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○○○
「待ってよウグイス」
ボクの手を引き、山へと入っていくウグイス。
上手く言葉に言い表せなかったが、ボクは恐怖を感じていた。
そしてそれと同等の期待。
ボクは一体何を期待しているんだ。
それが分からない。
それが怖い。
「ウグイス」
彼女の名を呼ぶが、ウグイスは一向に歩みを止めようとしない。小さな手足を忙しなく動かして、雪で埋まった冬の山道を黙々と突き進んでいく。
周りが見えていないみたいだった。下手をすればボクの手を引いていることすら忘れてしまっているのかもしれない。
繋いだボクの手は霜焼けになりかけていた。対して小さな手は白く冷たいままだ。
頬も風が吹くたびに切りつけられるように傷んだ。ウグイスは平気なのだろうか。
簡単な防寒具しか身につけていないボクも人のことを言えないけれど、ウグイスのドレスはこの場では明らかに場違いだ。
「あ」
そう思った瞬間、ウグイスはスカートの裾を張り出した枝に取られて転んだ。
小さな悲鳴がして白磁の手がボクから滑るように離れた。
粉雪が盛大に舞った。
ホラ言わんこっちゃ無い。
仕方なく、盛大に雪を被ったウグイスに手を差し出す。指先が赤くなった手を。
頭に雪を乗せたウグイスは恨めしげな目で、ボクを睨みつけると、ボクの手を払いのけて自力で立ち上がった。ウグイスが立ち上がった後には、キレイな人型のへこみが出来ていた。
照れ隠しなのか、唇を尖らせてドレスについた雪を落としているウグイス。
「……なにかしら」
「あのさ、危ないからもうちょっとスピード落とさない? それかボクがキミをおんぶするのはどうだろう」
彼女に気を使ったつもりだったのだが、言葉がストレート過ぎただろうか。ウグイスの放った雪弾がボクの顔面に炸裂した。
思わず倒れそうになるボク。
それでもなんとか踏み止まった。手にしていた小箱ももちろん無事だ。
「春雪。アナタがそう言うから、私は背負われてあげるのよ」
この言い草。素直におんぶされるのはプライドが許さないらしい。
ボクは膝を折ってあまり広いとは言えない背中を差し出すと、肩に乗せられた手に力がこもって軽い重みが背中に乗った。
ウグイスは僕の予想よりもずっと軽かった。これならなんとか山頂へと行けそうだ。
膝を伸ばす際、「よっ」と軽く上体を揺らし、収まりを良くする。
「高いわ」
「そうかな?」
「そうよ。それに暖かいわ」
肩口がくすぐったい。ウグイスが顔を埋めたのだ。彼女の髪がボクの肩へと流れた。
「あったかい……まるで春の空を飛んでるみたい……」
視界に入ったのは、前に回されたウグイスの小さな手。温度のない白い手。
改めて思うけれど、あまりに小さい。
冷たい彼女の手はずっとこのままだ。
そう思うと、少し胸の辺りが苦しくなった。
そうだ。
この旅は死出の旅なのだ。
彼女の『ピリオド』を彼女自らが打つための旅なのだ。
だからボクは彼女と二人でここまで来たんだ。
……ウグイス。キミの最期の願いをボクが叶えてあげるよ。
そう決意はしたけれど。
どうしようウグイス。
ボクは少し悲しくなったよ。
●●●
学校へ通って。友人もできて。
ボクの周囲は少しずつ賑やかになっていった。
だけど一人になった時、気づくんだ。
虚無感と言うべきナニカがいつも背後にいることを。ずっと傍にいた親友とも分身とも呼べる暗い闇。
アパートに帰って毎日薄暗い部屋で膝を抱えていた。
虚無感は冷たい腕でボクの肩を無言で抱いた。
左の手首に触れるカッターの薄い刃が教えてくれる『死』。
流れる血と痛みが教えてくれる『生』。
開いた傷口と流血による寒気が、天国にも地獄にも行かない中途半端なボクの位置を明確にしてくれる。
そんな日々を送る自分に失望し、同時に肯定してしまっていたんだと思う。
妥協は肯定に等しく、現状を維持する事にいつからか安堵すら感じていたんだ。
自分が生きる事に意味も目的も見出せない。
死ぬ理由は思いつかないけれど。
生きる理由も見つからない。
ただただ、冷たくなっていった母のようにピリオドが打たれる日を待っていた。
繰り返され、誰かに紡がれ、流れていく毎日の中で、忙しそうな世界が自分の真横をかすりもせずに通り過ぎていく。
ボクはそれを眺めている。
きっとボクは、自分の生き死にさえも他人任せにしてしまいたかったんだと思う。
ボクはただ眺めているだけ。
小さかったあの頃に、母の物語の傍観者であったように。
錆びた刃。
傷から流れる血をなめる。
腐った『命』の味がした。