結婚しない、ということだった。
セルは、エルラスより二歳年下であり、セルが亡くなったとき、エルラスは二十三歳だった。
草原の不文律は、年若くして配偶者を失った人にまで適用される訳ではない。
しかしエルラスは、セル以外の誰かをあらためて妻にする気はなかった。
ラルフィンも草原における適齢期を過ぎても誰とも結婚しようとはしない。
セルが亡くなって一年が経とうとした頃、エルラスは、ラルフィンに告げた。
自分はもう誰とも結婚しない。どうかお前も誰かのところに嫁いでくれ、と。
ラルフィンは、頷かなかった。
「私はあなたの許嫁です。そのことを誇りとして、これからも生きてまいります」
エルラスはセルを愛妾とし、ふたりの子を成した。
その間、ラルフィンは、どのような思いを持って、毎日を過ごしてきたのだろう。
エルラスはラルフィンの深い哀しみにようやく思い至った。
エルラスはラルフィンを妻とした。
翌年、男の子が誕生した。エルラシオンと名付けた。
エルラシオンが物心がついた頃。兄エルサーナは、既に十歳になろうとしていた。
兄、エルサーナは特別な人である。
エルラシオンは、そのことは生来のものとして受け入れた。
エルラシオンは、年齢を考慮にいれても極めて聡明な少年であったので、弟として兄に甘えるような態度は取らなかった。
エルラシオンの回りにいるアルーサの民たち。
自分たち以外に、兄弟の関係にある少年たちは、もちろんいくらでもいた。
彼らに比べて、自分と兄の関係がどれほど特殊か。
この人々を統べる汗の息子だからか。確かにその意味での特性はあるだろう。
だが、それは本質的なことではない。
兄、エルサーナは普通の人ではない。
自分は兄に憧れているのだろうか。
エルラシオンは思う。
いや、兄は自分が憧れの対象にするような人ではない。
長子であるとはいえ、兄は愛妾の子。庶子である。
自分は正妻の子。嫡子である。
身分は、自分が上。
だが兄、エルサーナに対してそのようなことは何の意味もない、
まだ幼くはあったが、エルラシオンは、兄に対する甘えた感情も、嫉妬に類するような感情とも無縁であった。
兄に対しては、高みに至った人として、ただそのように接するだけ。
その意識は、エルラシオンにエルサーナとは異なる、一種の威風をその身にまとわせることになった。
家族以外の民たちのエルサーナに対する態度は、そうではない。
ただひたすらな讃仰の念。
エルサーナは饒舌な男ではない。むしろ寡黙である。
口舌をもって、草原の民たちをひれ伏させているわけではない。
ただ、その姿が余りにも美しく、威風を超えた聖性を感じざるをえないのであった。
母セルが亡くなった直後、三日間、生死の境をさ迷い、変貌した姿で生還したとき、エルサーナはその身に剣を持っていた。
派手な飾りはなく、綺羅綺羅しさとも無縁であったが、その剣が、世にあるどんな名剣をも超えたエルサーナが持つに相応しい、やはり聖性を帯びた剣であることは明らかであった。
「その剣をどこで手に入れたのだ」
父、エルラスがエルサーナに訊ねた。
エルサーナは答えなかった。
その剣は、いつの頃からか聖剣エターナルと呼ばれるようになった。
聖剣エターナルを佩き、エルサーナは時に、愛馬アークトゥルスの背に乗り草原を疾駆する。
その姿を見ることになった草原の民びとは、自然と拝礼の姿勢をとることになるのであった、
そのエルサーナの、他の人々が決して見ることのない姿を知る人が、ただひとりいる。
セルが病に倒れたあと、エルサーナとセレナ兄妹の日常生活の面倒をみることになったマンドハイである。
マンドハイは特に美しい容貌をしているわけではない。むしろごく平凡な、という形容が相応しい。
が、エルサーナとセレナに対して全身全霊で仕えた。
母の記憶がほとんどないセレナはマンドハイに、あたかも母であるかのように接し甘えた。
エルサーナがマンドハイに対して、甘えたような態度を取ることはない。マンドハイに対してさえも、エルサーナは、やはりエルサーナだった。
が、エルサーナは日常生活における様々な細々とした些事を自らが行うことはない。全てマンドハイに任せきりである。
必然的に、エルサーナの身近に接する時間は、マンドハイが図抜けて多い。
いや、マンドハイ以外にエルサーナと身近に接する機会があるのは、セレナ、エルラス、エルラシオンだけだ。
セレナは、エルサーナとは、比較にならないほどマンドハイに、日々まとわりついているので、必然的にエルサーナと身近に接することは、それなりに多い。
が、同母妹といえども、エルサーナとセレナの間に、通常の兄妹と同じような交流があるわけではない。
そして、エルラス、エルラシオンについては、稀に儀礼的とも言えるような言葉を交わす程度だ。
マンドハイは日常の必要に応じて、エルサーナと言葉を交わす。マンドハイは馴れ馴れしさともとれるような態度をエルサーナに対してとるようなことはしない。
エルサーナに対してそれは許されることではない。
いかにマンドハイであっても、そのことに変わりはない。
マンドハイにとって、セレナはひたすら可愛い。
エルサーナについては、……マンドハイは、やはり、可愛いというにも似たような感情を覚えていたのだった。
そして、エルサーナ様は、他の人とは違う感情で私のことを見てくださっているはずだ。
マンドハイの一方的な思い込みかもしれない。
だが、マンドハイは、そう信じていたのだ。
草原の女性は概ね二十歳までに配偶者を得る。
マンドハイは二十歳を超えた。
マンドハイはどこにも嫁に行く気はなかった。生涯、エルサーナとセレナの面倒を見るつもりだった。
が、マンドハイが二十二歳になった時、マンドハイは嫁ぐことになった。
相手の若者はアルーサの男ではなかった。草原の別の部族、セイルーンの民であった。
アルーサとは相当に離れた地域を居住範囲とする民だ。
アルーサの民が他の部族の者を配偶者とするのは、特に珍しいことではない。
だが、セイルーンの民を配偶者とした者は、これまでいなかったはずだ。
なぜそんなことになったのか、マンドハイには分からなかった。
マンドハイが、迎えに来た相手の若者とともにアルーサを去る日。
セレナはその身を震わせて嘆いた。
エルサーナは普段と何も変わらなかった。
エルサーナとマンドハイは、最後に相見た。
その瞬間、エルサーナが常とは異なる眼と表情をマンドハイに見せた。
エルサーナは何も語らない。
マンドハイは、エルサーナが最後に見せた眼と表情をいつまでも忘れることができなかった。
マンドハイがアルーサを去った時、エルサーナは十一歳だった。
帝国ラグーンの、ナル・アレフローザが皇帝に就位し、戴冠式を挙行したその二年後の出来事である。




