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第106章 採算をとるよりも大事なこと

第106章 採算をとるよりも大事なこと


地球規模の気候変動と未曾有の異常気象が世界各地を苛んでいた。巨大ハリケーンの猛威、極州の氷床の急速な融解、そして世界的な干ばつと森林火災。大気中の温室効果ガス(CO2およびメタン)の濃度は過去最高を更新し続け、従来の排出削減目標ではもはや地球温暖化の暴走を食い止められないという「気候危機」の境界線プラネタリー・バウンダリーに達していた。


ニューヨークの国連本部。緊急招集された国連安全保障理事会および気候変動サミットの壇上に立っていたのは、国連事務総長その人であった。


「世界は今、カウントダウンの土壇場にあります。もはや単なる『排出削減』では間に合いません。大気中にすでに漂っている数百億トンの温室効果ガスを、直接かつ超大規模に回収・固定化する地球規模のテクノロジーが必要です。そして、この人類史上最大の危機を救う技術と実行力を持つ存在は、世界にただひとつしかありません」


事務総長が指し示したスクリーンに映し出されたのは、日本の地方都市・新形県六日町に本社を置く巨大コングロマリット、「南越急行ホールディングス」のエンブレムであった。


数日後。国連からの緊急特命要請書を携えた地球環境対策特別大使が、自ら六日町の本社執務室へと足を運んでいた。


提示された要請は前代未聞のものだった。地球全土の大気中から年間数十億トン規模のCO2を直接回収(DAC:Direct Air Capture)し、それを永久に鉱物化・燃料化して無害化する「超巨大地球環境再生プラント」の建設と運用である。


特別大使が去った後、社長室には最高経営責任者(CEO)の篠原賢人、現場統括の古賀副社長、そして最高財務責任者(CFO)の大石専務の三人が集まっていた。


重苦しい静寂を破ったのは、「財務の鬼」と恐れられる大石専務だった。大石はタブレット端末の画面に表示された膨大なシミュレーション結果を、氷のように冷ややかな視線で見つめていた。


「篠原社長、古賀副社長。最高財務責任者として、この国連からの要請に対する私の結論をスケッチなしでお伝えします。……『絶対拒絶』です。本プロジェクトは、南越急行グループ始まって以来の、圧倒的かつ破滅的な『不採算事業』です」


大石は画面を操作し、赤字で埋め尽くされた試算表を二人に突きつけた。


「シミュレーションをご覧ください。国連が要請してきた大気中CO2の直接回収・固定化プラント『ギガ・カーボンキャプチャー』の建設には、世界数箇所に展開する初期投資だけで最低でも十二兆円が必要です。さらに問題なのは、その維持運用費です。大気中のわずか〇・〇四パーセントに過ぎないCO2を回収するには、想像を絶する超巨大ファンと特殊ろ過膜、そして膨大なエネルギーを消費します。年間ランニングコストは二兆円を超えます」


大石は感情を押し殺した淡々とした口調で、冷徹な論理を畳みかけた。


「回収されたカーボンを安価な合成燃料(e-fuel)や建材に加工して売却したとしても、得られる収益は年間数千億円程度。毎年一兆五千億円以上の純損失が永久に発生し続けます。国連や各国政府が提示している拠出金や炭素クレジットの補助など、政治的な思惑でいつでも反故にされる虚構に過ぎません。どれほど我がグループが世界最大の預金保有量を誇り、時価総額五十兆円を超えているとはいえ、このような巨額の純損失を生み出し続けるブラックホールを抱え込めば、株主への不誠実であり、グループ全体の健全な財務基盤を根底から揺るがします。回収の目途が立たないボランティアに、我が社のキャッシュを投じるわけにはいきません」


大石の主張は、経営者・財務官として一分の隙もない完璧な正論であった。隣で聞いていた古賀副社長も、腕を組みながら苦しい表情を浮かべる。


「大石の言うことも痛いほど分かる。ウクライナの地雷除去やドバイの地底インフラは、技術の波及効果や資源獲得という形で最終的にビジネスとして成立していた。だが今回は、ただ大気中のゴミを掃除し続けるようなものだ。費用対効果という点では、あまりにも過酷すぎる……」


二人の言葉を静かに受け止めていた篠原賢人は、窓の外に視線を向けた。眼下には、越後湯沢へ向かって力強く伸びる複線のレールと、元気に走る最新鋭AI電車が見える。


篠原は静かに立ち上がると、老舗そば屋「そばろく」の出汁の香りがほのかに漂う六日町の街並みを見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。


「大石。君の財務分析は相変わらず完璧だ。一数字の狂いもなく、会社を守るための参謀として満点の回答だよ」


篠原はふっと柔らかい笑みを浮かべ、振り返って大石の目をまっすぐに見つめた。


「だがな、大石。君にひとつ聞きたい。……我々が守るべき『会社』とは、一体何なんだ?」


「……何、とおっしゃいますと?」大石が眉をひそめる。


「我々がかつて、内部留保の300億円をキオクシェア株に投じた時を覚えているか? あの時、世界中が我々を『狂気のギャンブル』と嘲笑した。だが、あの時渡辺前社長や長谷川専務が腹をくくったのは、単に金を儲けたかったからじゃない。なんなん線の鉄路を守り、沿線住民の暮らしと地域の未来を守るためだった」


篠原は歩み寄り、大石の肩にそっと手を置いた。


「その後も同じだ。越後中央銀行の救済、本産自動車の再生、北武鉄道のホワイトナイト、ウクライナの地雷除去、ツバルの水没阻止……。我々はいつだって、目先の損益計算書(P/L)の数字だけで動いてきたわけじゃない。目の前で絶望し、当たり前の暮らしを奪われそうになっている人々がいるから、自前の技術と資金で現場へ駆けつけてきたんだ」


「しかし篠原社長、今回はスケールが違いすぎます! 地球全体の気候変動などという途方もない負荷を一民間企業が背負えば、南越急行そのものが倒れてしまう!」


大石の必死の訴えに対し、篠原は力強い声で諭した。


「大石、ビジネスの原点を思い出してほしい。事業とは『社会の課題を解決した対価』として利益を得るものだ。そして今、人類が直面している最大の課題がこの気候危機なんだよ。もし地球の環境が破綻し、猛暑と異常気象で農作物が枯れ、沿線都市が水没し、世界中の経済が崩壊したらどうなる? 我々が築き上げてきた鉄道も、金融も、住宅も、スーパーも、すべて顧客と生活基盤を失って消滅するんだぞ」


「それは……」大石が言葉を詰まらせる。


「地球という最大の『インフラ』が崩壊しかけているんだ。インフラ企業を自任する我々が、自分の家が燃えているのに『消火活動は採算に合わない』と言って見過ごせるか? 地球というホームを守ることこそが、我々のすべての事業を永久に持続させるための、究極の『リスクマネジメント』なんだよ」


篠原の瞳には、熱い情熱と揺るぎない覚悟が宿っていた。


「それにだな、大石。君ほどの天才的な財務の鬼がいて、古賀さんのような現場のカリスマがいて、南越重工や南越アグリ、サロナエアコン、本産自動車の技術が集結しているんだ。『採算に合わない』なら、合わせる仕組みを我々の手で創り出せばいいじゃないか。最初から赤字と決めつけるのは、君らしくないぞ」


篠原の言葉に、大石はハッとしたように目を見開いた。


沈黙を守っていた古賀が、膝を叩いて豪快に笑い出した。


「ハハハ! 篠原さん、言ったな! そうだぞ大石、俺たちの辞書に『技術的に不可能』と『永久に赤字』って言葉はないはずだ! 篠原さんがこうして腹を決めたんだ。俺たちでこの地球救済プロジェクトを、世界一の黒字事業に化けさせてやろうじゃないか!」


大石は眼鏡の枠を指で押し上げ、深く息を吐き出した。冷徹だったその表情に、かつてない挑戦の火が灯っていく。


「……ハッキリ言って、無茶苦茶です、篠原社長。ですが……おっしゃる通りです。『採算が合わないなら、合うスキームを構築する』。それが私の仕事でしたね」


大石はタブレットの画面を瞬時に切り替え、高速で指を滑らせ始めた。


「腹をくくりました。ただし、篠原社長。私の出す条件をすべて飲んでいただきますよ。国連の出す生ぬるい計画はすべて破棄し、我々の主導でプロジェクトを再構築します」


こうして、南越急行グループの総力を挙げた地球環境再生プロジェクト「プロジェクト・グリーン・ラビット」が始動した。


大石が弾き出した起死回生の財務スキームは、実に見事なものだった。


まず、単にCO2を回収して捨てるのではなく、回収した炭素を南越総合大学のナノ触媒技術と南越電力の核融合排熱を使って、高純度の次世代合成燃料(e-fuel)および超高強度カーボンナノファイバー(CNF)へと一括変換する「資源循環型複合プラント」として設計した。


製造されたe-fuelは、南越エアラインズの超音速旅客機や南越海運の大型船、本産自動車のハイブリッド車へ優先供給され、既存の化石燃料を完全に代替。さらに、生成された超強度のカーボンナノファイバーは、南越建設が手掛ける超高層ビルや高速道路、南越車輌の電車や宇宙ステーションの軽量構造材として高値で全量買い取られる仕組みを構築した。


さらに大石は、南越フィナンシャル・グループ(NFG)の信用力を背景に、世界初の「地球再生ソブリン・カーボン債」を発行。NGB(南越グローバル・バンキング)が保有する百兆円規模の預金から低利資金を充当し、世界中の国富ファンドや機関投資家から莫大な投資資金を呼び込んだ。


プラントの開発と建設は、南越急行グループの全製造・建設セクターが結集して行われた。


サロナエアコンが開発したのは、大気中の微量なCO2を従来の十倍の効率で吸着する「多層ナノ多孔質セラミックフィルター」と、太陽熱・核融合排熱を極限まで利用する超省エネ熱交換システムである。


本産自動車と梅内・後田製作所は、直径数十メートルにおよぶ超巨大ファンと自律吸気ドームを開発。南越建設の全自動AI建機群が、アフリカのサハラ砂漠、オーストラリアの大砂漠、中東の荒野、そして太平洋上の海上ハブなど、世界十箇所のアタカマ・サハラ・オセアニア拠点において、わずか八ヶ月という異次元のスピードで「地球環境再生ギガファクトリー・アース・ラビット」を建設・完工させた。


各工場には、南越電力が直結させた超小型・完全密閉型核融合炉が配置され、一切のCO2を排出することなく、巨大ファンを24時間365日駆動させ続けた。


春。サハラ砂漠の中心地に建設された「アース・ラビット1号プラント」の稼働式典が執り行われた。


現地には国連事務総長をはじめ、世界各国の首脳や環境大臣が集結。その模様は、新形テレビ20のベテラン記者・高橋とカメラマン井上により、衛星中継を通じて地球全土へ生配信された。


ガムテープ補修のカメラ時代から真実を追い続けてきた井上は、最先端の8Kドローンカメラを飛ばし、地平線の彼方まで広がる白亜の超巨大吸気ドーム群と、内部で青白い光を放ちながら静かに旋回する巨大ファンを映し出した。


「画面をご覧いただきたい! かつて『死の砂漠』と呼ばれたこの地で今、地球の悲鳴を吸い込み、清浄な空気と未来の資源へと変換する『地球の肺』が動き始めました!」


高橋記者の熱い実況が世界中に響き渡る。


スイッチが押されると、何千もの超巨大吸気ファンが一斉に音もなく回転を開始した。サハラ砂漠の猛烈な風とともに大気がグングン吸い込まれ、サロナエアコンの多層ナノフィルターを通過していく。


吸着されたCO2は即座に熱分離され、化学プラントで純銀色の液体合成燃料と、黒真珠のような輝きを放つカーボンナノファイバーのブロックへと変換されていく。生成された合成燃料は、南越物流の自動運転トラック隊によって即座に港へと運ばれ、カーボンブロックは南越建設の資材現場へと直行した。


大気中のCO2濃度をミリ単位で計測するモニターの数値が、リアルタイムで確実に低下を開始した。地球の自浄作用を遥かに超えるスピードで、人類が放出した温室効果ガスが「資源」として回収されていく。


この歴史的快挙を目撃した国連事務総長は、感涙を浮かべながら篠原の手を強く握り締めた。


「篠原CEO、南越急行の皆様……! あなた方は人類を、そしてこのかけがえのない地球を破滅の淵から救ってくださった!」


式典の後、世界各国の主要メディアが一斉にこの偉業を報じた。


当初「不採算で破綻する」と予測していたウォール街のアナリストや外資系ファンドは、大石が構築した「カーボン資源化・循環経済スキーム」によって、初年度からプラント単体での黒字化が達成されたという財務プレスリリースを見て絶句した。南越急行ホールディングスの株価は過去最高値を更新し、グループの時価総額は前人未到の「100兆円」の大台を軽々と突き抜けた。


一ヶ月後。六日町本社の屋上テラス。


爽やかな春風が吹き抜ける中、篠原、古賀、大石の三人は、いつものように缶コーヒーを手に並んでいた。遠くには残雪を頂く越後の山々が青空に映え、眼下には緑豊かな新形の街並みと、南越車輌の超高速AI電車が伸びやかなモーター音を響かせて走っている。


大石はタブレットの最新財務データを表示させながら、珍しく満足げな笑みを浮かべていた。


「報告します、篠原社長。『アース・ラビット』全十箇所のプラント稼働により、大気中CO2の純減が世界で初めて確認されました。同時に、製造されたe-fuelとカーボン素材の外販収益により、本事業の今期営業利益は三千八百億円の黒字となる見込みです」


古賀が豪快に大石の背中を叩いた。


「ガハハハ! 見ろ大石! 篠原さんの言った通りになっただろう! 地球を救って、しっかり儲ける! これぞ南越急行スタイルだ!」


「痛いです、古賀副社長……。ですが、認めざるを得ませんね。目先の損益計算書にとらわれず、最大の社会課題に挑むことこそが、結果として最大の利益を生む。篠原社長に一本取られましたよ」


大石は静かに眼鏡を外し、感慨深そうに澄み切った空を見上げた。大気中の汚れが取り除かれた空は、どこまでも青く透明だった。


篠原は缶コーヒーを一口飲み、二人の頼もしい背中を見つめた。


「大石、古賀さん。ありがとう。君たちがいてくれたから、我々は地球の未来までレールを伸ばすことができた」


篠原の言葉に、二人は顔を見合わせて微笑んだ。


「さあ、篠原さん。地球の環境も綺麗になりました。次はどこへ出発進行しますか?」


古賀の問いかけに、篠原は六日町から世界へ、そして宇宙へと伸びる永遠の線路を思い描きながら、力強く頷いた。


「どこへ行こうと、我々のやることは一つだ。現場の情熱を守り、人々の当たり前の暮らしと笑顔を支え続ける。南越急行のレールに、終着駅はないんだからな」


春の心地よい風に乗って、クリアな長笛の音が越後の山々に響き渡る。赤字ローカル線から始まった南越急行の挑戦は、地球を包み込み、人々の笑顔と希望を乗せて、どこまでも光り輝く未来へと駆け抜けていくのだった。

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