「耳を澄ませば、雨の音」
放課後、あれから二日後。
あのツツジの花壇から、遠目にはもう、彼女のあの髪が見えた。
日光を美しく反射する黒光りは、あのツツジのように吸い込まれるような可憐さがあった。
彼女を待たせるわけにはいかない。そう足取りを急いだが、しかしその実、ただ彼女に一刻でも早く会いたい一心であった。
「......ごめんね、待たせたね」
「あ、先輩!」
彼女は慌てて本を片付けて、急いで立ち上がると、
「大丈夫です。
私もさっき来たところなので。」
と、彼女は可愛らしい笑顔で言う。
しかし、本にしおりをおもむろに挟む所作が、五分、いや十分は待っていたことを察させる。
彼女はまた礼儀の整った姿勢で
「先輩、この間は本当にありがとうございました。」
「あぁ、大丈夫。」
「本当に助かりました!
あのあとも雨結構降ってて。」
「あなたが健康そうで何よりだよ。
あ……ほら、立ち話もなんだし、座って座って。」
「あ、お気遣いありがとうございます!」
彼女はぎこちなく座った。小さく「よい......しょっと」と言って。
私はそのすぐ隣に座って彼女の瞳を見た。
真っ直ぐに光っていて、希望と、強情さの混じった茶に染まった、立体感に溢れる瞳をしている。怖さまで覚えるほど完璧で、苛立った。
「あ、そうだ。そうだった。
先輩、名前はなんですか?」
「あぁ、そうか。確かに言ってなかったね。」
顔を見渡して少し笑った。
名前も何も知らないでこんなに親密に駄弁ってたってことがバカらしくなって。
「豊田 淳。君は?」
「汐留 優佳です。」
彼女はわざとらしく礼をして名刺のようにちぎった白紙のメモ帳を渡してきた。
「よろしくお願いします。先輩。
……あはは!」
「下手だな。社会人ごっこは」
「えぇ?そうです?これでも面接には慣れっこですよ?」
「社会人にしては目が輝きすぎている。」
「そこかぁ!」
と本当に悔しそうにベンチを手で軽く叩き始めた。
「......あ、部活は何に入ってるの?」
「バレエです。」
「どっちの?」
彼女は急に一息ついてバッグをずらしたかと思うと、華奢な指先を懸命に動かした。
しかし彼女の顔は母猫のように優しくて、血の滲むような努力と、敵わない才能を感じさせる。
何より、彼女は消え入りそうなほどに儚く、それでいて美しい。
こんなにも艶やかな所作は一度たりとも見たことがない。
私はあまりに感極まって———
「......先輩?」
「あぁ、ごめん。見惚れていたよ」
「そんな、お世辞を」
「いいや、見惚れていた。素晴らしかった。」
彼女はやや俯いた。
「......えへへ、そ、そんな褒められるとなんかくすぐったいですよ。」
「また今度見せてくれ。」
「もう見せませんー......」
「頼む。」
しばしの沈黙が流れた。
「......わ、わかりましたぁ!
機会があればですよ」
「ありがとう。」
「全く......」
そうまた俯く彼女の耳は、赤く色づいていた。
それを見ていると、どこか私まで恥ずかしくなって、後悔から黙り込んだ。
……まるで鼓動すら聞こえてきそうなほど静かだった。
しかし、それもまた彼女と二人っきりのようにも感じられて、不思議と気まずいとまでは思わない。
彼女の方を見ていると、奥から一台、白のセダンが過ぎ去った。
多分六十はでていただろう。彼女の後れ毛が靡いた。
なんとなく車を目で追うと、令嬢だろうか。
一人、後部座席に乗った黒髪の長い女性が乗っている。
彼女にもまた、既視感が色濃く残っていて、淡く滲んだ記憶を呼び起こそうとした。
しかしそれも淡雪のように溶けてしまった。
もう5分も沈黙が流れただろうか。
そろそろ足の組み方も変えようとやや体を傾けると
「......先輩」
と、急に震えた声が聞こえた。
「ん?どうした?」
「昨日は、先輩が夢の事、話してくれましたよね。」
彼女は華奢で細い指を重ね、強く微笑んだ。
「絵、描いてるところみたいです。」
それに驚いて少し顔をあげると、彼女の顔は日が横から差し込んで、彫りが強調されていた。
「......アトリエなんて私にはないよ」
「そうなんですか?」
「部屋で、鉛筆で描いてるだけ。」
「じゃあ、部屋がアトリエですよ!」
「はは、それじゃ周りにどこか申し訳ないよ。」
「申し訳ない?」
「......本気で描いてるわけじゃないからね。」
「どういうことですか?」
向いの町工場に視線をやった。
「絵で食べていきたいわけでもない。
絵で人を奮い立たせたいわけでもない。
ただの趣味なんだよ。結局」
「......まだわからないじゃないですか」
「……私に才能があれば、努力も意味あるんだろうけど」
「努力すれば天才にだって勝てます。」
「......努力はしたくない。」
「......それって......ちが......くないですか」
彼女は、まるで異文化の民族と出会ったみたいな顔をした。
「違う?......私はこうなんだ。
何もせずとも一番がほしい。
何かしなければならないならいい。
そうやって生きてきたんだ。これまで」
「......そ、そんな。もったいないですよ。」
喉元までに、『何がわかるんだ。君に』と言葉が込み上げて、慌てて飲み込んだ。
「......ごめんね、変な空気にしちゃったよ。」
彼女は困惑した様子のまま口を開けていた。
「......先輩。」
「ん?」
「でも、やっぱり先輩の描いてるところは見てみたいです。」
「......ははは
……なぜかな、なんとなくそう言うだろうと思ってたよ。」
「よく言われます。」
彼女は口を手で隠しながら瑞々しく笑った。




