第88章 マーキュリーラビット
第88章 マーキュリーラビット
ノーベル平和賞の受賞、パナマ運河の奇跡的な生態系再生、水没の危機に瀕した島国ツバルの救助、そして預金総額百兆円を突破した南越グローバル・バンキングの成立——。世界中のあらゆる産業と金融、社会インフラを救済し続け、時価総額五十兆円の超巨木へと成長した南越急行ホールディングスの六日町本社には、もはや一国の枠組みを超えた地球規模の要請が日夜殺到していた。
そんなある日、最高経営責任者である篠原賢人のもとへ、内閣府および文部科学省、そして国家宇宙開発委員会のトップが極秘裏に訪れた。同席したのは、最高財務責任者の大石専務と、現場統括を担う古賀副社長である。
国家の使節団が携えてきたのは、従来の地球上のインフラ整備や経済支援とは一線を画す、未曽有の宇宙科学調査プロジェクトの打診であった。
「篠原CEO、我が国……いや、人類の科学の未来のために、南越急行グループの総力を貸していただきたい。我々が望んでいるのは、太陽系最内惑星である『水星』の科学探査衛星の開発と、前人未到のサンプルリターンミッションです」
水星——太陽に最も近いその惑星は、地球のわずか八割程度の半径しか持たない小さな岩石惑星である。しかし、宇宙探査の歴史において最も到達と探査が困難な「最凶の惑星」として知られていた。
太陽からの猛烈な熱放射と太陽風に常に晒される水星の表面温度は、昼間には摂氏四百三十度という鉛すら溶ける灼熱地獄と化し、逆に太陽が当たらない夜間はマイナス百八十度まで冷え込む。この六百度を超える極端な寒暖差に加え、太陽の絶大な重力井戸の底に位置するため、減速して軌道に入るだけでも莫大なエネルギーを消費する。過去に世界各国の宇宙機関が周回衛星を送り込むことには成功していたものの、過酷すぎる環境ゆえに地表への着陸、ましてや「大気と地表の土を採取して地球へ持ち帰る(サンプルリターン)」などという芸当は、現在の科学技術では不可能であると諦められていた。
国の担当官は、切実な表情で画面に水星のデータを映し出した。
「水星には、地球のような豊かな大気はありませんが、太陽風や微小彗星の衝突によって生じた極めて希薄な表面大気——ナトリウムやカリウム、ヘリウムなどが漂っています。そして地表には、太陽系誕生初期の謎を解き明かす貴重な原始の鉱物が眠っている。しかし、既存の公的宇宙機関の予算と技術革新のスピードでは、着陸機は地表に触れた瞬間に熱で電子基板が焼き切れ、離陸・再加速の推力も足りず、永遠の灰となって終わる。世界中の研究者が指をくわえて諦めていたこのミッションを完遂できるのは、世界最高峰の耐熱・排熱技術、AI自動運転、超高密度エネルギー、そして自前の択一した技術を持つ南越急行グループしか存在しないのです」
大石専務は手元のタブレットで即座に試算を行い、冷徹な眼鏡の奥の目を光らせた。
「国家からの要請とはいえ、深宇宙探査、それも水星からのサンプルリターンとなれば開発費および打ち上げ費用は数千億円規模に達します。単体での直接的な金銭的リターンはゼロに等しい。リスクも極めて高いプロジェクトですが」
だが、古賀副社長は太い腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
「大石さん、数字の計算もいいがね、男なら血が騒ぐじゃないか。灼熱地獄の星に乗り込んで、土と空気を奪い取って地球に帰ってくる。南越車輌の職人たちや、本産自動車のエンジニア、サロナエアコンの熱制御のバカ者どもに話してみろよ。『そんな無茶なマネができるか』って目を開かせて、一週間後には徹夜で試作機を作り始めてるはずだ」
篠原はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる六日町メガロポリスの街並みを見渡した。かつて積立金三百億円を半導体株に投じたあの日から、南越急行は常に「不可能」と言われた壁を突破することで未来を切り拓いてきた。
「受けましょう。このプロジェクトは、我がグループの全技術を極限まで鍛え上げる絶好の機会です。そして何より、誰も見たことのない未知の世界の真実を地球へ連れて帰る——これほど夢のある事業はありません」
プロジェクト名は即座に命名された。『プロジェクト・マーキュリーラビット』。雪原を駆けるウサギの如く、灼熱の最内惑星を駆け抜け、無事に宝を持ち帰る決意が込められた。
受諾の決断が下されると同時に、南越急行コンツェルンの頭脳と現場が怒濤の勢いで回転し始めた。
まず最大の壁となったのは、摂氏四百三十度を超える太陽熱と強烈な熱放射から機体を守る「熱制御システム」であった。ここで主導権を握ったのは、かつて破綻の危機から南越グループ傘下に入り、世界的な熱エネルギー企業へと覚醒した「サロナエアコン」と、南越総合大学のナノ材料研究チームである。
サロナエアコンの佐竹社長とエンジニア陣は、南越総合大学が開発した高密度ナノセラミックと超多層反射フィルムを組み合わせた「アクティブ多層遮熱シールド」を考案した。単に熱を遮るだけでなく、太陽光から押し寄せる膨大な熱エネルギーを機体内部の「熱電変換素子」へと誘導し、探査機の駆動電力として一〇〇%回収・再利用する画期的なシステムである。太陽に近づけば近づくほど、探査機のエネルギーが満ちていくという、過酷な環境を逆手に取った逆転の発想であった。
次に、水星の極小な大気と固い地表土を採取するための「サンプリング・モジュール」の開発が、南越車輌と本産自動車、そして建設機械革命を起こした梅内製作所・後田製作所の技術結集によって進められた。
南越車輌の村上技師長らは、熱で膨張・変形しない特殊超耐熱チタン合金を用いたドリルと、真空エアカプセルを開発。本産自動車は、ホワイトアウトや超高熱下の砂嵐でも地表の凹凸をミリ単位で瞬時に認識する「超耐熱量子AIカメラ・ミリ波レーダー」を提供した。
さらに、水星の強力な太陽重力場を振り切り、採取したカプセルを地球まで送り届ける推進システムには、米国の名門を買収して誕生した南越通商傘下の航空宇宙部門と南越電力の共同開発による「次世代ハイブリッド・プラズマイオンエンジン」が採用された。
半年後、新形県寺尾沖の海上に燦然と輝く「新新形国際空港」を拡張したロケット発射エリアにおいて、極秘裏に建造された世界最大級の超大型回収型ロケット「ラビット・キャリア一号」の機体が聳え立った。
新形テレビ20は、編集権完全独立のもと、この人類史上初の快挙への挑戦を全世界に向けて二四時間体制で同時生中継を開始した。かつてガムテープで壊れたカメラを補修していたベテラン報道記者の高橋やカメラマンの井上らは、最新鋭の遠隔超高感度カメラを担ぎ、武者震いを抑えながら発射台を見つめていた。
「カウントダウン……三、二、一、発射!」
大気を揺るがす凄まじい爆音とともに、ラビット・キャリア一号は夜空を切り裂き、紺碧の空へと駆け上がっていった。全世界で何億人もの人々がモニター越しに息をのんでその光跡を見守った。
探査機『マーキュリーラビット』は、地球の重力を離脱後、金星や水星自体の重力を利用して減速する複雑な「マルチ・スイングバイ」を巧みに繰り返し、約一年の歳月をかけて目標である水星軌道へと到達した。
探査機が水星軌道に入った瞬間、新新形国際空港隣の管制センターおよび世界中のテレビ画面には、これまで人類が見たこともない鮮明な画像が映し出された。
そこには、漆黒の宇宙空間に浮かぶ、クレーターに覆われた灰色と銀色の荒々しい水星の姿があった。そして画面の端には、地球で見るそれよりも数倍も巨大で、狂乱したプラズマの炎を激しく吹き出す、圧倒的な太陽の巨躯が鎮座していた。
「マーキュリーラビット、水星周回軌道投入に成功! 熱制御システム、正常稼働! 機体内部温度、摂氏二二度に維持!」
管制室に歓声が湧き上がった。サロナエアコンの遮熱シールドは完璧に機能し、灼熱の太陽光線を発電エネルギーへと変換しながら機体を冷やし続けていた。
「着陸シークエンス、開始します。着陸地点は『カロリス盆地』南東部!」
篠原、大石、古賀の三人がモニターを凝視する中、探査機の着陸船「ランダー」が母船から切り離され、灼熱の地表に向かって降下を開始した。
太陽の熱気が直接地面を炙り、地表温度は摂氏四百度を超えている。一歩間違えれば、接地と同時に機体が融解するか、制御不能に陥る。
しかし、本産自動車と南越建設が磨き上げた全自動AI着陸プログラムは冷静だった。ミリ波レーダーが瞬時に落石や亀裂を回避するルートを計算し、プラズマ逆噴射を緻密にコントロールしながら、着陸船は三本の脚で水星の地表へと力強く着地した。
「接地確認! マーキュリーラビット、水星着陸に成功しました!」
次の瞬間、送信されてきたのは、新形テレビ20の技術を介してリアルタイムで八Kリマスタリングされた、人類史上初の「水星表面の地上映像」であった。
無数の微細な結晶が太陽光を浴びてダイヤモンドのように眩しく煌めく、荒々しくも幻想的な灰銀色の世界。地表近くには、太陽風によって吹き揚げられた希薄な大気成分が、ほのかな青い光の帯となって揺らめいていた。世界中の天文学者や科学者たちが、その美しさとデータの圧倒的な精度に絶叫し、涙を流した。
だが、感動に浸る時間はなかった。地表の過酷な熱と放射線が、刻一刻と機体の限界を試している。
「ただちにミッションを開始せよ!」
古賀副社長の声が響く。
着陸船の底部から、梅内・後田製作所の技術が凝縮された超耐熱チタンアームと微小気体吸引ポンプが伸びた。
まず、地表数百センチ上に漂う希薄な気体を、ナノフィルターを施した多重チタンカプセルへ高速で吸引。水星の大気成分を完璧な状態で封入した。
続いて、超音波振動ドリルが水星の固い岩盤へと突き刺さる。削り取られた原始の地表土と岩石サンプルは、南越車輌が作成した絶対密封型の真空熱遮断カプセルへと次々に流し込まれていった。
「大気サンプル、地表土サンプル、規定量の三倍の採取を完了! カプセル完全密封! 離陸準備完了!」
「よし、出ろ!」
着陸船の上部アセンブリが爆発的な推力で点火し、灼熱の地表を蹴って大空へと跳ね上がった。水星の微弱な重力を振り切り、上空で待機していた母船との自動ドッキングに成功。サンプルカプセルを安全な地球帰還用カプセルへと移送した。
そして、母船の次世代プラズマイオンエンジンが青白く輝き、太陽の巨大な重力井戸を突き破って、地球への帰還軌道に乗った。
数ヶ月後——。
漆黒の深宇宙を駆け抜けてきた帰還カプセルが、地球の大気圏へと突入した。
真っ赤な火の玉となって夜空を焦がしたカプセルは、計画通りの高度でパラシュートを開き、南越急行の「故郷」である新形県沖の日本海へと静かに着水した。
海上で待機していたのは、南越海運の大型高速船と、本産自動車の水陸両用全自動ホバー「ぶーぶーん・シーラビット」、そして南越エアラインズのヘリコプター部隊であった。着水からわずか十五分後、自前の完璧なロジスティクス網により、カプセルは傷一つなく引き揚げられた。
六日町本社の特設会場において、世界中のメディアと科学者が固唾を飲んで見守る中、回収されたカプセルの開封式が執り行われた。
厳重なプロテクトが解除され、内側の透明な真空ガラスケースが露わになると、そこには太陽系の創生期から脈々と眠り続けていた、水星の「希薄な大気」と、銀色の光を放つ微細な「地表の土」が、確かにそこに存在していた。
「サンプル回収、完全大成功……!」
会場は地鳴りのような歓声と拍手に包まれた。世界中の研究機関や国連幹部たちが、篠原、大石、古賀の三人に駆け寄り、惜しみない賛辞と感謝の握手を求めた。水星の土と大気がもたらす科学的知見は、惑星の誕生の謎を解き明かすだけでなく、新たな耐熱材料やエネルギー技術の創出など、人類に果てしない恩恵をもたらすことは確実であった。
狂乱する報道陣の喧騒から少し離れたテラスで、篠原はグラスを手に夜空を見上げていた。隣には、静かに笑みを浮かべる大石と古賀がいる。
「篠原さん、今回のプロジェクト、最終的な収支を試算しました」
大石が眼鏡を押し上げながら言った。
「開発費と運用費で約四千億円を投じましたが、水星のサンプル分析特許、新開発された超耐熱材料や熱電変換素子のライセンス料、そしてグループの世界的信用価値の向上により、今後五年で少なくとも二兆円規模の経済効果となって還元されます。またしても我が社の『勝利』です」
古賀が豪快に笑った。
「大石さんは相変わらず計算が早いな。だが、見てみろよ。テレビの向こうで、新形や山型、永野の子供たちが目をキラキラさせて空を見上げてる。南越急行の電車に乗って、あの水星の土を見に行くんだって騒いでるそうだ。これが一番の利益じゃないか」
篠原は静かに頷き、空の彼方に輝く小さな光に思いを馳せた。
かつて、赤字に喘ぎ、廃線寸前の雪国の小さな第三セクター鉄道だった南越急行。内部留保を賭けた命がけの金融格闘技から始まったその線路は、地銀を救い、街を再生し、被災地や孤島を救い、世界中の紛争地やインフラを支え、ついに遥かなる深宇宙の惑星にまで到達した。
(渡辺社長、……見えていますか。あなた方が守り抜いたあの日の線路は、いまや宇宙へと繋がりました)
渡辺前社長が遺した「線路に終着駅はない」という言葉が、胸の奥で温かく、そして強く響いていた。
南越急行の走る道は、これからも人々の暮らしと希望を乗せて、どこまでも、どこまでも力強く伸び続けていくのだった。




