武田の影と、迫り来る圧倒的恐怖
だが、甘かった。
どれほど内政を整えようとも、時代の覇権を握る「怪物」の足音は、容赦なく諏訪の国境へと近づいていた。
「若殿! 南方の天竜川方面から……敵の別働隊が、完全に我が方の裏手へ浸透したとの知らせです!」
「なに……天竜川だと!? 甲斐とは逆の、南側からだと……!?」
ある日の昼下がり、青ざめた表情の伝令が館へと駆け込んできた。
窓の外を見れば、南の山並みから不気味な黒煙が上がっている。武田軍は正面からの侵攻と見せかけ、密かに険しい天竜川流域の山道・谷筋を伝って大きく迂回し、誰一人として予測していなかった諏訪の「裏手」へと完全に回り込んでいたのだ。
噂に聞いていた武田の機動性と、山岳地帯を踏破する諜報・偵察網の緻密さは、人間の想像を遥かに超えていた。
「そんな……我が軍の主力が備える防衛陣形は、すべて北の国境を向いている……! 裏から回られたら、挟み撃ちにされる……!」
「はっ! 敵の総大将は――甲斐の虎、武田信玄本人の旗本です!」
名前を聞いただけで、館の空気が凍りついた。
家臣たちの顔に恐怖の色が広がる。あれほど自信満々だった者たちも、目の前に「本物の死」が迫ると、ただの怯えた人間に戻ってしまう。
「寅王丸……?」
震える声で、姉上――諏訪姫が俺の袖を掴んだ。
彼女の細い指先は冷え切っていた。恐怖に怯えているのは彼女も同じだ。いや、この諏訪の血を引く者として、彼女が一番残酷な運命に直面していることを、俺たちは誰もが知っていた。
「大丈夫だ、姉上。俺がついてる」
そう言いながらも、俺の背筋には冷たい汗が伝っていた。
(おかしい……俺が持ち込んだ知識も、経済改革も、すべてあの男の前では無力だったというのか……!?)
戦国の怪物・信玄の牙は、地方の小細工ごときでは到底防げない。
このままでは、諏訪は文字通り「挟み撃ちにされ、踏み潰される」。




