溺れる人魚亭
オレはサンドイッチを食べ終え、長話で生ぬるくなってしまった紅茶を飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ、有り合わせのもので、申し訳なかったです」
「長々、お話ししてしまいましたが、お陰様で、この世界のことがよく分かりました。貴方様との出会いは、運命の邂逅、本当にありがとうございました」
「とんでもございません! これこそ、私が神から与えられた使命ですから」
「私も神を信じてみることにします。お勧めに従い、しばらくこちらに留まり、クエストをしながら出会いを待とうと思います」
「それがいいでしょう。クリティ殿は、この世界に来られたばかりなのですよね? しばし、のんびりされることをお勧めします。ああ、宿屋をご紹介しないと」
「冒険者宿舎でしょうか?」
「はい、ギルド前の通りから東に一つ外れた裏通りを南に行ったところにある、『溺れる人魚亭(The Drowning Mermaid)』がよいかと思います」
「では、そこに逗留することしましょう。また、明日朝、お邪魔します」
オレはギルマスの部屋を出て、受付に戻っていたレンカ、かなり暇そうだが、にも挨拶をし、冒険者ギルドを出た。時間は昼下がりといったところだろうか。
《ディア、そういえば、この星の時間は地球換算でどう考えればいい?》
《この星の大きさは地球とほぼ同じじゃから……》
この星の一日、自転周期は地球時間の24時間とほぼ同じ、公転周期も365日ということらしい。春夏秋冬、季節もあるようだが、とても安定した気候で、冬の最低気温は摂氏十度を下回ることはなく、夏の最高気温も摂氏二十五度を超えないようだ。
《よく似ておるのは、知的生命体が住むのに相応しい環境ということかのぉ〜》
《神が、そのように創った?》
《おそらく、そうじゃろう》
で、時間なのだが、少しめんどくさい。地球の2時間が一単位、これをフルタイム(Full time)という、後は2で割り算していく方式だ、ハーフ(half)=1時間、クオーター(quarter)=30分、エイス(eighth)=15分、シックスティーンス(sixteenth)=7.5分……。2フルタイムといえば4時間、一日は12フルタイムということになる。
オレはギルマスが紹介してくれた宿屋を探した、メインストリートから東に入った路地を、エイス(約15分)ほど南に行くと、グレーの石を積んだ二階建て、海をバックに青い尾鰭のマーメイドが描かれた丸看板のある、宿屋らしき建物を見つけた。
人魚が溺れるって、変じゃね? ああ、マーメイドの頬が妙に赤いから「溺れる」の意味は、溺れるほど、たらふく飲めるってことかな。
「こんにちは」
「うん?」
禿げ上がった頭をジョブズ刈りにした人族の主人は、オレの顔を見て、一瞬、胡乱な目つきをしたが、男の性ということだろうか、視線を下げ胸に目が行く、ああ、行くよなぁ〜
オレも男だった時、こんな嫌らしい目で女を見てたのかな? まぁ、女になったからそれに気付くということか。それなりに「ある」胸の谷間を凝視した後、彼の視線は銀の認識票を捉えた。
「ほぅ、その若さでシルバーランク、人は見た目によらぬということですな。いらっしゃいませ、宿をお探しかな?」
なるほど、ギルマスが認識票を目立つように下げておけ、と言った意味が分かった。この世界でシルバーランク冒険者というのは、それなりのステータス、銀の認識票は身分を証明する運転免許代わりになるのだろう。
「一泊おいくらですか?」
「朝食付きで、銅貨五枚、五連泊してくれるのなら、銀貨二枚に負けておきますが」
「では、五連泊で」
「かしこまりました。朝夕食は一階の食堂で提供していますが、夕食の方は都度払いでお願いしたい」
「了解です」
「じゃ、二階の一番奥の部屋です」
オレは鍵をもらって二階への階段を上がった。廊下の片側に十ほどの部屋が並んでいる。オレは店主から言われた210号室の扉を開けた。
広さは前世で時々利用した、ビジネスホテルのシングルルームくらいだろう。ベッド、ビューロー、小型冷蔵庫風の飲料保管庫、シャワールーム完備といったところだ。
《さて、シャワーでも浴びますか? この、ビスチェ、どうやって脱げばいいんだ?》
《ああ、脱ぐのは後、まずはシャワーじゃな。この世界のシャワーは、お湯が出るタイプではないのじゃぞ》
ええ! そうなのかっ! 魔法の衣類は、とても丈夫で、かつ、この「シャワー」により、毎日クリーニングされる。着替える必要がないということのようだ。ディアの持っていたリュックには着替えなど入っていなかった理由は、これか!
着衣のまま、シャワールームに入り、魔道具のボタン操作は、軽く魔力を流し込んでやればいい、たちまちシャワールーム全体に清浄の魔法が満ち、微かにラベンダーの香りが漂う。ただこれだけで、髪も体も衣服も洗い立て、ピッカピカに仕上がった。