03.テオ
ふわり、花の香りがした。
そう気付くとともに、身体も意識も覚醒していく。かすかな物音とともに人の気配がした。
(人の気配!? いやわたし一人暮らし!!)
ガバッと飛び起きると、ビクッと目の前の身体が揺れた。黒いワンピースに、白いフリルエプロンを押し上げる豊かなお胸。
ハッとして顔を上げると、その身体に繋がっているのは妖艶な金髪美女だった。
「お、お嬢様!?」
「え? エマ? え? まだ夢?」
さっきまで見ていたはずの夢、そのままの部屋が広がっている。目の前のエマもあのままだ。
「申し訳ございません、起こしてしまいましたね。庭師が見頃だと持ってきてくれたので」
エマの言葉で視線を移せば、枕元にある小さなローテーブルに百合の花が飾られていた。真っ白な百合だ。爽やかな香りがする。
「いい、香り……」
「今年も綺麗に咲きましたね。あとで見に行かれますか?」
「そう、ね」
いい香り。確かに香りを感じるのだ。
こんな、五感を刺激する夢なんてあるのだろうか。リアルすぎて怖いくらいだ。
「その前に、伯爵様のお部屋へ参りましょうか」
「はっ?」
「今回は一週間ほど寝込まれていましたので、伯爵様も大変心配されていますよ」
「は、はく……?」
はくしゃく、とは。
(伯爵? 薄弱? いや伯爵だよね? そんな設定なの? まさかわたし、伯爵令嬢ってやつ? そんなバカな! 見た目妖精で姫系全開の部屋で伯爵令嬢て。どんなラノベだ。まさかわたし、流行の異世界転生? 乙女ゲーム転生? まさかの悪役令嬢!? そんなのに憧れてたの、深層心理! 乙女ゲームなんてやったことないのに! こっわ!! どんだけ人生疲れてた!?)
呆然とするわたしを華麗にスルーしたエマは、大きな猫脚のクローゼットを開いた。
ここまでくるともう予想通り、そこには煌びやかなドレスがこれでもかと並んでいた。
エマはその中でもシンプルな、ラベンダーカラーのドレスを選んだ。胸元は白いリボンが編み上げられている。なんだか髪の長すぎるプリンセスを思い起こすデザインだ。
わたしの頭の中なんてそんなものだろう。凝ったデザインのドレスなんか浮かびようがない。
「来週の王城での夜会には間に合いそうで、良かったですね」
ドレスを取り出しながらエマが微笑む。
わたしはまたしても出てきたベタすぎる単語に引きつるしかない。
「王城の、夜会……」
「いやだ、お忘れですか? ジョルジュ殿下の御誕生祝いですよ」
王城、ジョルジュ殿下。
それはどこですか、誰ですかと聞ける空気ではない。わたしだって日本人、空気を読むことはそれなりに出来るのだ。
「ジョルジュ殿下……」
そう呟くと、パッと出てきたのはなぜかジョーくんの顔だった。白いタキシードにふわっふわのファーが襟元についたロングジャケットを羽織ったジョーくん。これはデビュー曲『enchanté』の衣装だ。
でも不思議なことに、思い浮かんだ顔はデビュー当時十六歳のジョーくんの顔ではなく、最近三十二歳になったジョーくんに近い顔だった。まだあどけない少年だったジョーくんではなく、芸能界に揉まれて随分逞しくなった、大人の色気が漂うジョーくんの顔。
だけど表情は硬くて、眉間に皺さえ寄っている。こんな表情はドラマで演技している時しか見られないはずなのに、衣装はガッチガチのアイドルだ。
この記憶は何なのだろう。バラエティ番組に出演したときのものだろうか。
だけど今のジョーくんじゃ十六歳の衣装はサイズ的に着られないはずだし、作り直したなんて話も聞いたことがない。
この記憶の中でわたしはジョーくんを遠くから見上げている。ライブに行ったときのようだ。だけど会場はもう少し狭くて、ジョーくんの手前には階段があって、隣には玉座みたいな豪華な椅子があって、そんな演出のコンサートあったかな……。
「さあ、出来ましたよ」
ハッと気付くと、エマの手によってわたしは着替えさせられていた。
某プリンセスのようなドレスはコスプレみたいで恥ずかしいけれど、鏡を見れば着ているのがそもそも絶世の美少女なので違和感はない。むしろくっそかわいい。何これ、逆に居たたまれない。
「では、参りましょうか」
エマが先導するように斜め前に立つ。
それに続いて歩き出すと、突然バタバタと物々しい足音が近づいてきた。サッとエマがわたしを守るような位置に立ちはだかる。
程なくしてバァーンと勢いよくドアが開いた。
「ジューリエーット!!」
しかしエマが目の前に立ちはだかっているわたしには、その姿が見えない。だけど、その声が。
「ジュリエット! 目が覚めたのか!」
(この声、花ちゃんにめっちゃ似てる!!)
エマを避けるように覗き込めば、開いたドアから勢いよく歩いてくるのはやっぱり花ちゃん、”シャルモン”のリーダー・花井直だった。
花ちゃんはジョーくんの二つ上の三十四歳で、爽やかを絵に描いたような整った顔立ちの好青年だ。
見た目はパーフェクト。基本的に仲間思いで優しいけど、ちょっと強引で俺様で鈍感で、私服がダサい。そんなところも愛すべき、我らのリーダーである。
(え、待って? でも花ちゃん若くない? しかも髪も赤くない?)
わたしに向かって一直線にやってくる若者は、サラッサラの赤髪が揺れる、前髪長めの、若かりし頃の花ちゃんみたいな人だ。長めの前髪から覗く目がたまらなくカッコいい。この髪の色はメンバーカラーが赤だからだろうか。
ついでに服装は青いグラデーションの特徴的なジャケットとネイビーのパンツ、これは『Azur』の衣装だ。花ちゃん主演ドラマの主題歌だった曲『Azur』の衣装を着ている。
確かにこの衣装は花ちゃんによく似合っていたけれど、今は赤髪と青い服のコントラストが目に眩しい。
それに『Azur』のリリースは三年くらい前、花ちゃんはもう三十過ぎのことだ。けれどこの花ちゃんみたいな人はとても三十過ぎには見えない。十代後半から二十代前半といったところだろう。
さっき脳内で浮かんだジョーくんといい、わたしの記憶と彼らの姿が混じり合って混乱してしまう。
エマがサッと元の位置に戻ったせいで、わたしと花ちゃんみたいな人の距離が近くなる。
その人は向かい合ってわたしの肩を掴み、心配そうな目線で覗き込んできた。
(いや近っ!! 花ちゃん! でも、若かりし花ちゃんめちゃくちゃ顔綺麗……)
しかし覗き込まれた瞳の色がモーヴみたいなくすんだピンク色であることに気付く。どうしてか違和感が拭えなかったのは、この髪と瞳の色のせいだろう。
やっぱりこの人は花ちゃんじゃない、夢の中でわたしが作り出した人物だろう。
「もう起きて大丈夫なのか? 無理はするなよ」
「え、えっと……はい、だ、大丈夫です」
「はっ??」
「えっ??」
目を見開いた赤い若い花ちゃんは、くるりとエマの方を振り向いた。つられて視線をエマに移すと、エマは片方の眉を下げて首を横に振った。それを確かめた花ちゃんはわたしに視線を戻し、眉を下げて情けなく笑った。
「俺の、ことは?」
「え? 何を言っているの、テオお兄様」
「えっ!!!」
「え!」
またしても勝手に言葉が出てきて焦るわたしとは対照的に、花ちゃん、いやテオは嬉しそうに破顔してわたしを抱き寄せた。それも思いっきり。
「ぐっ……」
「ジュリエット!!!」
(どういうことなの、この人がわたしのお兄ちゃんだなんて……)
でもそれが真実だと、わたしの脳が、記憶が告げている。
エマがエマ・デュポアだと知っているように、目の前のこの人がテオ・ボネだと、わたしの兄だと知っている。
そしてわたしが、ジュリエット――ジュリエット・ボネだと、知っている。知っているのだ。




