第96章 篠原の日常
第96章 篠原の日常
六日町本社の正面玄関を抜けると、越後湯沢の山々から吹き下ろす秋の澄んだ風が、篠原賢人の頬を心地よく撫でた。
時価総額五十兆円を超え、八百兆円の預金と世界の交通・金融・インフラ・宇宙事業までを統括する南越急行ホールディングス。その頂点に立つ最高経営責任者(CEO)となった今でも、篠原の日常のルーティンには、決して変わらない一コマがあった。
正午のチャイムが本社ビル内に響き渡ると、篠原はデスクの上の端末を閉じ、上着を羽織って社長室を後にする。
向かう先は、本社ビルから目抜き通りを挟んで真向かいに佇む、木造二階建ての古びた日本そば店「そばろく」だ。
昭和の面影を色濃く残す木枠の引き戸、使い込まれて飴色に光る木製のテーブル、そして出汁の香ばしい匂いが漂う店内。巨大都市へと急変貌を遂げた六日町の真ん中で、そこだけがまるで時の流れから置き去りにされたかのように、変わらぬ温もりを保っていた。
「いらっしゃい、篠原さん」
暖簾を潜ると、厨房の奥から店主の親父さんが威勢のよい声をかけ、エプロン姿の女将さんが柔らかな笑顔で出迎える。
もちろん、南越急行が世界的な企業グループとなり、篠原自身が国家の経済や安全保障を左右する重要人物となった現在、完全に昔通りというわけにはいかない。
店の外や周辺の路地には、私服の警察庁要人警護官(SP)や南越急行セキュリティ部門の精鋭が目立たぬよう配置され、目を光らせている。また、一般の客に過度な緊張感を与えたり、混乱を招いたりしないよう、篠原が訪れる昼時の時間帯には、店の一番奥にある小さな小上がりの個室が用意されるようになった。
引き戸で仕切られたその静かな部屋に、いつもの「天ぷらそばと小天丼のセット」が運ばれてくる。
「お待たせしました、篠原さん。熱いから気を付けてね」
湯気を立てるどんぶりを前に、篠原は静かに合掌し、出汁をすする。鰹節と昆布がしっかりと効いた濃厚なつゆに、職人技で打ち上げられた細切りのそばが良く絡む。いくら海外の豪華なレセプションや一流ホテルの会食に招かれようとも、篠原にとってはこの一杯のそばこそが、張り詰めた神経を芯から解きほぐしてくれる唯一無二の至福であり、原点であった。
かつて、三百億円の内部留保を賭けてキオクシェア株のIPOに挑んだ狂乱の冬も、含み損に耐えかねて深夜に一人苦悩した夜も、この店のそばを食べながら思考を整理した。渡辺前社長や長谷川顧問、大石専務や古賀副社長とともに、泥臭い泥沼から這い上がってきた記憶のすべてが、この出汁の味に染み込んでいた。
だが、そんな穏やかな昼休みの光景に、ある日突然、終わりが告げられることとなる。
いつものように奥の個室でそばをたぐっていた篠原のもとへ、お茶を差し替えにやってきた女将さんが、少し寂しげな目元を細めてぽつりと漏らしたのだ。
「篠原さん……実はね、お店、あと三ヶ月で閉めることにしたのよ」
篠原は箸を止め、女将さんの顔を見つめ返した。
「閉店、ですか?」
「ええ。うちの人ももう七十を半ば過ぎてね、腰も膝もすっかり痛めてしまって。朝暗いうちから仕込みをして、夜遅くまで片付ける体力が、もうどうしてもついていかなくなっちゃったの。跡継ぎもいないしね……本当はお客さんにも申し訳ないんだけど、三ヶ月後の月末を最後に、暖簾を畳もうって二人で決めたのよ」
厨房の方を見ると、親父さんが少し申し訳なさそうに、だがやりきった男の晴れやかな顔で小さく頷いていた。
長年、地元の胃袋を支え、何より南越急行の激動の歴史を温かく見守り続けてくれた「そばろく」。この店が消えてしまうことは、篠原個人にとっての大きな損失である以上に、六日町の街から大切な灯火が一つ消えてしまうことを意味していた。
(親父さんと女将さんが長年守ってきたこの味と、この温かな場所を、なんとかして未来に残せないだろうか)
社長室に戻った篠原は、すぐさま腕を組み、深考に入った。
単に会社で店を買い取り、資本の力でチェーン店化するような真似は論外だ。それでは「そばろく」の魂が消えてしまう。必要なのは、親父さんの長年の職人技と秘伝のつゆ、そして店に満ちる温かな接客の心を、そっくりそのまま受け継ぐ「本物の後継者」を育てることだった。
篠原は即座に動き出した。
南越急行グループ内には、料亭やホテル、観光列車、フードサービスなどを手掛ける「南越フード&ビバレッジ」をはじめ、食のプロフェッショナルが数多く在籍している。篠原はグループ全社に向けて、異例の特命募集を出した。
『六日町の歴史を支えてきた老舗「そばろく」の味と伝統を継承する、熱意ある料理人を募集する。三ヶ月間、現店主のもとで泥臭く修業を積み、暖簾を守る覚覚悟のある者』
世界規模の宇宙事業や金融取引を仕切るトップが、一軒のローカルなそば屋の後継者探しに本気になっている——。社内では一瞬驚きの声が上がったが、篠原の真意を知る社員たちは胸を熱くした。募集には、若手からベテランまで数十名の料理人が名乗りを上げた。
篠原自ら面接を行い、選ばれたのは、南越総合病院の食堂やグループのホテルで腕を振るっていた二人の若い料理人だった。
「味の再現だけじゃない。あの店が地域の人々や働く人にとってどんな場所であったか、その心まで受け継いでほしい」
篠原の言葉を受けた二人は、翌日から「そばろく」の門を叩いた。
こうして、残された三ヶ月間の「密着弟子入り修行」が始まった。
親父さんの指導は妥協がなかった。毎朝四時からの仕込み。そば粉と水の絶妙な加減、木鉢での練り、伸ばし、切り。そして何より、数十年間注ぎ足し守られてきた「かえし」と出汁の合わせ方。長年の勘と体感でしか伝えられない技術を、二人の若者はノートを片手に、手に豆を作り、汗と粉にまみれながら必死で吸収していった。
女将さんもまた、常連客の好みや持病、世間話の間の取り方、心のこもった配膳の所作を、手取り足取り教え込んだ。
同時に、接客や清掃をサポートするホールスタッフとして、南越急行グループからホスピタリティあふれる若い社員たちが手配された。
最初は戸惑っていた親父さんと女将さんも、若い弟子たちの真剣な眼差しと、日々上達していくそばの出来栄えに、いつしか目尻を下げ、我が子のように慈しみながらすべての技を叩き込んでいった。
そして、あっという間に三ヶ月が過ぎ、ついに親父さんと女将さんの「最終営業日」がやってきた。
店には噂を聞きつけた昔からの常連客や地元の住民、そして南越急行の社員たちがひっきりなしに訪れ、満員御礼となった。親父さんが打った最後のそばが振る舞われ、店内は感謝と少しの寂しさに包まれた。
夜、最後の客が送り出され、パタリと戸が閉められた店内。
疲れ切った、しかし充実感に満ちた表情で椅子に腰かける親父さんと女将さんの前へ、篠原が静かに歩み寄った。後ろには、見事に修行を終えた二人の弟子と、明日からの店を支える新しいスタッフたちが並んでいる。
「お疲れ様でした、親父さん、女将さん」
篠原は深々と頭を下げた。
「これまで何十年もの間、この六日町の街を、そして何より私たち南越急行の人間を、温かい料理で支え続けてくださり、本当にありがとうございました。お二人のおかげで、私たちはどんな困難な時も前を向いて戦うことができました」
親父さんは照れくさそうに頭をかき、女将さんは目元を拭った。
「篠原さん……こちらこそ、感謝してもしきれないよ。ただ畳むはずだったこの店を、こんなに素晴らしい若者たちに引き継いでもらえるなんて。夢みたいだ。これで安心して引退できるよ」
篠原はポケットから、ゴールドの光沢を放つ特別仕様の重厚なカードを二枚取り出し、両手で二人に差し出した。
「これは、南越急行グループからのお礼の気持ちです」
カードには、二人の名前とともに『永久プラチナ・フリーパス』の文字が刻まれていた。
「これは、南越急行のなんなん線やモノレールはもちろん、NJRの全国の鉄道、南越海運の旅客船、南越エアラインズの全航空路線、さらにはグループが提携する全国のホテルや『ホテル・ホワイトラビット』が、お二人で永久に無料で乗り放題・使い放題になるパスです」
親父さんと女将さんは目を見開いた。
「えっ……こんな、そんな恐ろしいものを……!」
篠原は優しく微笑んだ。
「今まで休みもなく、朝から晩まで街のために働いてこられたお二人です。これからは今まで取れなかった休みを存分に取って、このパスを使って、日本中、あるいは世界中どこへでも、ご夫婦でゆっくり旅行に出かけてください。北陸の温泉でも、北海道の景色でも、沖縄の海でも、どこへでもお連れします」
女将さんの目から、ぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちた。
「篠原さん……ありがとう……本当にありがとう……」
親父さんもまた、固く結んだ唇を震わせ、篠原の手を両手で強く握りしめた。
「篠原さん……この味と店を、頼んだよ。本当に、お世話になりました」
「はい。任せてください。お元気で、行ってらっしゃいませ」
温かな拍手の中、老夫婦は長年守り抜いた暖簾に深く一礼し、新たな人生の旅立ちへと一歩を踏み出した。
◇
翌日の昼下がり。
秋の陽光が穏やかに注ぐ六日町の街に、昨日と変わらぬ香ばしい出汁の匂いが漂っていた。
「そばろく」の暖簾は、今日も変わらず風に揺れている。
木枠の引き戸がガラガラと開き、仕切られた奥の個室へ、篠原が歩を進めた。
「いらっしゃいませ、篠原さん!」
厨房からは、親父さんの技を完璧に継承した若き二代目店主の威勢のよい声が響き、ホールでは笑顔のスタッフが温かいお茶を運んでくる。
運ばれてきた湯気立つ天ぷらそばのつゆを一口すすると、そこには確かに、あの親父さんが守り抜いた出汁の深みと、変わらぬ温もりが宿っていた。
篠原は満足そうに小さく頷き、静かにそばをたぐり寄せる。
窓の外では、複線化された高架線を、自社製の最新鋭AI電車が静かに、そして力強く駆け抜けていく。
世界一の企業となろうとも、時価総額がいくら膨らもうとも、この街で生きる人々の暮らしと、温かな日常を守り続けること。
一杯の温かいそばの味とともに、篠原賢人の、そして南越急行の終わりのない挑戦は、これからも続いていく。




