羅刹の家
部屋の空気は、まるでそこだけ吹雪が巻き起こっているかのように冷え切っていた。
その理由は、そこに鎮座しているアキラの母、一条遙の醸し出す、怨念漂うの雰囲気のせいであった。
『アキラが、綾乃の呪いに掛かっている』
それは遙にとって確定事項だった。
それならば先日のおかしな言動も、瞳の奥に映る“何か”の正体も、現在の二人の様子も、全て理由が付いたからだ。
呪いを解き、アキラを無事に自分の元へ返してもらう。
それが、遙にとって絶対に成さねばならない試練。
その為ならば、この命を削る事も辞さないつもりだった。
「……とりあえず、座ってもらおうか」
アキラの父、一条マコトが二人に勧める。
実は、この部屋にはマコトも存在していた。
一条家の当主であるので当然といえたが、遙の出す殺気に怯え、体を縮めるようにして気配を消していたのだ。
先ほど綾乃の詫びの言葉を聞いてから、しばらく膠着した時間が流れていた。
しかし、二人が立ったままでいるのを気遣い、ようやく口を開いたのだった。
マコトも、二人の只ならぬ雰囲気を気にはしていた。
しかし、隣に座る遙の尋常では無い様子の前では、それを迂闊に口にすることができなかったのだ。
「「失礼します」」
二人は声を揃えて言い、アキラはきっちりと綾乃をエスコートし、椅子を引いてあげた。
微笑み合いながら、それを受ける綾乃の姿を見て、遙の目が血走る。
それを横目に、なんとか遙の気を落ち着かせたくて、マコトが給仕を呼び紅茶の用意をさせた。
アキラは出された紅茶を飲んで、綾乃と楽しそうに話す。
「綾乃の珈琲もすごく美味しいけど、お母様の淹れる紅茶もとても美味しいんだよ」
「それは今度是非、頂いてみたいな」
「期待してくれていいよ」
——今すぐ即効性の毒を入れねば。
遙は、それを実行に移す手段を考える。
目の前の悪夢を今すぐにでも終わらせなければ、自身の心が持たない。
「……アキラ、目上の方に失礼な言葉を使うものではない」
マコトが、息子の無作法を咎める。
普段、礼儀を失する事のないアキラが、目上の人間に友達のような気軽な口を利いている。
その上、呼び捨てまでしてる様は、父として看破出来ない事であった。
「良いのだ、もうアキラとは他人ではないのだから」
嬉しそうに告げた綾乃のその言葉で、遙は限界に至る。
今すぐ殺そう。
その呪われた口を塞がなくてはならない。
その覚悟を決めた時、綾乃から新たな言葉が告げられた。
「実は、今回の件は遙様へのお詫びもあるのだが、私の体の事情も関係している」
遙は、綾乃から出されたその言葉で、一縷の望みを持った。
——この女は呪術師だ。
それが短命なのは、宿めともいえる。
大和家の力で集めた情報によれば、紫星の後継者はアキラと同い年。
優秀ではあるが、呪術には染まっておらず、鬼の力も弱い。
人に骨折程度の怪我を負わせるのが、現状では精一杯だという報告だった。
その娘が男女共学の高校へに通っているという事実、それが情報の確かな裏付けになっていた。
おそらく、後継者を育てるのに失敗したのか、それとも鬼の力を育て損ねたか。
もしや、この女は自らの死期を悟り、紫星と後継者の庇護を一条に求めているのではないか。
その為の足掛かりとして、アキラを取り込んだ可能性が出てきた。
自らその弱みを明かした事が気に掛かるが、そう考えれば筋は通っている。
ならば、この女が死ぬのを待ち、力の乏しい紫星の娘を取り込む。
それが、アキラにとって最善の道かもしれない。
その新たな可能性に、遙は思考を張り巡らせた。
目の前にある許し難き状況は、ひとまず我慢しよう。
何より優先すべきはアキラの安全なのだから。
そう考え直し、遙は自身を落ち着かせる為にカップを手に取った。
「……失礼だが、体の事情というのは?」
マコトが、確認するように問いかける。
「実は、私はこれから産休に入ろうと思う。それをもって紫星自体を解体するつもりだ」
——産休?この女が?
怒りで渇いていた喉を潤しながら、その言葉を聞き訝しむ。
極度の男嫌いとして知られていた女だ。
確かに外見は良いのだろうが、その悍ましい中身から滲み出るものは、並の男など一切近寄りさえしないだろうに。
過去に直接対峙した事がある自分にはわかる。
この女は、人間である事をとうに捨てている。
そのような女に近付ける男など、そういるはずも無い。
それこそ、人を超えた力を持つ異能の存在くらいだろう。
物好きな男もいるものだ。
そのように考えた遙は、すぐに辿り着かなければいけないはずの簡単な答えに思い至らなかった。
きっと脳が、防衛本能でそれを考えさせなかったのだろう。
子供を産む為に事業を全て手放すなど、とても正気の沙汰とは思えない。
だか実際、ウチヘ正式に打診を打っていることから本気の度合いは確かなのだろう。
紫星を手土産に、頼りない娘の後継人になってくれとでも言うつもりか。
紅茶の香りのおかげか、少しだけ気持ちが落ち着きを取り戻し、頭が働いて来たのを感じる。
「……それはおめでとう御座います、再婚されるのですかな?」
マコトが、遙の雰囲気がわずかに和らいだのを感じ取り、安堵したように話を続ける。
「いや、結婚は考えていない。ただ、これから何人も産むつもりだから、仕事などしていられないのだよ」
それを聞いて、遙はカップの縁で隠れた口もとに、冷笑を浮かべた。
——この女、男に狂ったか。
男に影さえ踏ませぬ潔癖さゆえに、初めての恋でもしておかしくなってしまったらしい。
こうなると憐れなものだな。
クズの割には、なかなか良い情報を聞き出した。
そう夫を評価し、綾乃に対する警戒が少し緩む。
「……それは、なんと言っていいか……しかし、ご本人同士が納得しているなら、他がとやかく言う事でもありませんな」
マコトが慎重に言葉を選んで、その場を取りなす。
「認めて貰い、感謝する」
綾乃は、そう言って嬉しそうにアキラを見た。
そこで初めて、遙の脳が、とある可能性を引き出す。
それは、決して考えてはならない禁忌ともいえる答え。
マコトは、目の前で微笑み合う二人を見て、思わずその可能性の答えを聞いてしまう。
先ほどから感じていた、違和感を払拭しなければならないと思ったからだ。
「……踏み込んだ事を聞きますが、そのお相手というのは?」
——聞くなクズ!
——その先を聞いてはいけない!
マコトの質問に、遙の心は一気に乱れ出す。
顔は蒼白で、手に持ったカップは激しく揺れていた。
溢れた紅茶が、テーブルを濡らし、遙の白い洋服にも染み込んだ。
「もちろん、アキラだ」
他にいるはずも無かろうと、綾乃は誇らしげに胸を張った。
「……ア、アキラはそれで良いと?」
二人の幸せそうな姿を見て、薄々と察していたマコトは、その現実の重さに動揺する。
息子はまだ十六歳だ。
しかも病み上がりのうえ、なにか得体の知れない状態になっている。
それなのに、自分の母親に近い歳の女性を孕ませるなど、そこに息子の意思が働いてるとは到底信じられる事では無かった。
「僕がお願いして、産んでもらえる事になったんだよ」
心から嬉しそうに父へ告げる言葉。
マコトはそれに絶句する。
そして、錆びた機械のように、ゆっくりと隣に座る妻を見た。
そこには、真の羅刹女が座っていた。
マコトの肌が粟立つほどの冷気を纏い、眼差しは深く座り、目視できるほどの空気の揺らめきが起こっていた。
そして、ついに悲劇の幕が上がる事となる。
それが誰にとっての悲劇になるかは、今はまだ誰も知らない——。




