第114章 巨人の休息と繋がるバトン
新形臨海地区に広がる南越重工業の「新聖龍工場」。
広大な敷地内に建てられたギガファクトリーの天井ははるか高く、超音速旅客機や宇宙シャトル、月面専用リニアの試作機が立ち並ぶ光景は、まさに人類のフロンティアそのものであった。
「……篠原CEO、こちらが来期導入予定の次世代プラズマ溶接ロボットのアーム部分です。南越総合大学のAI研究室と新行電気が共同開発した制御チップを組み込むことで、溶接精度を従来のナノレベルからさらに一桁引き上げることに成功しました」
南越重工業の技師長が熱っぽく説明を続けていた。
ヘルメットをかぶり、いつものように南越ビバレッジの特選ジャスミン茶のボトルを手に持っていた篠原賢人は、静かに頷きながらその精密なメカニズムを見つめていた。
「素晴らしい精度だ。これなら月面リニアだけでなく、深海採掘プラントの耐圧殻にも即座に応用できる……」
そこまで言いかけたときだった。
「……CEO?」
篠原の視界が、ふっと歪んだ。
世界中の金融市場を監視し、地中海の導水管やアマゾンのドローン網、月面鉄道の施工管理まで、あらゆる意思決定のデータが休むことなく駆け巡っていた脳裏に、突如として激しい目眩が襲いかかった。手からすべり落ちたジャスミン茶のボトルが、コンクリートの床に甲高い音を立てて転がる。
「篠原CEO!?」
古賀副社長の叫び声が響く。
世界を動かす100兆円コングロマリットのトップの体が、膝から崩れ落ちるように倒れ込んだ。
時価総額100兆円突破、世界預金構想の確立、宇宙ステーションに月面鉄道、そして直前の越後辻駅リノベーションに至るまで——。篠原賢人はここ数年間、文字通り睡眠時間を削り、地球と宇宙を駆け巡りながら、あらゆる判断を下し続けていた。「金融の怪物」と呼ばれた男の肉体も、やはり精巧な機械ではなく、限界を迎えた一人の人間のものだったのだ。
「救急隊を呼べ! いや、南越総合医療センターの『NK3500-MED』超高速医療特急を出せ! 今すぐだ!」
古賀の怒号にも似た指示が、工場内に響き渡った。
南越急行グループの医療の核心拠点、南越総合医療センター。
その最上階にある特別病棟の一室は、驚くほど静かだった。
窓の外には、大沼の爽やかな風にそよぐ新緑の木々と、遠くを静かに走り去る『なんなん線』の線路が見える。
「……急性疲労および極度の睡眠不足による一過性の虚血性脳不全、平たく言えば完璧な過労です」
理事長の川田医師(旧南越中央病院理事長)は、篠原のベッド脇でカルテを見つめながら、呆れたように、しかし温かい眼差しで告げた。
「心臓や脳に永続的な器質的損傷はありません。ですが、篠原さん、あなたの身体は悲鳴を上げていました。点滴が終わっても、最低一週間は絶対安静です。スマホもタブレットも持ち込み禁止。仕事は一切忘れていただきます」
ベッドの上で点滴を受けながら上半身を起こした篠原は、苦笑いを浮かべた。
「川田理事長、一週間も私が現場を離れたら、南越フィナンシャル・グループの決済や、ドバイの地底プロジェクトの意思決定が滞る。せめてタブレットだけでも……」
「ダメです」
きっぱりと遮ったのは、病室のドアを開けて入ってきた大石専務だった。その手に抱えられているのは書類ではなく、新鮮な大沼産コシヒカリで作られた重箱と、果物の籠だった。
「篠原CEO。あなたのいない間の決済および危機管理は、私と古賀副社長、そして各子会社の社長会で完全に回せる仕組みがすでに完成しています。我がグループのガバナンスを舐めてもらっては困りますね」
「大石……」
「あなたが倒れたという報が走った瞬間、ウォール街やロンドンの市場で一瞬株価が乱高下しかけましたが、私が『CEOは定期的な精密ドックと休暇に入られた』と公式発表を出し、即座に五十億円の自社株買いを発動して抑え込みました。財務的・経営的な隙は一切ありません。……ですから、素直に休んでください」
ポーカーフェイスの大石だったが、その言葉の裏には、長年共に修羅場を潜り抜けてきた相棒への深い気遣いが溢れていた。
「すまないな、大石、古賀……」
「何を言ってるんだ篠原!」
古賀副社長が豪快に笑いながら部屋に入ってきた。
「お前は働きすぎだったんだよ! 地球の裏側へ飛んだ翌日に月面のリニアの会議に出て、その夜に地元の駅の野沢菜漬けを食べてただろ? 人間、休むのも仕事のうちだ。この一週間は、お前を支えてきた連中が顔を見せに来る。大船に乗ったつもりで大人しくしてろ!」
篠原の入院が公にされないまま(「集中特別休暇」として処理された)、面会を許されたごく限られた人々が、代わる代わる六日町の病室を訪れた。
最初にやってきたのは、南越アグリのパートナーであり、地元のベテラン農家である小林(70代)だった。
「篠原社長……! いやあ、倒れられたと聞いて飛んできました」
小林は泥のついた作業着のまま、抱えてきた大きな風呂敷を広げた。中から出てきたのは、もぎたての雪下ニンジンと、炊きたての真っ白なコシヒカリのおにぎりだった。
「あんたが作ってくれたAIトラクターと南越信託銀行のおかげで、うちの田んぼは今年も最高の青空を迎えてます。だがな、社長が倒れちゃ元も子もねえ。これは俺とカカアが握ったおにぎりだ。ヘンテコな栄養剤より、新形のお米が一番効くはずだ。遠慮なく食べてくれ」
「小林さん……ありがとうございます」
篠原はおにぎりを口に運んだ。ふっくらとした米粒の甘みと塩気が、疲弊した五臓六腑にじわじわと染み渡っていく。ただの数字や株価のグラフでは決して得られない、大地と人の温もりそのものの味がした。
続いて病室を訪れたのは、新形テレビ20のベテラン記者・高橋と、カメラマンの井上だった。
高橋はいつもの取材メモを懐に収め、申し訳なさそうに頭を下げた。
「篠原CEO、お体は大丈夫ですか。本来なら取材は固く禁じられているんですが……佐々木社長から『お見舞いだけは届けてこい』と言われましてね」
井上が担いでいる8Kカメラの横には、相変わらずあの「古びたガムテープ」が貼られている。
「高橋さん、新形テレビ20の最近の報道、宇宙ステーションからの生中継も素晴らしかったですよ」
「恐縮です」高橋は破顔した。「あなたが倒れたと知った時、うちの報道局でも『親会社の不祥事か!?』と一瞬緊張が走りましたがね(笑)。冗談はともかく、我が局がこうして事実だけを追いかけられるのも、あなたが『編集権の完全独立』を守り続けてくれたおかげです。あなたが休んでいる間、この新形と世界の平和は、うちの番組がしっかり監視しておきますよ」
井上もカメラを降ろし、深くおじぎをした。
「CEO、元気になったら、また新しい『NK3500系』の試運転の時に一番乗りで取材させてください!」
「ああ、約束しよう」
篠原の顔に、久しぶりの穏やかな笑みが戻っていた。
数日が過ぎ、篠原の顔色も劇的に良くなっていた。
四日目の午後に訪れたのは、本産自動車の佐藤社長と、サロナエアコンの佐竹社長だった。
「篠原さん! サロナのヒートポンプと本産のEVモビリティの共同開発、順調ですよ」
佐竹社長が笑顔で健康ジュースの詰め合わせを置く。
佐藤社長も感慨深そうに語りかけた。
「我が本産自動車が1兆8000億円の赤字で死にかけていた時、あなたが6000億円をキャッシュで叩き込んで救ってくれた。あの時、あなたが『技術と現場の雇用を守る』と言ってくれなかったら、今の自動運転トラック『キャブオール』も、ぶーぶーん・ポッドも存在しませんでした。今度は、私たちがあなたを休ませる番です。現場のモビリティは一ミリの滞りもなく動いていますから、安心して目をつむっていてください」
さらに夕刻には、北塚歌劇宴劇団の第1期生トップ男役・翼が、公演の合間を縫って絢爛豪華な花束を手に訪れた。
「篠原CEO、白雪組・光組の生徒一同より、心からの快復をお祈り申し上げます」
男装の麗人らしい凛とした立ち振る舞いで花束を差し出す翼。
「私たちが大劇場で歌い、世界中のお客様に夢を届けられるのは、南越急行が作ってくれたあの素晴らしい舞台と、温かい劇場があるからです。こけら落としの日の『白雪の城と銀河の誓い』の客席で、あなたが静かに拍手を送ってくださっていた姿を、私たちは忘れません」
「翼さん、次の公演も楽しみにしているよ」
「はい! CEOが特等席でご覧になれるよう、最高のレビューを磨いておきます!」
病室は、色鮮やかな花々と、全国・世界から届いたメッセージカードで埋め尽くされていった。
かつて買い叩かれ、捨てられそうになり、不当なハゲタカの暴力に晒されていた企業や人々。篠原がその圧倒的な金融力と情熱で救い出し、共に歩んできた「仲間たち」が、いまや巨大な城塞となって篠原を守っていた。
入院して六日目の夜。
病室の明かりを落とし、静かな夜風がカーテンを揺らしていた。
窓の外には、満月に照らされた魚沼の山々と、高架上を走る貨物列車の小さな光の列が見える。
篠原はベッドに腰掛け、温かいジャスミン茶を啜りながら、静かに目を閉じた。
ふと、病室の入口あたりから、懐かしい足音が聞こえた気がした。
(やあ、篠原。相変わらず固い顔をしておるな)
幻聴かもしれない。だが、確かに聞こえた。
あの豪快で、お茶目で、しかしいざという時には全財産の担保書類に躊躇なくハンコを押した、老経営者・渡辺前社長の声が。
『あの300億円の積立金を株に投じると言われた時は、正直、狂気の沙汰だと思ったよ。だがな……お前さんが連れてきてくれた景色は、最高だった』
篠原は心の中で語りかけた。
(渡辺社長……私は、やりすぎてしまったのでしょうか。鉄道会社が銀行を買い、重工を作り、宇宙へ行き、月面にまで線を引いてしまった……)
幻影の渡辺社長が、クックッと喉を鳴らして笑う気配がした。
『何を言うか。お前さんが走らせたのは、ただの電車じゃない。生き場を失った人々や、捨てられかけた技術の「心」を繋ぐ列車だったろうが。……だがな、篠原。お前さん一人で列車を運転していると思うなよ。大石もいる、古賀もいる、新形の社員も、世界の仲間もいる。たまには客席に座って、車窓の風景を眺めるのも、悪くないもんだぞ』
(……そうですね。私は、少し周りが見えなくなっていたのかもしれません)
『よし! 元気になったら、またあの「そばろく」で蕎麦でも食おうや。……出発進行だ、篠原』
気配が、スーッと夜風の中に溶けて消えていった。
篠原は静かに目を開け、窓の外の月を見上げた。
胸の奥に詰まっていた重い塊が、すーっと解けていくような爽快感があった。
一週間後。
南越総合医療センターの正面玄関前。
快復した篠原賢人は、いつものビシッとした仕立ての良いスーツに身を包み、眩しい朝光の中に立った。
玄関前には、黒のセンチュリーの横で、大石専務と古賀副社長が待っていた。
「篠原CEO、顔色は完璧ですね。川田理事長からも『退院許可』が正式に出ました」
大石が満足そうに頷く。
「ガハハハ! どうだ篠原、一週間の休みは! 退屈で死にそうだったろう!」
古賀が豪快に篠原の背中を叩く。
「ああ、退屈だったよ」
篠原は笑い、胸ポケットから新品のジャスミン茶を取り出した。
「だが、自分がどれほど幸せな経営者か、よく分かった一週間だった。……大石、留守中のグループの状況は?」
大石はタブレットを取り出し、ポーカーフェイスのまま画面をすっと操作した。
「全チャネル、極めて順調です。南越通商の北米鉱物取引は過去最高益を更新。南越日本鉄道(NJR)の北海道新線も予定通り着工。ドバイの地底プロジェクトも南越建設のAIシールドマシンが目標を前倒しで掘削中です」
大石はタブレットを閉じ、篠原をまっすぐ見つめた。
「あなたが休んでいる間も、我が南越急行グループの『レール』は一ミリも止まりませんでした。……全員が、あなたの背中を見て育ったプロですから」
篠原は深く感銘を受け、二人の相棒を見つめた。
「ありがとう、大石、古賀。……よし、本社へ戻ろう。新しいプロジェクトが山積みだ」
「おうよ!」
「承知いたしました」
車に乗り込む前、篠原はふと空を見上げた。
新新形国際空港から飛び立った超音速旅客機『B7127』が、青空に真っ直ぐな白い軌跡を描いている。
そして耳を澄ませば、六日町駅のホームから、時速160kmのAI特急『新・なんたか』が出発を告げる清々しい長笛が響き渡っていた。
一度立ち止まり、仲間の温もりと誇りを再確認した「巨人の休息」。
力を蓄えた篠原賢人と南越急行ホールディングスは、さらに強く、さらに優しく、永遠に続く未来のレールへと向かって、再び力強く走り出したのだった。




