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「どうしたの春雪」
耳元のウグイスの声で我に返る。
「辛いのなら下りましょうか?」
不本意ながら、ウグイスの吐息が首筋にかかってゾクリと身震いしてしまった。
「いや、なんでもないよ。ちょっと疲れただけだから」
行く手を阻む雪は膝丈ほどまで積もっていて、歩き難いことこの上ない。
ほんの少し足を止めて息を整えるだけのつもりだったのに、ウグイスに心配されるほど気が抜けてしまっていたのか。
自分で思っている以上に疲労が激しいのかもしれない。
「大丈夫だから」
そう言ってボクは前に回されたウグイスの手に、白い箱を持たせた。
彼女の――いや、鶯の――不幸な小鳥の死体が収められた箱だ。
「ここから先、それは君が持っているんだウグイス。それは君のとても大切なものだろう? だったら君が自分で持たなきゃいけない」
コレはウグイスが持つべきものだから。
首の前で交差した小さな手。
心なしか回されていたウグイスの手にギュッと力が篭った感じがした。
彼女の冷たい体温をより密に感じる。
ボクが無言でそんな事を考えていると、ウグイスはボクにしがみつく力をさらに強くした。すでに締められていると言った方が近い。
耳元に寄せられる唇。
それはともすれば風に消えてしまいそうなほど、小さな声だったけど。
「……―――――」
確かに聞こえたよウグイス。
「…………」
ボクは再び上体を揺する。
「ウグイス。このまま真っ直ぐ行けばいいの?」
「そうよ。このまま真っ直ぐ登れば、大きな桜の木があるはずだから――その根元に私を埋めてちょうだい」
再びボクは歩き始めた。
冷たい雪が音も無く降り始めている。
●●●
ある日、手紙を見つけた。
荷物の奥に仕舞った古い本。
記憶の底に埋めた思い出。
白紙のページに書かれた短い文章。
ほとんど忘れていた母の文字。
過ぎ去った時間に削がれた母の言葉。
もう二度と聞くことはない母の声。
日付は母が世を去る数日前のもの。
鉛筆で書かれた文字は擦れていた。
アパートを飛び出していた。
ずっと意識して近づかなかった懐かしい町を記憶だけを頼りに目指し、息を切らして母と暮らした家へと辿り付く。
母と暮らしたボクら家族の家は、取り壊されて平地になっていた。
錆びた鉄線に閉じられ、砕けたコンクリートの間から枯れた雑草が伸びている。
力が抜けた。思わず笑い出してしまったくらいだ。
なんだ。
無くなっていたのか。
もう。なにもかも。
かつての寄す処を残すものは枯れ草に隠れたかすかなものだけ。
そうだ。玄関はここだった。
ボクは足に力が入らないまま、ふらふらと歩いて行く。
指先が現実と重なった記憶の扉に触れた。
今、ボクの目の前には昔母と暮らしていた古い家がある。
扉を開けて、中へと入る。
薄暗い廊下を抜けて、居間へ。
かび臭い澱んだ空気。
そしてもう一つ。
死の匂いだ。
この部屋は時間が止まったままなのか。
奥に見えた四畳半の小さな寝室。
あそこで襖をちょっとだけ開けて待っていれば、母が帰って来る気がした。
寝たふりをしたボクの頭を撫でてくれる気がした。
でもそれは――
もう二度と帰らない日々の残滓で――
もう全ては無くなってしまっていて――
ボクは今を生きていて――
でもだからこそ――
あの手紙を読む事ができて――
涙が頬を伝っていた。
母は幸せだったのだろうか。
繋いだ手。
今はもうそれすら思い出せない。




