留島アンリ
「これが失着だったって理解してるか?」
アンリは棋譜を指で叩き、刺々しい声を出す。「お前、一年間なにをしてたんだ? 部室で寝てたのか?」
「ごめん」
同学年の部員が項垂れた。返ってきた声にあまりにも元気がなくて、アンリは口を噤む。また、余計なことまで口に出した。
安斉中学の囲碁部は、強豪だ。練習試合の申し込みはさばききれない程舞い込む。今日も、そういう手合いがあった。
部員の数は多いし、質も高い。部長が二年生を選抜して、アンリ達が碁を打った。
三年が出るまでもないとばかにされている、と、対戦した正道大付属宮森の部員達は考えたようだが、そんなことではない。
部長は、今の三年生には単純に力が足りていないと思っている。比べて、二年生に足りないのは場数だ。だから、これから秋まで、他校との練習試合はすべて二年生か一年生が担当する。そう決まったのだ。
決まってから最初の相手が宮森だったから、あちらはそんな事情知らない。それで、対戦した宮森の三年生達は、アンリ達に対して敵意むきだしだった。その所為とはいわないが、アンリ以外が負ける、しかも大敗、という、無残な結果に終わったのだ。アンリにしたって、ぎりぎりのところだった。
アンリはいらついている。次の部長にと期待されているのもあるし、自分が部長になった時に負けが込むのは願い下げだ。絶対に。
「すまん、いいすぎた」
「いや、俺がへましたのは事実だよ」部員は項垂れたまま、部室に併設された書庫へ向かう。「棋譜並べしてくる」
アンリはなにもいえずにそれを見送った。
次の部長になるのは、もうほとんど決まっていることだ。しかし、アンリ自身は、自分はそういった立場に向かないと思っている。
自覚している、だな。
アンリは、喋ることが得意ではないのだ。当たり障りのない軽口や、冗談まじりの会話は悪くない。決して悪くない、と思う。
だが、真剣に話し合ったり、誰かを叱責したり、激励したりするのは、どうもうまくいかない。素っ気なく突き放すような言葉しか出てこないか、さっきのように必要以上に責め立てるかのどちらかだ。どちらにしても、アンリの行動はまったくもって健全ではない結果に終わる。友人をひとり、書庫へ閉じこもらせるような。
アンリはひとつ舌を打って、部室を出た。廊下の端に置いてある自販機で、甘いカフェオレを買う。少し前なら、部員六人くらいでたむろして、リーグ戦がどうの地区予選がどうのと話しながらだった。
アンリが次の部長に内定して、直後にアンリに次ぐ実力のあった鶴城が転校していき、そういう輪が崩れた。今はみんな、初心者の一年にアタリや劫の意味を教えているか、自分よりも強い相手と対戦しているか、血眼になって棋譜を並べているかだ。そして俺はひとりでいらつきながら糖分を過剰に摂取してる。
冷たいカフェオレは咽に染みた。アンリはちょっと咳込んで、どうして鶴城が次の部長に選ばれなかったのかと、この数ヶ月ずっと考えていたことをまた考えている。
鶴城在人。アンリにとっては親友であり、越えるべき障害であり、あこがれの存在だ。
鶴城に勝っていると思えるところはない。成績で鶴城に勝てたと思えたことはないし、運動でもそうだ。鶴城の腹がたつところは、なんでもそつなくこなして、それが当然のように涼しい顔をしているところである。必死になって勝ったところで、鶴城が本気かどうか判断できないから、アンリは勝てた気がしないのだ。
ついでに、囲碁に関しても、鶴城に勝てているとは思っていない。たしかに校名を背負っての対戦に出た回数はアンリのほうが多いし、戦績もアンリのほうがいい。
だが、アンリは浮き沈みが激しい。勝ち続けている時は誰にも負けないが、負けはじめると見るも無惨な負けかたをする。
ひき比べて、鶴城にはそういうむらがない。棋力が相当上の相手に勝てることは少ないが、格下相手に負けることもやはりほとんどない。安定しているのだ。
アンリはそれが羨ましい。鶴城の、動じないところが。
自分は感情だけが行動の手綱を握っているような気がしている。
今までも自分の精神状態には振りまわされてきていて、はっきりいってなにかしらの欠陥、もしくは病的なものがあるのではと疑っている。多分、それは存在する。
アンリは紙コップをごみばこに叩きこんで、部室へ戻った。なにはともあれ、次の座野中との練習試合に備え、準備をしておかないといけない。
帰り道、アンリはふと思い立って、電車にのった。向かう先は、目の前の白い砂浜が自慢のホテルだ。
電車から降りて、バスにのり、アンリは砂浜の前に降りた。一度、鶴城達と来たこともあったな、と思う。ラウンジで常連客相手に賭け碁をした。といったって、初恋の相手の話をさせるとか、ひとつ二百円のマカロンをおごらせるとか、その程度の可愛いものだ。
鶴城の妹のいつきが自分も行きたいと騒いだと、鶴城はなんともいえない表情でいっていた。あの時まだ小学生だったいつきは、今年になって安斉にはいり、すぐに転校してしまった。ほんの短い期間だけど、みんなで一緒に帰ったり、下校途中に喫茶店へ寄って喋ったこともあったのが、何世紀も昔の話みたいだ。
アンリは階段を下って、砂を踏んだ。くつと靴下を脱いで、靴下は鞄に突っ込み、くつは手に持つ。白くてさらさらした砂を踏んで歩く。
波が押し寄せ、うちつける音がする。さらさらした音だ。砂の質感と、耳に響く音とが、妙に同調している。
夕日が海の上に見える。アンリはちらっとそれを見て、それから波打ち際に、ふたつ、人影を見付ける。今の時間は、長期滞在の客が犬を散歩させているくらいしか見かけないのに、誰だろう。
ふわふわと癖のある長い髪を風になぶらせている、少女だった。横顔が綺麗だ。鼻筋が通っていて、口許に品がある。夕日に照らされているのがまるで、絵画のように見える。
その横には、せなかを丸めた中年の男が、心配そうに立っていた。アンリは目を細める。親子には見えない。まったく似ていないからだ。
少女は幡野中学の制服を着ていた。どこかで見たことがあるような気がして、アンリは立ち停まる。
それから、たまにホテルに来ている家族の娘だ、と思い出した。藁積の名家の娘。美人で、優雅で、品がある、淑女。中年の男はお付きだろう。運転手かなにかかもしれない。
アンリは、その少女を見る度に、なんともいえず居心地が悪くなる。彼女は美人で恵まれているが、表情も仕種も、なにもかもが不幸せそうだからだ。母は小さなお姫さまだというが、アンリには異端審問の開始を待つ乙女に見える。
明るくにっこり笑えば、もっといい印象を持てるんだけどな。あのこと比べたら、いつきがどれだけ可愛かったか。
アンリは少女から目を逸らし、再びホテルへ向かった。こうやって、家族から離れてひとりで居ると、あまり不幸せそうには見えないな。それでも、あんなしょげかえったような様子は、見ていたくない。
長い髪を手でぴんと払う。そろそろ切ろうか。
他人に体を触られるのは好きじゃない。感情がうまくコントロールできなくなる。
「……ただいま」
テラスからロビーへはいって、アンリはぼそっとささやく。制服を着た女性従業員がやってきて、にっこりした。「ようこそおいでなさいました、ぼっちゃま」
「ああ。母さんは?」
「執務室に。お取り次ぎいたしましょうか」
「いや、必要ない。ラウンジでおじさま達相手に荒稼ぎしてくる」
アンリが冗談まじりにいうと、相手はころころ笑った。
砂を払い落とした足でくつをはき、アンリはラウンジへ行った。このホテルは、アンリの母親が経営している。アンリ自身、幼い頃から頻繁に訪れていて、親しんでいる建物だ。鶴城達にはなんだか気恥ずかしくて、母が経営しているとは話せていない。単に、碁を打てるのでラウンジにはいりこんでいるだけだ、と説明した。
今でも気が塞いだ時や、テスト前に集中したい時、ここに泊まる。勉強には最高の環境だ。邪魔がはいらないし、ロビーやラウンジには大勢のひとが居て、気が紛れる。
ラウンジでは、常連もしくは長期滞在の客がくつろいで、海や砂浜を眺めながら会話に興じている。カードゲームやボードゲームを楽しんでいるひと達も、ちらほら居る。そのほとんどが中年以上の男性で、女性は少ない。
アンリが姿を見せると、碁好きの人間が放っておかなかった。あっという間に捕まって、手合いがはじまる。
アンリは調子がよくて、ズコットとオペラをおごってもらえた。
「ねえ、あの子かっこいい」
「ほんと」
「綺麗な色の髪ね」
「ねえ」
ロビーで突っ立っていると、そんな声が聴こえてくる。いつものことだ。アンリはそれを聴き流す術を身に着けている。フランスとのミックスで、髪や目の色が標準的な日本人から離れているアンリは、それだけで外見的に優れていると思いこまれる。実際、そこまで整った顔ではないと、自分では認識していた。だから単に、めずらしいものに対する興味と、好もしさとを混同しているのだ。
いつきは奇異の目で見てはこなかった。鶴城から、アンリの見た目を聴いていたのかもしれない。それとも単に、彼女がまともな神経をしていて、アンリの目や髪の色、それに難のある発音に気付いていないだけかも。そうならいい。
はじめから偏見を持たないで接してくれたのは、鶴城兄妹くらいだ。あのふたりはどうして俺なんかをまともに扱ってくれるんだろう? 理解に苦しむ。
従業員が小走りにやってくる。「ぼっちゃま、あいたそうです。どうぞ」
「ああ」
アンリは頷いて、整髪室へ向かった。それくらいの設備は整っている。長い髪を切ったら、少しは気分がよくなるかもしれない。なんだか不安な、この気分が。
アンリは眉をひそめる。なんでも深刻に捉えるのは悪いところだと、父からいわれたことがある。深刻に捉えているつもりはない。真剣なだけだ。
整髪室で頭を触られる不快な時間が過ぎ、アンリは体重を少し軽くして廊下へ出た。頭の後ろへ手を遣ると、切ったばかりの毛先がちくちくと指をさす。暫く不快感は続きそうだ。寝返りを打ったら酷い目にあうだろう。
「アンリ」
「……母さん」
母が軽く息を切らしてやってきた。パーマをあてた髪がふわふわと揺れる。
フランス人の父から遺伝したと思われがちな髪の色だが、実際は母譲りだ。日本人だって皆が皆黒髪じゃない。「すぐに報せてくれればいいのに。それに、どうしたの、その髪は」
「切りました。それに、仕事の邪魔をする気はありません」
「息子と会うのが邪魔になるような仕事なら辞めるわ。で、夕食は? まだ?」
「はい」
「それじゃあ、一緒に食べましょう。今日はおいしい鯛が食べられるらしいから、期待できるわよ。運がいいわね、アンリ」
母はアンリの頬を両手ではさむ。「まあ、かっこよくなっちゃって。女の子達が黙ってないわ。小さなお姫さまに気にいられるかもね。今日、ご家族でいらしてるの」
アンリは肩をすくめた。くらいやつは好きじゃない。女でも、男でも。
自分が陰鬱な性格をしているから、違うものを求めるのだろう。
食堂で、いつものテーブルにつく。母は平気で、仕事相手との食事にアンリを同席させる。将来このホテルをアンリが引き継ぐから、今から顔を覚えてもらったほうがいい、という理屈だ。
アンリは背凭れに身を預け、例の美少女のテーブルへ目をやった。すらっと背の高い、だがなんとなくプロポーションの美しくない母親と、うっすら色のついたグラスがはまった眼鏡の父親と、あの美少女だ。美少女の顔は微笑みで固定されているようで、父母の言葉に機械的に頷きと相槌を返していた。あの母親は、痩せすぎだな。羸痩。
母が短くてふといヒールのくつで歩いてきた。標準よりも少々重たい体をしている母は、それなのにあしおとをほとんどたてずに移動するのが得意だ。「お待たせ、アンリ」
「そう待っていませんよ」
アンリは席を立ち、母の後ろに居る男性ふたりを見る。母が、背の低いほうを示す。目の色が青いことに気付く。
「こちら、雨橋さん。今度のイベントの責任者」
「雨橋ルークです」
「どうも。留島アンリです」
握手をする。雨橋はロシアとのミックスだそうだ。
背の高いほうが声をかけ、アンリ達は席に着いた。そちらは、母の部下の、堤某だ。下の名前をアンリは覚えていない。
単なる自分の感情の発露で、好き嫌いだから、母にはいっていないが、堤某はどうにも好きになれない。失礼なことをされたとか、いやな場面を見たとか、そういうことではないのだが、生理的にうけつけない。
こういうふうにひとを判断するのも、よくないところだ。鶴城ならそんな独善的なことはしないだろう。あいつは完璧だから。
食事はただただ気詰まりだった。母と雨橋は堤を気にいっているようで、アンリはほとんど黙っていた。もしくは、相槌を打つか、微笑んで頷くかだ。あの少女と俺は、たまに凄く似通った立場になるらしいな。
いつもの部屋はいつも通り、完璧に整っている。食事を終えたアンリは、タルトタタンを注文してから部屋へはいった。短い移動時間の間に、部屋のテーブルにはタルトタタンが用意されている。
アンリはベッドに倒れ込み、天井を見詰めた。暫く目を瞑る。それから起き上がって、バルコニーでタルトタタンを食べようと、タルトタタンの皿を持ってフランス窓から外へ出る。
夜空には星がきらめいていた。アンリがいつも泊まる部屋からは、砂浜が見える。そこにはまた、あの少女が居た。今度は完全にひとりぽっちだ。
アンリは眉をひそめ、バルコニーにあるテーブルへタルトタタンの皿を置いて、室内へとって返した。備え付けの電話の受話器をとり、受付へかける。「はい、ぼっちゃま」
「柴宮さん。砂浜に居るお嬢さんに、なにかあたたかい飲みものと、肩掛けでも持っていってもらえる? 俺からということは黙って」
「はあ……」
「それで解る筈だから。代金はきちんと、俺に請求して」
三秒くらいあって、はいと返事があった。アンリは礼をいい、受話器を置く。
バルコニーへ出て、手すりに凭れるみたいにして砂浜を見た。二分もせずに、ホテルの制服を着た女性従業員が走り出てきて、あの少女に話しかける。暫くやりとりがあって、少女は従業員と一緒に、そのあしあとを踏むみたいにして、ホテルへ戻る。アンリは少し安心して、タルトタタンを食べよう、と思う。あんなところにひとりきりなんて、彼女は自分の命をなんとも思っていないのか?
鶴城の転校先、幡野中との練習試合を、部長に提案してみた。あちらには囲碁部はあるものの、人数が少なくて、そういったことは通らないだろうといわれた。顧問も監督も認めないだろうと。
鶴城は囲碁部にはいっていないらしい。アンリも鶴城も、筆まめなほうではないから、メッセージのやりとりもたまにしかしない。鶴城は、とにかく勉強を優先する、とはいっていたが、囲碁部にもはいっていないとは。
家に帰ってから、鶴城に電話をかけた。家の固定電話からだ。
「はい、鶴城です」
「ああ、いつきか」
電話の向こうで息をのんだ気配がある。アンリは微笑んだ。「どうも。覚えてるかな。君の兄貴の、悪友の、留島だけど」
「留島さんを忘れる訳ないじゃないですか」
「そうか」
怒ったみたいないつきの声が可愛くて、アンリはくすくす笑う。いつきは素直で、可愛い子なのだ。だから、いつだってちょっかいをかけてしまうし、からかうのが楽しい。まるでアンリのことを、一人前の人間のように扱ってくれるから。
「そちらは、どう? 幡野中には慣れたか」
「はい」いつきの声は弾んでいる。「放送部にはいって、週に二回、お昼の放送のお手伝いしてます。お兄ちゃんもわたしも、お友達、沢山できました。幡野は内部進学が多いから、仲間外れにされるかと思ってたんですけど……」
「そんなことされたら、安斉に戻っておいで」
いつきがくすくす笑う。「留島さん、お兄ちゃんに優しいんですね」
「うん? いや、あいつはどこに放り投げといたって、その場でなんとかするさ。俺が心配してるのはいつきだよ。君が哀しそうにしているのは、想像するのもいやなんでね」
いつきは黙る。アンリは受話器と電話本体をつなぐコードを、指でくるくるといじる。年代物の電話だが、父母は新しいものにかえようとしない。
「……留島さん、お兄ちゃんに用事ですよね?」
「ああ」
「お兄ちゃん、まだ帰ってないんです。言付かります」
「いや、いいよ」アンリは小さく息を吐く。「いつきの声を聴いたら、正気に戻った」
「え?」
「君ら兄妹が転校していって、淋しい思いをしてたんだ。……これ、兄貴にはないしょにしといてくれよ」
一拍あって、いつきははいと答えた。アンリは頷く。
暫く話した。いつきは鶴城の同級生達の話をしてくれる。なかでも、鶴城はやはり、何事もそつなくこなしているらしい。腹立たしい、と、アンリは思うが、その一方で誇らしくも思っている。
気付くと三十分も話していた。耳が熱を帯びている。兄貴にはこの電話のことはないしょに、と頼むと、いつきは笑いながら応じてくれた。
電話を切って、アンリは自分が安堵していると自覚する。いつきの声は、よく効く鎮静剤のようだった。
流星群のことを聴いたのは、めずらしくかつてのメンバーで、糖分を摂取していた時だ。
カフェオレはあたたかくても咽を刺した。
「あの流星群って、こっちでも見えるのかな」
「藁積だったらどこに居てもよく見えるってよ」
「じゃあ鶴城に教えてやろうぜ。留島?」
アンリは小首を傾げる。ちらっと目にはいった自販機の前には、一年女子の列ができていた。
なにが楽しいのか、アンリがたまに自販機でカフェオレを買って飲む、という情報が共有されているようで、面白くもないひとの顔を眺めに来るのだ。このところ、自販機の中身を補充に来る業者をよく見かけるのは、彼女らの為に売り上げが上がっているからだろうか。
肩を小突かれる。
「よりどりみどりだな、アンリ」
「面白くないぜ」
「笑わせようとは思ってない。実際のとこ、お前はもててる」
アンリは肩をすくめる。「流星群って、なんだよ?」
話題をかえたくていったが、図に当たった。仲間達が目を瞠る。
「お前知らないのか? 来週、見られるらしい。もの凄い量の流れ星をさ」
「世紀の天体ショーだって、ニュースなんかでやってるぞ」
アンリはもう一度肩をすくめた。テレビで見るのは、囲碁関係の番組と、海外のドキュメンタリー番組くらいだ。後者は、いつきに勧められてから、なんとなく見続けている。
くわしいことを調べてみよう、と思った。流れ星に願いをかけるというのは、そろそろ打つ手がなくなってきた自分には、ぴったりだ。
調子は落ちている。
アンリはこの二週間、まともな勝ちを拾っていない。その前の二週間も、勝率はかつてないほど悪い。その二週間前にあった座野との対戦も、負けた。
二年生達は、いつものことだと大目に見てくれている。三年生は、もう少しメンタル面を鍛えるようにとアンリをせっつく。一年達はアンリのいらだちの被害にならないよう、なにもいってこない。
アンリはホテルに行く。このところ、毎日のように泊まっていた。家に居ても、隣に住んでいる母方の祖母やおじおば、いとこらと顔を合わせるかもしれない。留島の家に海外の血をいれた母と、その証拠みたいなアンリは、彼ら彼女らからよく思われていないのだ。
ラウンジで碁を打とうかと思ったが、辞めた。こういう気分の時に打っても、ろくなことはない。
「ぼっちゃま」
「……堤さん」
アンリは会釈して、堤を見上げた。堤はにこっと笑う。どうしてだか、それに嫌悪感がわく。だがアンリは微笑む。
「また、紳士相手に荒稼ぎですか?」
「いえ、今日はやめときます」
「そうですか……ぼっちゃまは、わたしにだけは、そうやっていつまでも敬語をつかわれますね」
アンリは堤から目を逸らさない。堤は微笑んでいる。「嫌われているのだろうかと、びくびくしているんですよ」
「とんでもない」アンリは大袈裟にいう。「堤さんはここの支配人でしょう。俺がここの経営者の息子だなんて、単なるお客さんはご存じないし、支配人が子どもに顎でつかわれるのはおかしいですから」
「……ご配慮くださっているんですね?」
「母の仕事の邪魔をしたくないんです」
アンリはくいっと肩をすくめる。
堤は納得したのか、していないのか、とりあえずそれ以上の追求はしてこなかった。
「今日も、タルトタタンを?」
「はい」
「手配しておきましょう。お食事の後で宜しいでしょうか」
「お願いします、支配人」
堤が一瞬満足そうにした。アンリは軽く吐き気を感じた。
「ああ、一週間後よ」
母と、例の少女の父母と、アンリはテーブルを囲んでいた。今度、仕事相手になったのだそうだ。幡野なんとかと紹介されたが、アンリは幡野夫妻の下の名前をすぐに忘れた。呼ぶ機会もないし、いいだろう。
安心なことに、少女は居ない。同じテーブルに相槌と頷きをするからくり人形は、二体要らない。
「この辺りでは、明けがたの三時半くらいから、四時まで、沢山星が降るんですって」
「騒がれてますわね」
幡野夫人がにっこり笑う。娘より三段劣る、と、アンリは心のうちでその容姿を採点する。ひとから容姿をとやかくいわれるのが嫌いなくせに、こうやって他人の容姿を気にするのだから、俺は矛盾しているな。
一週間後、午前三時半から四時。アンリは頭のなかにメモをして、頷いた。
食事には同席しなかったが、来てはいたようだ。幡野の娘はまた、砂浜に居た。アンリはバルコニーからそれを見て、また受付に電話し、女性従業員が幡野の娘をホテルまで引き戻した。彼女には自殺願望でもあるのだろうか。
タルトタタンは、少し味が落ちた。苦みが足りないし、りんごの香りがぬけている。翌日、顔見知りのパティシエールにそう伝えると、困った顔をされた。
一週間経って、未だに調子の上がらないアンリは、いらいらした気分のままホテルに来ていた。いらいらは最高潮だ。前日、久々に顔を合わせた祖母に露骨に侮辱され、部では天元がどこかも解っていないような一年に中押しで負け、見も知らない女生徒から告白されて断るのに苦慮した。
今日もなにもいいことはない。昨日の女生徒に勇気を得たのか、ラブレターを幾らか渡されたし、そのことで部員にからかわれた。明日になったらこの全部に断りをいれないといけないのかとうんざりする。
「ぼっちゃま」
「ああ、支配人」
アンリはそれでも、堤に対してはいらいらした顔を見せなかった。こいつに弱みを見せたらまずいと、そう思っている。
「お部屋にタルトタタンを?」
「お願いします」
堤はにまにまして、いなくなった。アンリはふんと鼻を鳴らし、部屋に荷物を置いてから砂浜に出る。
ふっと、いつきのことが頭をよぎった。夏休みになったら、鶴城兄妹をここに誘うのはどうだろう。いつきはここを走りまわって、楽しそうに笑い声を立てるに違いない。それを聴いたら、自分は調子を取り戻せる。彼女の笑い声は、俺によく効くから。
アンリは夜が更けてから、砂浜に出た。
懐中電灯と、ケータイだけ持っている。仮眠はとった。なにかいい夢を見た気がするが、思い出せない。もしかしたらいつきのことかもしれない。だったらいいなと思う。
砂浜で流木に腰掛け、天を仰ぐ。懐中電灯を消して、暫く待っていると、星がきらっきらっと光りながら、夜空を駈けていった。何度もこうやって、この光景を見た気がする。勝てなくなって、鶴城と、いつきのことを考えて、あの少女と自分を少し重ねていやな気分になって。
まるで海に落ちるみたいに、長く尾を引いて落ちていく星を見て、アンリは一筋、涙を流した。
世界にひとりきりのような寄る辺のなさと、波の音さえひそやかな情況が、アンリの感情を揺さぶった。
アンリは泣きながら部屋へ逃げ込み、錠をかけて、ベッドに突っ伏す。とてもいやな気分だ。自分はこの世界から拒絶されている。鶴城のように、どこに居たって間違いでないような、完璧さを持っていない。居場所がない。
アンリは泣きながら、思い出していた。どうしてあの少女を気にするのか。
意識はあるのに夢を見ているようだ。
アンリは大人になって、このホテルを訪れている。ずっと前に堤に権利を奪われた。母はひとがいいから、騙されたのだ。それがどんな手段によるものかは知らない。堤は信用できないと母にいっておけばよかったと後悔した覚えがある。
それでもアンリはここが好きで、たまに来ていた。ラウンジの洋菓子の質は見る影もなく落ちて、パティシエもパティシエールもアンリの知らない人間になっていた。
そこで、あの少女、いや、女性を見付けた。アンリ同様大人になった彼女を。どうしてだか、親しげに喋った。彼女は不幸せそうではなかった。
どうしてここにと問えば、体調がよくなくて落ち込んでいるの、と率直な返事がある。あいつにいったのかとアンリは訊く。あいつが誰なのかは解らないが、彼女の夫のことだと頭では理解している。
彼女は頭をふる。妹さんのことがあったから彼、わたしが体調崩すと本当に心配してくれるの、だからいえない、と。
アンリは頷いて、砂浜での散歩に彼女を誘う。彼女はヒールだからと断るが、アンリは強引につれていった。彼女を負ぶって、かつて彼女がよなかにひとりで佇んでいたところまでつれていき、夕日を眺めた。彼女は泣いているようだった。
それだけですめばよかったのだ。
ふたりでホテルまで戻ると、黒い煙が出ていた。アンリは思い出した。堤が設備費や人件費、食材費などを、必要以上におさえていると、柴宮が退職前にこぼしていたことを。堤は越えてはならない一線を越えたのだ。危険なレベルまで設備点検を怠ったのだ。
いつもアンリが泊まっていた部屋の窓に、子どものかげがうつった。アンリはホテルに駈けこみ、彼女が留島くんと叫んだ。
どんな理由であっても、思い出の建物で人死にを出したくない。それだけだった。逃げようとする客や従業員達の流れに逆らい、アンリは階段をのぼった。熱がこもっていて、体を焼かれた。あの部屋には子どもがふたり倒れていて、アンリはその子達をコートで包み、抱えて、来た道をとって返した。廊下には彼女が居て、速く逃げろと怒鳴りながら子ども達を渡した。
床が崩れた。彼女は待っててと叫んで、子どもふたりをなんとか抱えて逃げていった。
アンリは助走をつけて、床に開いた穴をどうにか飛び越えた。だが、そこで限界が来た。袖口で口許を覆っていたが、意識が薄れていくのを感じた。少なくとも子どもを死なせないですんだのだからよかった、と思った。
そこに彼女が戻ってきた。服は破れ、くつは片方なくなり、彼女は泣いていた。倒れたアンリの腕をとり、自分も死にそうなのに、死なないでと泣いていた。あなたが死んだら彼女が哀しむから。彼女はわたしの大切なひとなの。
それが誰をさしているのか、解らない。
彼女は酷く咳込んで、膝をついた。上のほうからいやな音がした。アンリは最後の力を振り絞って、彼女に覆い被さり、そこに天井が崩れてきた。
酷い姿勢で寝ていたから、寝違えた。
アンリは床の上で目を覚ました。顔を洗うと、涙の痕が赤くなっていて、いやな気分になった。あれは本当のことだと思っている。夢ではないと。
食堂に行った。母との朝食だ。母はアンリが泣いた様子なのに気付いて、心配そうだった。「ねえ、アンリ、囲碁部だけれど、暫くお休みしたら? あなた、最近根を詰めすぎよ」
「母さん」アンリはブリオッシュをひき裂く。「堤には気を付けたほうがいい」
母が目を瞠る。アンリはそれを見詰める。
「最近、タルトタタンを食べました? 味が凄く落ちてる。どうしてなのか、調べるべきだと思いますよ」
「……アンリ」
「もとからあいつは好かなかったんだ」
そう認めると、胸のつかえがとれたような気がした。アンリはちょっと笑って、やはり味の落ちたブリオッシュを頬張った。
夢のなかで歩いているみたいな、頼りない不安な日が続き、アンリはある日現実にひきもどされた。鶴城から電話があって、いつきが入院したと聴いた。
アンリは奈落に叩きおとされたような気分になった。
病院のベッドの上で、いつきは積み上げたクッションに横向きに凭れかかり、寝息を立てていた。アンリはそれを見詰めている。いつきは不安なのだろう、涙がきらきらと光っている。
ひとりで見舞に来た。学校は行かなかった。
いつきの頬へ触れようとして、辞める。アンリは彼女をただ見詰める。いつも元気で、些細なことでよく笑い、楽しそうにお喋りをするいつきが、泣きながら眠っているのは、アンリを動揺させた。
息をひそめて立っていると、いつきが目を開けた。アンリに気付いて、力なく体を起こし、目許を拭う。「る。……留島さん」
「よう、いつき。見舞に来た」
なんでもないようにアンリがいうと、いつきはにこっとした。
「まだ、午前ですよ」
「そうだな」
「……今日は平日だった筈ですけど」
「なにか問題が?」
いつきはもう一度、目許を拭う。その不安が伝わってくる。
アンリはいつきの手を掴む。
「いつき」
「……はい」
「はやく元気になってくれよ。お前が元気じゃないと、俺は」
言葉が出てこなかった。
自分はいつきに依存している。
いつきが元気でないと、生きた心地がしない。
いつきは黙って、頷いた。
アンリは暫くそこに居て、いつきと話した。いつきは病気のことはなにもいわず、幡野中でのことを話した。
「お兄ちゃんに、彼女ができたんです」
「は?」アンリは目を瞠る。「あいつに?」
「はい」
「信じられない」
いつきはくすっとする。「わたしも信じられませんでした。でも、お相手は、七海さんっていって、凄く素敵なひとで……」
「鶴城と付き合っていられるんだから、並みの人間じゃないぜ」
いつきは冗談ととったか、くすくす笑った。だが、アンリは本気でいったのだ。鶴城のような完璧な人間と付き合えるのは、余程鈍感か、自分に揺るぎない自信のある人間だけだと思ったから。
いつきは、彼女ができてから兄がしあわせそうなのだと、嬉しそうに語った。アンリは落ち着いた気持ちで、頷いている。鶴城には、そういう相手が必要だったのだろう。それだけはなんとなく、解った。
火事の夢を思い出して、人間というのは簡単に死ぬのだなと思った。
「いつき?」
「はい」
「こんな時になんだけど、いいか」
「なんでしょう……」
不安げないつきに、アンリは笑みかける。彼女が居ないと、俺はだめな人間になるみたいだ。
「付き合ってもらえないかな、俺と。できたら、結婚を前提に……」
アンリはその日から、度々、いつきを見舞った。囲碁部の活動は少しだけ休んだ。
鶴城と久々に顔を合わせ、それから、鶴城の彼女とクラスメイトと知り合った。噂の七海は、まるっこい顔が可愛らしい、家庭的な女性だった。鶴城とは相性がいいように思える。
それから、驚いたことに、例の少女がいた。幡野藤というそうだ。アンリはあの夢のことを思い出して、軽口で動揺をごまかした。
もうひとり、一郎丸という男子生徒は、何回か会って、親戚だと解った。はじめはよそよそしいやつだと思ったが、人見知りだっただけのようで、何度か顔を合わせると普通に喋るやつだった。
いつきの手術の日、アンリは鶴城達と、病院のロビーに居た。担当の看護師が満面の笑みで小走りにやってきて、いつきの手術は成功したと伝えてくれた。アンリ達はほっと息を吐いた。
アンリは鶴城と一郎丸と、軽く手を合わせ、七海と幡野が嬉しそうに手を握りあっている。幡野を見て、ふっと、ホテルのことを思い出した。
使い込みが解って堤はホテルを追い出され、経営はもとのようになった。母は落ち込んでいるが、柴宮含め古くからの従業員達がそれを励ましている。すぐに立ち直るだろう。
「なあ、鶴城」
「ああ」
「いつきが元気になったら、あのホテルに行かないか? 一度、碁を打ちに行っただろ。西風館ホテル」
幡野がそれに反応した。「あのホテル、素敵よね。砂浜が綺麗で。わたしよく行くわ。車から砂浜と海を眺めて……たまにしか食べないけれど、タルトタタンがとてもおいしいのよね」
「ああ」アンリは苦笑する。「危うく食べられなくなるところだったけどな。支配人が食わせ者で……って、どうでもいいか。鶴城、前はいわなかったけど、あのホテルうちの親が経営してるんだ。だから、いい部屋とれるぜ。俺も、小さい頃からよく行ってて、思い出もあってさ……いつき、来たがってたっていってたろ、お前」
鶴城は幽霊でも見たような顔をした。一郎丸が心配げにいう。「鶴城?」
「留島」
「……ああ」
「支配人がどうのとは?」
アンリは首をすくめる。
「ああ、まあ、すんだことだからいうけどさ。支配人だったやつが、どうも、経営をのっとろうとしてたみたいなんだ。柴宮さ……従業員に聴いたら、なんか結構まずかったみたいで、下手したら年内にもそうなってたかもって。冗談じゃないだろ」
「……そうか。そういうことか」
鶴城は頷いて、ほっとしたみたいに微笑んだ。七海がきょとんとしている。
「鶴城くん……」
「いや、なんでもないんだ」
そういいながら、鶴城は涙ぐんでいた。「本当に。……邪推はするものじゃないな」
鶴城の目から涙がこぼれるのを、四人はきょとんとして見ていた。
アンリはバスに揺られている。今日は、思いきり、洋菓子を食べるつもりだ。いつきが退院したら、ホテルへつれていって、おいしい洋菓子を沢山食べさせてあげたい。それから、砂浜を歩いて、かいがらを拾おう。
夜空を見るのなんていいかもしれない。あの日のような、盛大な流星群を。




