信濃・諏訪の霧と、前世の記憶
信濃の国、諏訪。
四方を険しい山々に囲まれたこの広大な盆地は、いつだって冷たく、そして神聖な白銀の霧に包まれていた。
朝露が草木を濡らし、湖面から立ち上る水蒸気がまるで生き物のように山肌を這う。この土地の人間は、それを「諏訪大明神の御神気」と呼び、畏れ、敬ってきた。
前世の記憶を思い出したのは、この諏訪の地に産み落とされてから何度目かの季節が過ぎた頃だった。
どこにでもいる歴史好きのエンジニアだった俺は、大雨で増水した川に流される子供を庇って命を落としたはずだった。一人っ子だった前世。誰かと背中を預け合うことも、兄や妹の頭を撫でてやることもなく、ただモニターとコードに向き合い続けた人生。
「一期一会」という言葉をどこか綺麗事だと思いながら、それでも人と人との繋がりを信じたいとどこかで願っていた男だった。
――それがどうだ。
今や俺は、戦国時代の信濃を統べる諏訪家、その当主・諏訪頼重の嫡男として生きている。
名前は寅王丸。
「寅王丸、またそんなところで外を見上げて。風邪をひいてしまいますよ」
ふわりと鼻をくすぐる、淹れたてのほうじ茶の香りと、懐かしい和服の衣擦れの音。
顔を上げれば、そこには透き通るような黒髪を揺らし、心配そうに眉をハの字にした少女が立っていた。
俺のたった一人の姉――諏訪姫だ。
「……姉上。平気だよ、これくらい」
「嘘をつくときは、左の眉がピクリと動く癖があります。……ほら」
クスリと笑いながら、姉上は俺の手を自分の柔らかい両手で包み込む。
諏訪の底冷えするような寒さの中で、彼女の体温だけがやけに温かくて、心の底から心地よかった。
前世で一人っ子だった俺にとって、この「姉」という存在は眩しすぎた。無邪気に笑い、弟である俺を無条件で慈しんでくれる彼女の笑顔を見ていると、「もし前世に何か意味があったのなら、この温もりを守るために俺はここに転生させられたんじゃないか」とすら思えてくる。
だが、現実は甘くなかった。
歴史好きだった脳ミソが、この諏訪の置かれた絶望的な状況を冷徹に理解させてしまう。
(――武田信玄。甲斐の虎が、すぐそこまで牙を研いで迫っている)
この時代の諏訪家は、独立した豪族として神聖視されているがゆえに、周囲の巨大勢力から狙われやすい。
歴史の歯車通りにいけば、我が家は信玄の圧倒的な軍略の前に踏みにじられ、父は自害に追い込まれ、愛する姉は人質として甲斐へ嫁ぎ、非業の最期を遂げる。
「姉上……俺たち、ずっとこうして一緒にいられるかな」
思わずこぼした弱音に、姉上は少し驚いたような顔をしたあと、まるで太陽のような優しい笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。
「何を言っているのですか。私たちは諏訪大明神の御加護を受けているのですよ。それに、私がずっと寅王丸のそばにいて、守ってあげますから」
その無邪気で強い瞳を見るたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。
守られるべきなのは、あんたじゃない。俺が、この手でその運命をブチ壊さなきゃいけないんだ。
僕は視線を窓の外へと戻した。
諏訪湖の湖面には朝霧が立ち込め、その向こうにそびえる八ヶ岳や霧ヶ峰の峰々が、まるで人間たちの営みなどどこ吹く風とばかりに、神々しく、そして冷徹にそびえ立っている。
この美しくも厳格な大自然の中で、諏訪の人々は代々、神に祈り、怯え、そして生きてきた。
神頼みじゃ何も救えない。
歴史が変わらないのなら、俺がこの諏訪の自然の裏側に、誰も踏み込めない「別のルール」を敷いてやる。




