第20話 精霊界にて
「……きっとこれだ」
ジアクスの聖書を持つ手に力が入る。新たに解読した文章に、彼女が求める答えがあった。ラヘタッハの無限ともいえる体力の秘密が書き記されていたのだ。本から顔を上げたリンデは、茫然と周囲を見回した。
木々のざわめき、激しい機械音、ラヘタッハの息づかい、コランの足音、それらを含む聞こえてくる音すべてを、正確に聞き分けることができた。思考は鋭さを増し、視界は開け、目に映るものが鮮明に認識できる。今なら葉の一枚一枚まで数えられそうだ。
「えっ……すごい……こんなに変わるんだ」
激しい金属音に、はっと我に返るリンデ。クラッサスの焦りが伝わってくる。深手を負いながらも、ラヘタッハの力が衰えているようには見えない。コランも懸命に剣を振るうが、決定打に欠けている状況だ。ここは一度仕切り直す必要があると、リンデは素早く結印し、ラヘタッハの頭へ手をかざした。
「転視聴!」
ブーンと電子音めいた音を発する黒い靄が、ラヘタッハの頭を一瞬包み込むと、古代の怪物は腕をでたらめに振り回して頭を押さえながら、大気を震わすほどの雄叫びを上げて後ずさりした。
『ぐおおお! 何だ!? 何をした!』
──転視聴。これは、視覚と聴覚を入れ替える、月門が得意とする精神操作の術だ。目には音が光る波紋として見え、耳には騒音が鳴り響いている。影響を受けた者は、脳が混乱し、まともな判断ができなくなるのだ。
「かかった! クラッサスさん、胸の中心を狙ってください! そこに、ラヘタッハに力を与えている水晶が埋め込まれています!」
「何か知らねぇが、ナイスだリンデ!」
クラッサスは操縦桿を引き、機体を後退させた。そして、槍をしっかりと脇に構え、渾身の気合と共に駆動板を踏み込んだ。
「いい加減、くたばれワニ野郎!」
ドスドスドス! ガレ・メネアスが、血しぶきと蒸気を散らしながら地響きを上げ突進した。狙うはラヘタッハの胸、その中心。
刃こぼれした穂先が血に濡れたラヘタッハの胸を貫く。そのとき、ガツンと硬い何かに当たる感触があった。
『ぐおおおおっ!!!』
「ははっ、当たりだな!」
激痛に苦悶の唸り声を上げるラヘタッハ。それを見たクラッサスはニヤリと口を歪めた。普段の彼からは想像できない野獣めいた表情だった。
ドクンと鼓動が速まり、破壊衝動が湧き起こる。クラッサスはさらに槍を押し込み、ラヘタッハの顔をボロボロの腕で殴りつけた。
『ぬぇえい、何をしておる小僧! 槍を抜いて距離を取らんかっ!』
「くっ……わかってるよっ!」
ガレ・メネアスの声に冷静さを取り戻したクラッサスは、手で顔を拭い、息を吐いて操縦桿を引いた。
──こいつを見てから、どうも調子がおかしい。早く決着をつけねぇと、自分じゃなくなっちまいそうだ。
機体を下がらせて槍を引き抜こうとしたが、ラヘタッハは槍を掴み渾身の力でもってガレ・メネアスの肩口を殴打した。目が見えていなくとも、これだけ接近していれば狙いを見誤ることはなかった。
「うわっ!」
予期せぬ強烈な反撃にガレ・メネアスの手は槍から離れ、背後の柱を破壊しながら瓦礫を撒き散らして仰け反るようにもたれかかった。その衝撃でクラッサスの体を固定していたベルトがちぎれて、彼は機体の外へ投げ出された。
クラッサスは体を地面に叩きつけられ、「ぐあっ!」と声を上げると、そのまま動かなくなった。
「クラッサスさん!」
リンデはすぐに走り寄ろうとしたが、ラヘタッハのある変化に足を止めた。鱗に覆われた背中がいびつに盛り上がり、皮膚を裂いて──柱の部屋で喰らった邪教徒の上半身が生えてきたのだ。まだらに鱗が浮かぶ邪教徒の顔がリンデに向けられ、濁った目が大きく開く。
『……そこか小娘』
ラヘタッハは再び蛇へと体を変化させ、長い尾を鞭のように振り上げて地面をさらうように薙ぎ払った。
「んぐっ!」
邪教徒に見据えられ反応が遅れたリンデは、丸太のごとき尾に殴り倒され、激しく地面を転がる。全身を強打し、肺から空気が押し出され息が詰まる。悲鳴を上げることすらできなかった。
食べることでその生物の耐久度と特性を我がものにする。そう、ラヘタッハは邪教徒の目を使うことで視界を確保したのだ。そう考えれば、古代の怪物が人の言葉を喋れるようになったのも理解できるだろう。
ラヘタッハは長い尾を槍に絡めると、苦痛を堪えた低い唸り声を漏らしながら、ズルズルと引き抜いて投げ捨てた。そして、長時間蛇の形態を維持できないのか、人型へと戻っていく。
「ぬう……打開策が見つかったかと思えば、そうもいかなくなったな」
何たる絶望感。遺跡から出てきたときに比べラヘタッハの体は縮んだが、それでも優に1リート(4メートル)はある。コランは歯噛みしながら、注意を引こうと邪教徒めがけ矢を放った。
「どうしたバケモノ! 俺が怖いのか!」
『……残るはお前だけだ。チマチマと邪魔をしおって。きさまから喰ってやろう。来い聖霊……与傷播!』
◇ ◇ ◇
「……ここは……やられちまったのか?」
クラッサスは闇の中を漂っていた。重力は感じない。初めてこの世界に来たときのように、何もない空間をただユラユラと浮いていた。
小さな光点が見えた。それは、陽炎のように揺らめく青い輪郭のある光だった。意識を向けると、そちらへ急激に吸い寄せられる感覚があった。
近づくにつれ、その光の巨大さが露わになった。言うなれば、青い太陽。あまりにも巨大で、かなり近づいているはずなのに、まだまだはるか遠くにあるかのようにも思えた。
そこへ向かって、数えきれないほどの大小様々な白い光の玉が、尾を引いて青い太陽へと流れていく。
「ぐああ! 助け……」
「うわっ、何だ!?」
クラッサスは突然の断末魔の叫びに驚き、何事かと見回すと、白い光の玉が自分の胸から離れて青い太陽の方へと飛んでいった。どうやら、白い光の玉が背後からクラッサスの体を通り抜けて行ったようだ。
「……もしかして、魂ってやつか? じゃあ、オレはやっぱり死んだのか……」
「んっふっふ。ここはすべての始まりであり帰る場所、精霊界です」
仮面がフワリとクラッサスの前に降りて来て、芝居がかった様子で言った。
「ワースメーカー。お前が出て来たってことは、特別な場所なんだよな?」
「具象界から見れば、特別な場所になるでしょうねぇ。私にとっては故郷とでも言えますが。見てください、あれはこの次元を支配する存在、グロス。大いなる意志とも呼ばれています」
ワースメーカーは巨大な青い太陽を見上げ、静かに言った。そして、クラッサスに視線を戻す。
「んー。あなたのように、生きたままここに来ることは稀です。そして、正気を保っていることも。先ほど触れたでしょう?」
「ああ、魂ってやつか?」
クラッサスは、白い光の玉に当たらないよう周りを気にしながら言った。
「正確には精神体ですねぇ。魂は肉体と精神を繋ぎ止めている鎖。精神が肉体から切り離された時点で、魂は無くなります。先ほども言いましたが、クラッサスはまだ死んでいません」
「わかんねぇな、何が言いたいんだ?」
クラッサスは癖のある赤毛をかきむしり、ジロリと仮面を睨んだ。それでも、ワースメーカーが死んでいないと言うなら、その通りなのだろうと胸を撫で下ろした。
「肉体耐久度が昏睡に入り、精神体が一時的に外に出てしまった。そう、臨死体験とでも言いましょうか」
「まだ死んでないなら、いいんだけどさ……さっきから体が熱いのは、ラヘタッハの呪いとか、そんな感じか?」
クラッサスは、この戦闘に入ってから感じている妙な感覚について聞いた。ずっとこのままでは困る。高ぶる感情を抑える方法があるなら、知りたいところだ。
「ふーむ。ラヘタッハという異質な敵に出会ったことで、新たな力に目覚めようとしている……とでも言いましょうか。ラヘタッハを倒すことで、その異常な興奮状態も収まるでしょう」
曖昧な返答をするワースメーカーだが、これが覚醒イベントだと悟ったクラッサスは、あまり深く追求しなかった。
「そっか……戦闘の中で成長しちまったんだなぁオレ。ははっ、いきなりガレ・メネアスが喋ったのもそのせいか」
はしゃぐクラッサスを、静かに見つめるワースメーカー。しばらくの逡巡の後、青い太陽に顔を向けて話し始めた。
「話は変わりますが、最近おかしなことはありませんでしたか? この世界ではなく、私生活においてです。身体能力が上がった、以前は感じなかったことを感じるようになった、といったことは?」
「はぁ? 何だよ急に……そう言われてもな……ああ、そういや、入れた覚えのない10面体ダイスがいつの間にか消えてたってのはあったけど」
「ほほぉ。ダイスを出せるようになったと……それはよい兆候です」
「出せるってなんだよ。オレの部屋でだぞ? ゲームの中じゃないんだし……」
そう言いながらも、心当たりがないわけではない。シンが言っていたではないか、ピッキングをやってみたらできた、と。あの時は半信半疑だったが、ゲーム内でできたことが現実に起こるとしたら、どうだろうか。
──確か、ワースブレイドのことを考えていたんだよな。だから無意識のうちにダイスを出したって?
考えを巡らせていると、かすかに声が聞こえてきた。ワースメーカーのものではない。また白い光の玉に触れてしまったのかと思ったが、それも違う。リンデの声だ。
「……クラッサスさん、目を覚まして……このままじゃ全滅しちゃう」
「リンデか……まずっ、あの二人はどうなった!?」
クラッサスがまだ戦闘中だということを思い出すと、体は来た時とは逆に、青い太陽から急激に遠ざかっていった。
「これって、戻ってるんだよな? くそっ、奴の攻撃を受けてからどれだけ経った」
「私もあなたの恩恵にあずかっている身ですから、ヒントを差し上げましょう。特別ですよ? できるということを自覚するのです」
恩着せがましいワースメーカーの言葉を聞きながら、クラッサスの意識は深く落ちていった。




