第9章 利確の瞬間
第9章 利確の瞬間
2026年半半ば。市場の熱狂は、もはや「理性」という言葉を完全に置き去りにしていた。
東証プライム市場のモニターに刻まれるキオクシェアの株価は、連日、数百円、時には数千円単位の乱高下を繰り返しながらも、狂暴なマグマのように上値を追い続けていた。
80,000円、95,000円、100,000円。
そして、その日は訪れた。
「112,700円」
午前10時14分。スクリーンに表示されたその数字を見た瞬間、東京証券取引所のフロアだけでなく、世界中の証券会社のディーリングルームが一瞬息を呑んだ。公募価格1,455円から、実に77.5倍。半導体史、ひいては日本の株式史上でも類を見ない、歴史的な大天井だった。
「篠原……! 11万を越えたぞ! もう限界だ、売り注文を出せ!」
六日町の本社ビル財務課。受話器を握りしめた長谷川専務の手は激しく震え、額からは滝のような汗が噴き出していた。
だが、板情報(売買の注文状況)を食い入るように見つめる篠原賢人の眼光は、氷のように冷ややかだった。
「まだです」
「なぜだ! 11万2,000円だぞ!? これ以上何を待つんだ! 一瞬で数百円下がるんだぞ!」
「見なさい、この板の厚みを」
篠原はモニターの特定の領域を指し示した。
「大天井の特徴です。買いたくてたまらない海外の個人投資家や、空売りの踏み上げ(損切り)に追い込まれた機関投資家の成行買い注文が、異常な密度で押し寄せている。ですが、その裏で……世界最上級のヘッジファンドたちが、こっそりと大口の売り注文を浴びせ始めています」
篠原の指先が、板の微細な変化を捉える。
「機関投資家の利確が始まった。上昇のエネルギーは、今この数分間で完全に枯渇します。ここが……頂点です」
篠原はキーボードの前に両手を置いた。
「長谷川専務、渡辺社長。これより、南越急行が保有するキオクシェアホールディングス株式、全1,443万2,989株の『一括成行売り注文』を発注します」
「全額……一括か!?」
「分割して売れば、我が社の巨大すぎる売り圧力で自ら株価を押し下げてしまう。市場の買い注文の厚みが最大化している『今この瞬間』に、すべての注文をぶつけるのです」
社長室から歩み出てきた渡辺社長が、篠原の肩に深く手を置いた。
「……やりなさい、篠原君。南越急行の運命を、解き放ちなさい」
「了解しました」
篠原の右指が、静かにエンターキーを押し込んだ。
――カチリ。
その小さな打鍵音が、静まり返った財務課の中に乾いた音で響いた。
数秒の沈黙。
そして、モニターの画面が激しく点滅を始めた。
南越急行が放った約1,443万株という超巨大な売却注文が、市場に渦巻く天文学的な買い注文と次々に約定していく。
112,700円、112,650円、112,500円……。
巨大な巨岩が雪崩となって買い注文を飲み込んでいく。ほんの数分前まで狂乱の買いで溢れていた板が、南越急行の一撃によって一気に押し潰されていく。
そして、画面の右下に、最終的な決済完了の通知がポップアップした。
【約定完了】
売却銘柄: キオクシェアホールディングス(285A)
売却数量: 14,432,980株
平均売却単価: 112,700円(最高値水準にて完了)
受取総額: 2兆3,250億円
画面に並んだ、桁の多すぎる「0」の羅列。
投資元本:300億円(うち事業投資210億円)。
差し引き純利益——2兆250億円。
「や……やったのか……?」
総務課の佐藤が、茫然とした声を漏らした。
「売れた……本当に、最高値で売り抜けたんだ……!」
次の瞬間、モニターの中の株価チャートが牙を剥いた。
南越急行の大売却を合図とするかのように、市場からは一斉に買い注文が消え去り、キオクシェアの株価は垂直落下を始めた。112,700円を頂点として、わずか数十分で100,000円、80,000円と崩れ落ち、その後二度とその頂点へ戻ることはなかった。
まさに、歴史の絶頂期という「針の穴」を通すような、完璧すぎる利確劇だった。
「……勝ちましたね」
篠原はゆっくりとメガネを外し、深く息を吐き出した。その手もまた、ようやく緊張から解放されたようにかすかに震えていた。
「2兆250億円の利益です。我が社の口座に、間もなく現金として着金します」
役員室に、そして財務課に、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
長谷川専務は渡辺社長と強く抱き合い、目からボロボロと涙をこぼしていた。現場の社員たちも、お互いの肩を叩き合い、奇跡の達成に酔いしれていた。
かつて「特急なんたか」を失い、廃線への緩やかなカウントダウンを待つだけだった新形の小さな第三セクター鉄道会社。
その手元には今、国国家予算の数パーセントにも匹敵する「2兆円」という怒涛の現金が、静かに横たわっていた。
「社長……」長谷川が涙を拭いながら尋ねた。「俺たちは……俺たちは一体、何になっちまったんだ……?」
渡辺社長は窓の外を見つめた。
そこには、2両編成のローカル列車が、静かになんなん線のレールを走っていく姿があった。
「我々は……鉄道会社だ」渡辺の声には、静かだが揺るぎない力が戻っていた。「世界で一番、強大な力を持った鉄道会社だ」
ここから、南越急行の本当の反撃——「2兆円の使い道」を巡る、前代未聞の物語が始まろうとしていた。




