玲奈との初デート――「私から、キスしたかったの」
玲奈は、店の前で先に待っていた。
水辺に近い住宅街の中に溶け込むような、小さな一軒家のフレンチだった。控えめな照明の下、黒を基調にした服の玲奈が入口の脇に立っている。
美咲は、少し手前で足を緩めた。
――綺麗。
知っていたはずなのに、改めてそう思った。
店で会う玲奈とも、あの夜の玲奈とも違う。仕事ではなく、ただ一人の女性としてそこに立っているだけなのに、妙に目を離せなかった。
そして次の瞬間、別のことまで思い出す。
――私、この人に、あんなこと言ったんだ。
胸の奥が急に落ち着かなくなる。
「美咲さん?」
玲奈が気づいて、こちらを見た。
美咲は慌てて歩み寄る。
「すみません。待ちました?」
「いえ、全然」
玲奈はそう答えてから、美咲の顔を少し覗き込んだ。
「……大丈夫ですか?」
「え?」
「なんだか、ぼーっとしてたから」
「だ、大丈夫です」
即答したものの、自分でも説得力がないと思った。
玲奈が少しだけ笑う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
それから店の扉へ視線を向けた。
「ここ、本当に美味しいから。今日は楽しみましょ」
その言い方があまりに自然で、美咲の肩から少しだけ力が抜けた。
店の扉を開けると、奥にいたスタッフが顔を上げた。
「玲奈さん、こんばんは。お久しぶりです」
「こんばんは。また伺いたくなって」
玲奈は自然に笑って応じた。
案内される後ろを歩きながら、美咲は小さな声で尋ねる。
「よく来るんですか?」
「たまにですよ」
窓際のテーブルで、二人は向かい合わせに座った。美咲が店内へ目を向けていると、玲奈がメニューを開く。
「美咲さん、苦手なものはありますか?」
「ないです。たぶん何でも大丈夫です」
「苦手なものがなければ、今日はコースにしませんか」
「はい」
「メインの鴨のパイが本当に美味しいんです」
玲奈は少し笑った。
「美咲さんにも食べてほしいなって」
「……じゃあ、それにしたいです」
美咲はメニューへ目を落とした。自分と来る前から、食べてほしいものを考えてくれていた。そのことが、嬉しかった。
スタッフが注文を取りに来ると、玲奈はコースを二人分頼んだ。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
玲奈が美咲を見る。
「最初は、スパークリングワインにしませんか?」
「はい、飲みたいです」
玲奈はスタッフへ向き直った。
「最初、泡をいただきたいんですけど。ブリュットで今日は何があります?」
いくつか挙がった銘柄の中から、玲奈は一つを選んだ。迷いのない、けれど慣れを見せつけるようでもない頼み方だった。
やがて、二人の前にグラスが置かれる。
玲奈はグラスを持ち上げ、少し笑った。
「じゃあ今日は、ゆっくり美味しいもの食べましょ」
「はい」
「乾杯」
グラスを軽く合わせ、美咲は一口飲んだ。
「……美味しい」
細かな泡が舌の上ではじけた。
「玲奈さん、お酒も詳しいんですね」
「そんなに詳しくないですよ。好きなものを覚えてるだけです」
店内の壁には、小さな絵が何点か掛かっていた。美咲の視線に気づいて、玲奈が振り返る。
「その絵、私も好きなんです」
「色が綺麗ですね。部屋にあったら、つい見ちゃいそう」
「分かります。時間によっても、違って見えそうですよね」
そこから、最近行った美術館や、好きな絵の話になった。玲奈は旅先でも美術館へ寄ることがあるらしく、美咲が尋ねると、その時に見た絵や街のことを話してくれた。
メインの鴨のパイにナイフを入れると、薄い生地がさくりと崩れた。
美咲は一口食べて、玲奈を見る。
「……これ、好きです」
「よかった。鴨の旨みがしっかりあるのに、パイが軽いんですよね。ソースに少し酸味があるから、最後まで重くならなくて」
玲奈も自分の皿へナイフを入れた。
デザートを食べ終え、コーヒーを飲みながら話していると、玲奈が尋ねた。
「このあと、少し歩きませんか?」
「はい」
玲奈はスタッフに目を向け、会計を頼んだ。運ばれてきた伝票を取るのを見て、美咲もバッグに手を伸ばす。
「私も……」
「今日は、私から誘ったので」
玲奈はそう言って、カードを出した。
「ごちそうさまです。今度は、私から誘います」
店を出ると、頬に触れる夜風が涼しかった。
店の脇から、水辺に沿って石畳の遊歩道が続いていた。窓からこぼれる暖かな光が、足元を照らしている。花を植えた鉢の間には小さな灯りが置かれ、その先に街灯が並んでいた。
「こっちへ行きましょうか」
玲奈が水辺の方を見た。
「はい」
二人は並んで歩き出した。柵の向こうでは、対岸のビルの明かりが水面に揺れていた。店から離れるにつれ、人の話し声が遠くなる。
美咲は隣の玲奈へ顔を向けた。
「私、最近、絵を見る時に考えることが変わったんです」
「どんなふうに?」
「絵の中のモデルさんって、どんなこと考えながら、ポーズ取ってたのかな、とか」
「……美咲さんがモデルをしたから?」
「はい。私は、なんか過剰に反応しちゃって」
玲奈が少し首を傾ける。
「どういうふうに?」
「玲奈さんも分かってるでしょ、意地悪」
玲奈は小さく笑った。
「……ごめんなさい。ちょっと意地悪しました」
美咲は顔を赤らめ、足元へ目を落とした。
「反応を止めようとするほど、余計に意識しちゃって」
玲奈は口を挟まず、隣で聞いていた。
「私、流されやすいのかもしれません。でも、この前、玲奈さんに伝えた気持ちは、本当なんです」
美咲は顔を上げた。
「前から思ってたことなんです。多分、試着室の時から。あの時から、玲奈さんのことが忘れられなくて」
玲奈が少し目を見開いた。
「……試着室の時から?」
「はい」
数歩、二人の足音だけが続いた。
「……嬉しいです」
玲奈は美咲を見た。
「美咲さんの気持ちは、あの時ちゃんと伝わってました。でも、そんな前から私のことを想ってくれてたんですね」
「はい。だから、この前、奈緒ちゃんにも伝えたんです。もうこれまでみたいには付き合えないって。玲奈さんのことを想ってるって」
玲奈は、美咲へ顔を向けた。
「奈緒ちゃん、すごく動揺してましたけど、なんとか理解してくれたように見えたんです。その時は」
「……その時は?」
美咲は小さく頷いた。
「その週末の夜、奈緒ちゃんからLINEが来て。『助けて、来て』って。六本木に駆けつけたら……ハプニングバーっていうんですか? 私、全然知らなかったんですけど」
玲奈の眉がわずかに寄った。
「奈緒さんは、そこにいたんですか?」
「はい。男の人三人に囲まれて、普段の奈緒ちゃんじゃないみたいに、ぼうっとした顔をしてて。声をかけても、すぐには私に気づかなくて。急いで連れ出して、私の部屋に連れて帰ったんです」
「……それは、心配でしたね」
「はい。でも、部屋に着いてからは、大分落ち着いて」
美咲はそこで言葉を切った。少し歩いてから、声を落とす。
「翌朝、泣いてる奈緒ちゃんを抱きしめていたら、その……」
玲奈は急かさず、美咲の続きを待った。
「最初は慰めているつもりだったんですけど、背中に回った奈緒ちゃんの手が、すごいいやらしい動きをして、だんだん、私、身体が反応してきちゃって。だめ、って自分に言い聞かせていたんですけど」
美咲は足元へ目を落とした。
「最後に、強く『だめ』って言って、奈緒ちゃんも諦めてくれたんですけど、本当に怖くて。あのまま流されても、おかしくなかったんです」
玲奈は、すぐには答えなかった。
「……でも、美咲さんは『だめ』って言ったんでしょう?」
美咲は小さく頷く。
「ぎりぎりだったとしても、ちゃんと止めた。それは、美咲さんが自分で選んだことじゃないですか」
「はい。そこは、本当に良かったと思います」
美咲は頷いたものの、視線を落とした。
「でも、私の身体のスイッチというか、そこを全部、奈緒ちゃんが知っているようで。怖いんです、自分のことが」
玲奈はしばらく黙っていた。
「……また同じことがあったら、今度は止められないかもしれないって?」
「はい……」
美咲は少し歩いてから、玲奈を見た。
「でも、これからも、きっぱり拒否します。玲奈さんとの時間を、大切にしたいんです。今後も」
玲奈の歩く速さが、少し緩んだ。
「……私も、大切にしたいです。美咲さんとの時間」
美咲を見て、照れたように笑う。
「今日だけじゃなくて。また二人で、こうして会いたいです」
「嬉しいです」
美咲は笑ってから、少しためらった。
「……あと、いつまで『さん』付けで、敬語なんでしょう、私たち」
玲奈が美咲を見る。
「変えませんか?」
「……じゃあ、美咲?」
呼ばれると、美咲は少し照れたように笑った。
「はい。……玲奈」
「まだ敬語」
玲奈が笑う。
「だって、急には……」
美咲も笑った。隣で揺れる玲奈の手へ、そっと指先を伸ばす。
指が触れると、玲奈が美咲を見た。美咲はその指の間に自分の指を滑り込ませた。玲奈の指も曲がり、二人の手が深く繋がる。
美咲は繋いだ手を見下ろしてから、玲奈を見上げた。
「……玲奈」
「うん?」
美咲が足を止めると、玲奈も立ち止まった。
美咲は玲奈の正面へ回った。繋いだ手が二人の腰の間に収まり、靴の先が触れそうな距離になる。
少し顔を上げると、玲奈と目が合った。
その視線を受けたまま、美咲は絡めた指に力を込めた。玲奈の指が握り返してくる。胸が高鳴り、さっきまで自然にできていた呼吸が浅くなった。
近くで見る玲奈の首筋は、街灯の光を受けて滑らかだった。襟元から覗く鎖骨を、細いネックレスが辿っている。その下で、黒い服が胸のふくらみに沿っていた。美咲の視線がそこで止まる。抱き寄せたら、あの胸が自分の胸に触れる。その近さを想像すると、繋いでいる手だけでは足りなくなった。
もう一度、玲奈の顔を見る。
玲奈の唇は、街灯の下でかすかに艶を帯びていた。下唇の柔らかそうなふくらみに、美咲の視線が留まる。すぐ近くで、その唇が小さく開いた。
今、触れたら。
どんな柔らかさなのだろう。自分の唇を重ねたら、玲奈はどんな顔をするのだろう。
想像した途端、胸の奥がきゅっと詰まった。美咲は息を吸い、絡めた指を握り直す。玲奈も握り返してくれた。その感触に、ますます離れがたくなる。
触れたい。
見ているだけでは、もう足りなかった。玲奈の唇の温かさも、触れた時の反応も、すぐそばで知りたかった。
美咲は、玲奈の胸元へそっと手を伸ばした。
服越しの温かさに指を広げ、そのまま体を寄せる。二人の間に残っていた隙間が狭まり、玲奈の息が頬に触れた。
美咲の唇がわずかに開いた。
玲奈はまだ動かなかった。近くから美咲を見つめ、繋いだ手を握っていた。
美咲は少し踵を浮かせた。胸元に添えた手で玲奈の服を軽く掴み、顔を近づける。
唇が触れる寸前、一度だけ玲奈の目を見た。
玲奈がほんの少し顔を傾ける。
美咲は目を閉じ、自分から、その唇に唇を重ねた。
想像していたよりも柔らかかった。そっと触れた唇の温かさに、美咲は絡めた指を強く握った。
すぐには離れたくなかった。
胸元に添えた手で玲奈の服を掴み、もう少し顔を寄せる。玲奈がその動きを受け止めるように顔を傾け、二人の唇がさっきより深く重なった。
美咲は息を吐いた。唇に触れたままの玲奈の唇が、わずかに動く。その小さな応えに胸がいっぱいになり、美咲は服を掴んでいた指を緩め、掌を玲奈へ預けた。
離れる時にも、名残を確かめるように、もう一度そっと唇を押し当てた。
ようやく顔を離すと、玲奈がすぐ近くから美咲を見ていた。美咲は胸元に手を添えたまま、その目を見返した。
玲奈の空いている手が、美咲の背中に回った。
「……美咲」
名前を呼ばれると、美咲はようやく小さく息を吐いた。
「私から、玲奈にしたかったの」
玲奈は静かに笑った。
「うん」
背中の手にそっと支えられ、美咲はもう一度、玲奈へ顔を寄せた。




