不倶戴天の敵が息子と恋仲な件
その部屋には羅刹がいた。
一条遙。
その名を持つ羅刹女が、そこに座していたのだ。
アキラと綾乃が、手を繋いでその部屋に入って来た瞬間から、部屋の空気は修羅場の様相を醸し出した。
二人は同時に頭を下げて挨拶をする。
「お待たせ致しました、お母様」
アキラが先に声を出した。
「お久しぶりです、一条様。この度は貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございます」
それに続くように綾乃が丁寧な言葉を選び、深く頭を下げる。
だが、その手はアキラと握られたままだった。
遙の顔からは、いつもの張り付いたような笑顔の仮面が剥がれ落ちていた。
殺気を越えて、怨念の籠った視線で綾乃を刺す。
「……本日はどんな御用件で?」
話の概要は、すでに部下を通して聞いていた。
紫星の企業群を一条に譲渡したいという、あまりにも突飛な申し出。
何ひとつとして向こう側に利がなく、謀略と考えた方が自然だった。
ましてや、紫星というのは鬼の棲家と言われるほどの悪辣非道の家。
かつて、一条とも激しく争った過去がある。
そして、その争った当人同士がこの場にいた。
「その節は、大変ご迷惑をお掛け致しました」
「そして、遙様の御病気の件も……私の思惑が働いておりました。重ね重ね、申し訳ございません」
綾乃はそれを明け透けに語った。
弁明もなく、真摯に自身の非を認め頭を下げる。
それは、遙が見た事の無い紫星綾乃の姿だった。
遙は、まるで別人のようなその姿に、猜疑心をより深める。
普通に考えたら、内部に入り込み一条を乗っ取るつもりなのだろう。
——この私が、かつてそうしたように。
一条家は長い歴史を持つ名家。
だが今や、誰が見ても遙のものだった。
その二百年以上の時の重みを、たった二十年足らずですべて掌握したのだ。
同じ様なことを、紫星綾乃が企てたとしても何の不思議もない。
現に、自身が二年もの間、伏せっていた理由のひとつが、目の前の女に呪詛を掛けられたという失態からであった。
アキラの事があったとしても、普段の遙ならば呪返しを完璧に行ってたはずだ。
それほどまでに、アキラの容態に心を砕かれていたのだ。
なぜか急に解けた呪いを詳しく調べてみると、確かにこの女の痕跡が残っていた。
あの時の私と同様に、アキラはこの女の呪いに掛かっている。
それは疑いようがない。
私を殺す事に失敗したから、私が自分より大事にしているアキラを狙ったのだろう。
そうでなければ、アキラがこんな年増の鬼女と手を繋いで現れるなどという、言語道断な行いをする理由が無いからだ。
私の愛するアキラが、こんな腐れ鬼女に呪いを掛けられ拐かされている。
信じたくない目の前の事実が、遙を羅刹に変えていた。
強引に引き離して、アキラにどんな呪いの影響があるか分からない以上、迂闊な手が取れない。
それが遙の焦りと苛立ちを増していた。
この女は、こちらに譲渡の連絡を入れてきた際、こう言ったらしい。
『一条アキラの助けを借りて、紫星の全てを譲渡させて欲しい』と。
その言葉の意味を遙はこう解釈した。
アキラを人質に取ったのだ、と。
無事に返して欲しければ、紫星を獅子身中の虫として中に入れろという脅迫なのだろう。
むしろ、一条を寄越せと言わないのが、より逃げ道を塞いだ周到な手だった。
もしそう言われたならば、子供たちと自分に必要な会社だけを残して、あとは夫のマコトごと一条の名を渡してしまえば良かったからだ。
だが、綾乃はそれを口にしなかったのだ。
——嫌な女だ。
昔から、目障りな存在であった。
歳は自分と二つほどしか違わない。
社交界などで幾度か顔を合わせる機会があったが、何者にも笑顔を見せず、その氷のような佇まいのみで場の空気を掌握する。
男に対しては、触らせるどころか手の届く範囲に近づけることすら許さない。
その潔癖さと美貌が、彼女の存在を人々の目に特別なものとして映らせていた。
それはまさに女帝の品格。
その傍若無人な自由さは、自分とはまるで真逆であった。
遙は、その卓越した頭脳と社交性で周囲を取り込み、意のままに操ることを常としていた。
ゆえに、誰に対してでも笑顔で接して会話をし、情報を引き出す。
相手は、自分が気付かないうちに絡め取られている。
それはまるで、蜘蛛の巣に引っ掛かった餌のようだった。
そうやって、一条家も手中に収めたのだ。
それは遙の実家である、『大和』の意向だった。
大和家は陰陽師の血筋で、日本を外敵から護り、影から支えている家系だ。
遙は、幼少の頃より家の厳しい掟に縛られ、きつい修行に明け暮れていた。
与えられた課題をひたすら消化する、そこに心は必要なかった。
命令を正確にこなし、時を刻むだけの生き方。
それは機械のような人生だった。
遙には生きているという実感など、どこにもなかった。
結婚相手も、大和家の指示で宛がわれた。
自由恋愛などもってのほかだ。
そもそも、恋に心が揺れた事なども無かったが。
実際、結納時に初めて会った、結婚相手である一条マコトという男にも何の興味も湧かなかった。
全ては家の為、それが遙の行動原則であったのだ。
大きな変化を起こしたのは、アキラが産まれた時からだ。
その存在が、ただ愛おしかった。
自身の心の場所を、初めて知るほどに。
この子に会う為だけに、生きてきたのだと確信した。
その存在は、まるで魔法のように、機械のような自分を人間に変えてくれた。
それは、遙にとっての救いだったと言える。
自分の生きる意味が、そこにあった。
それに加えて、アキラは優秀だった。
優秀などという言葉では済まされないほどの才能を持って生まれて来た。
その器は、底を感じさせない程だったのだ。
遙に、途方もない夢を見させるくらいに。
一を教えれば無限に知る。
その神童の姿は遙を夢中にさせた。
生活の全てをアキラに捧げた。
仕事中であってもそれは変わらず、常に傍らに置き、何よりも優先させていた。
アキラが側にいるだけで、人々はその才能と優しく清らかな性格に触れて、虜になっていく。
それは、一条を掌握する過程をかなり短縮させてくれた。
遙にアキラを利用する気は毛ほども無かったが、結果的にアキラは遙の仕事を想定外に早めてくれたのだ。
小学校など飛び越し大学に入り、その後も遙の様々な仕事を助けてくれた。
アキラに一条は狭すぎると思い、実家の大和どころか日本をその手に握らせようと、本気で構想を練り始めていた。
大和家の意向で、アキラの下に兄妹を年子で二人作った。
その子供たちのことも、後々の計画に加えていった。
計画の達成の為には、アキラに忠誠を誓いその手足となるような信頼できる身内が必要だと思ったからだ。
夫のマコトには、一条の運営以外の期待は特にしていなかった。
だが、アキラを自分に産ませてくれた事だけは、深く感謝を覚えていた。
それゆえに、遙なりの献身を尽くした。
全ては、アキラの未来の為、ひたすらに道を整えていったのだ。
教育環境は全て超一流のものを揃え、食事を含む体調管理にもスタッフを揃えた。
アキラの負担にならないように、出来るだけ自由な時間も確保し、自身の愛情をふんだんに注いで育てていく。
アキラは、その期待に余す事なく応えてくれた。
そして、成果を出し続けた。
その成長の速度は、一足飛びどころではなく、まさに空を駆けると表現するものだった。
遙は幸福の中にいた。
すでに一条を完全に掌握し、根回しの済んだ他家を束ね終えていた。
遙が自ら直接対峙して、傘下に収めた家もある。
実家の大和家すら、その手中に収めることが現実味を帯びていたのだ。
その圧倒的な権力は、すべてアキラに手渡すためのもの。
遙の脳内では、アキラが日本を手中にする未来は、もはや夢ではなかった。
それが幻となったのは、アキラが十一歳の時だった。
アキラが、原因不明の昏睡状態に陥ってしまったからだ。
病状については、いくら調べても理由が分からなかった。
あらゆる医療を施した。
さらには実家の伝手を使い、一流の祈祷師や呪い師、海外の治癒師にまで頼った。
だが、効果は一向に現れなかった。
遙は憔悴した。
悪い夢なら早く醒めて欲しいと願った。
病院のベッドで、規則正しく寝息を立てるアキラの手を握り、目覚めてくれさえすれば、もう何も望まないとすら思った。
遙の心身は消耗し、体の不調が続く。
それでも毎日、時間があればアキラの病室に入り浸っていた。
ただ、目覚めを願う日々。
それは三年もの歳月を掛けて叶う。
——最悪に近い形で。
アキラが目覚めたとの報告を受け、期待を胸に急いで駆けつけた。
しかし、そこにいたのは片目を自ら抉り、狂ったように絶叫を続けるアキラの姿だった。
それを見て、遙は心を壊した。
そのまま入院した病院のベッドで、夫から死刑宣告のような言葉を告げられた。
アキラを誰も知らない別荘へ隔離し、一条家から廃嫡した事。
そして、アキラの正気は、おそらくもう戻らないだろうというものだった。
その言葉を聞いて、遙は気を失った。
そこからは、すでに記憶が曖昧だった。
なんとなく、覚えのある呪詛の匂いが辺りに漂っていた気がする。
暗い闇の中で、生きてるのかどうかもわからない日々。
もう二度と元のアキラに会えないのならば、このまま死んでしまいたいと思っていた。
次に記憶が戻った時、目の前には少し成長したアキラの顔があった。
元気そうな顔で、自分に『ただいま』と言ってくれた。
それはまさに、夢にまで見た光景だった。
頭の中の黒い霧が、少しづつ晴れていくのを感じる。
手のひらに息子の体温を感じ、夢ではなく、確かにここにいることを確信できた。
アキラに何かを飲ませてもらうと、体の中に熱が流れて来る。
アキラを切り捨てたクズが何かを言っていたが、そんなことはどうでも良かった。
アキラがまた自分のもとに戻ってきてくれた。
それだけが遙の心に広がっていった。
入院中に、アキラが何度も顔を見せにきてくれた。
そして、どこか懐かしい気持ちになる不思議なお茶を飲ませてくれる。
それを飲むと、心も体も、筋力さえも驚異的な速さで回復していくのを感じた。
結果、医者が驚くほどの回復力を見せ、あっという間に退院が決まる。
それもこれも、すべてアキラのおかげだと思った。
自身の身体に残っていた呪詛の残滓を丹念に調べてみたら、あの紫星の女の扱うモノと一致した。
おそらく、アキラの事で弱っていた心に付け込まれたのであろう。
それが、なぜ急に解かれたのかはわからなかった。
だが、アキラが健康になってくれた奇跡に比べれば、それは些細な事だった。
もちろん、万全の体勢を整えてから紫星は潰すつもりだ。
だが今は、先にやらなければならない事が多かった。
クズと離縁して、アキラと大和へ戻る。
そして、アキラが望めばまた一緒に夢を見よう。
もし仮に、アキラがそれを望まないのであれば、二人でゆっくり今後を生きてもいい。
自分はきっと急ぎ過ぎたのだ。
それが今回の事を引き起こしてしまったのだろう。
アキラが側にいてさえ居てくれれば、他に望む事など無かったはずだ。
知らず知らずに、無理をさせてしまっていたのかもしれない。
今後は、出来るだけ息子の意思を尊重させようと決めた。
退院して一条の屋敷に帰ると、クズは廃嫡を解いてないばかりか、アキラを家に戻すことすらしていなかった。
このクズは、どこまで私のアキラを蔑ろにするのだろう。
いっそ、術を使って秘密裏に殺してしまおうかと本気で思った。
アキラも自分を捨てた父親など、情も残っていないはずだ。
だが、アキラの口から出た言葉は、まるで意味のわからない事ばかりだった。
『大和の姓にはならない』
『父親に感謝している』
『普通に生きる』
『廃嫡の撤回を望まない』
どれもこれも、理に適っていない事ばかりだ。
あの聡明だった息子の言葉とは、到底思えなかった。
しかも、こちらの言い分を押し付けるならば、二度と会う事は無いとまで告げられた。
やはり、アキラはまだ回復していないのかもしれない。
そう思って、確認の為にその瞳を覗いた。
——そこには深淵が映っていた。
それは、思わず飲まれそうになるほどの深さだった。
この子は本当にあのアキラなのだろうか?
一瞬、頭によぎったその疑念を、母親の勘が打ち消した。
アキラであることは間違いない。
それは、わかる。
しかし、それだけじゃない“何か”を、その内に抱えている。
しばらく様子を見なければいけない。
また、あのような事になったら、今度こそ取り返しがつかないかもしれない。
こうして、遙は現状維持を選んだのだ。
そして、今、全ての理由が判明した。
『紫星綾乃』
諸悪の根源が、アキラと並んでその手と命を握り、遙の目の前に立っていた——。




