旅立ちと草原の余韻
草原の夜明けは静かだった。
白い霧が馬の群れを包み、草葉に露が光る。冷たい風が幕営を撫で、遠くで馬の嘶きが響いた。
蓮明は幕営の外に立ち、地平線を見つめていた。
その表情は迷いを振り払ったかのように澄んでいる。
昨夜、彼は決意したのだ。自分は御用商人として小蓮商会の名を掲げ、商いを通じて縁を繋ぐ。そのために生き抜くのだと。
後ろから愚楽の声がした。
「よう、早えな。まだ飯も出来てねえぞ」
「……飯の心配か」
蓮明は思わず笑った。
愚楽は手を頭にやりながら大あくびをした。
「腹が減ったら歩けねえだろ? それに俺はもう、そろそろ行く頃だ」
「行く?」
「ああ。お前は商会を背負え。俺は……また飯を追って旅に出る」
愚楽の瞳はどこか遠くを見ていた。
蓮明はしばらく黙り、やがて頷いた。
「そうか。お前は、止まる男じゃない。馬鹿だが……縁を結ぶ風のような存在だ」
二人は焚き火の前に座った。
湯気の立つ乳茶をすする。塩気の効いたその味が、草原の朝を象徴するかのように濃かった。
ふと、愚楽は湯気の向こうに過ぎ去った顔を思い浮かべた。
「……小蓮のことを思い出した」
「小蓮?」
「昔、俺と舞台に立った娘だ。子どもだったのに、笑い上手で、俺の馬鹿をうまく引き出してくれた。……やがて母になり、最後まで舞台に立って、笑いながら去っていった」
愚楽の表情は、珍しく静かだった。
「俺は馬鹿だから、あの時どうしてやるのが正しかったか分からねえ。けどな、小蓮が『人の道を歩むよ』って言ったとき、俺は……その背中を笑い泣きで見送った。それだけは覚えてる」
蓮明は黙って耳を傾けた。
自分の商会の名「小蓮」に、その女性の存在が宿っていると直感した。
やはり愚楽と一族は、深く結びついているのだ。
愚楽は急に笑顔に戻り、乳茶を飲み干した。
「まあ、旨い飯と笑いがあればいいさ! 名は愚楽! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない!」
蓮明は呆れながらも笑った。
「その言葉、必ず子や孫に伝えよう。『馬鹿だが縁を結ぶ道化がいた』とな」
愚楽は立ち上がり、空を仰いだ。
東の地平に太陽が昇り、黄金の光が草原を染めていく。
馬の群れが走り出し、風が彼の衣を揺らした。
「じゃあな、蓮明。また会うかもしれん。飯の匂いがする場所でな!」
蓮明は強く頷いた。
「その時は必ず“小蓮”の名を掲げて迎える」
愚楽は大声で笑い、馬の嘶きとともに人影の中に消えていった。
草原に残った蓮明は、拳を胸に当て、心の中で誓った。
「小蓮商会は必ず残す。血と縁を繋ぎ、いつかまた……愚楽と交わるために」
こうして、ひとりの馬鹿は再び放浪に旅立ち、ひとりの商人は未来を背負った。
草原の風は冷たくも清らかに吹き渡り、その余韻は遠い未来へと続いていった。
チンギス・ハーン編完結です。




