ベタだけど蛹から蝶へ その②
土曜日。梨央と麗子は待ち合わせの時刻よりだいぶ早く駅に着いていた。
顔を合わせると喧嘩ばかりしている二人だが、昨日散々やり合ったため今日はネタがないのか、静かに小春が来るのを待っている。
梨央はブルマみたいに裾の短いホットパンツで太ももをにょきにょきと出し、上は紫色の派手なタンクトップという、いつものヤンキーっぽい服装だ。
麗子は麻布の長めのスカートに、紺色の地に白い小花模様のブラウス。清楚な感じが麗子に良く似合っている。
「遅いわね、小春」
梨央がそわそわしながら言った。
「遅いことはないじゃない。まだ十分前よ」
「あたし一時間前から来てるのよ。あたしの気持ちを慮って、早めに来るべきじゃない?」
「あんたそんなに早く来たの? あんたが十時って言ったんでしょ」
呆れる麗子。そうこうしているうちに噂をすればなんとやらで、小春が小走りでやってきた。
「お、お待たせしましたあ……」
「あ、小春ぅ、おはよ~!」
さっきまで巌流島の佐々木小次郎のように苛立っていた梨央が、満面の笑みを浮かべる。かと思うと、急に雲がかかったように暗い顔になった。
小春は、ひょっとしてこれは絶滅したはずのケミカルウォッシュらしいジーンズに、絶対に980円以上はしそうにないTシャツを着ていた。手に持っているのは買い物用のマイバッグか?
かなり痛いファッションに重たげなぼっさぼさの長髪。芸人みたいなでかいメガネ。これでバッグがディパックなら一昔前のオタク少女だ。
梨央は溜息をつき、ジト目でレイコを睨んだ。
「な、何よ梨央、その目は」
「レーコ、あんたのこれまでの怠慢の結果がここに現れてるわよ。ちょっとは責任を感じなさい」
「わ、私がこうしなさいって言ったわけじゃないわよ。アドバイスしなかっただけで」
「だいたいあんたがねえ、ロングのワンレンにぱっつん前髪って、植木屋でも切れそうな髪型してるからいけないのよ。顔がいいからそんなんでも似合っちゃうけどさ。生まれ持った遺伝子の上にあぐらかいておしゃれする努力を怠るから、あんたのおかしなセンスが小春に伝染するのよ」
梨央が遠慮なく批判すると、麗子はカッとなった。
「だ、誰の髪が植木屋でも切れるって!? あんたこれいくらかかってるか知ってんの!? 長年の研究の末の髪型なのよ! あたしでなきゃ似合わないんだからね!」
「いくらかかってるって、節約したいんならあたしが切ってあげるわよ」
「こことここ長さ違うの! いつも指名して切らしてるのよ! あ、あんたねえ、私が努力してないって……毎朝前髪をふわっとさせるのに私がどれだけ気を遣ってるかも知らないで……」
本気で怒る麗子に、さすがの梨央もたじろぐ。そんなに髪にこだわりがあったとは知らなかった。
「そ、そうだったの……ごめん、わ、悪かったわ……うん、レーコの髪素敵よ、似合ってるからあたしもあんなこと言ったのよ。レーコきれいだわ、素敵、抱いて」
「抱くか! もういっぺん海に沈めてやろうかこのヤンレズ!」
「ヤンレズって言った! 略しちゃったとうとう! 百合って言えって言ってんのに!」
小春を待つ間に鬱憤が溜まっていたのか、梨央と麗子の罵りあいは長く続いた。小春は五分前に着いたのだが、移動を始めたのは結局十時十分からだった。
☆
「さあ、最初はメガネ屋に行くわよ」
梨央が先頭になって歩き出す。
「メ、メガネ屋さんですか? あの、美容室に行くんじゃ……」
「今日はあなたのファッションを根本的に改善するわよ。先ずはそのアラレちゃんメガネからよ。コンタクトを買うからね」
「コ、コンタクトですかあ!? つ、つけたことないです!」
「だから今から買いに行くのよ。黙ってついてきなさい」
そもそも髪を切ることも本人の承諾を得ていないのだが、梨央は国会で可決したかのように言い切って、ずんずんと駅に向かい歩いていく。小春と麗子は従者のように後を追った。
☆
「わ、わ、わ! 目、目がゴロゴロする! 目に石が入ってるみたい! ちょ、無理!」
生まれて初めてコンタクトレンズを入れた小春が、あたふたしてわめく。
「うーん、お客さん、この子ハードは無理ですねえ。最初は誰でもゴロゴロするんですけど、こんなに合わない人は滅多にいません。ソフトを出しましょうね」
梨央も麗子もソフトレンズをすすめたのだが、小春は遠慮してランニングコストの安いハードを選んだ。つけてみたがこの有様である。メガネ屋の店員がレンズを外す。
「レ、レーちゃん、ごめんなさい……ハ、ハードは無理……」
赤い目を潤ませて、スポンサーである麗子に謝る小春。梨央は気の毒に思いながらも、小春の泣き顔は本当に可愛いなあと、惚れぼれしながら見つめていた。
「だからソフトにしなさいって言ったでしょ。小春ってばどう見たって目に物を入れるのが得意そうな顔してないんだから。梨央なんか十円玉入れても平気そうだけど」
店員がソフトレンズを持ってきた。小春を俯かせて目に入れる。
「……あ、痛くない……ちょっとだけ異物感あるけど、これなら大丈夫そう……」
「その程度の違和感でしたらすぐに慣れて、つけてることを忘れられると思いますよ。一日使い捨てと、二週間装用と一ヶ月装用がありますが、一日使い捨て以外は外した後お手入れが必要になります。一日使い捨てが一番清潔で目に優しいのでおすすめですよ」
「えーと、安いので……」
麗子が一日使い捨てでいいと言ったのに、小春は遠慮して一ヶ月装用にした。まあ、小春なら絶対に手入れを怠ったりしないから、目にトラブルが生じることもないだろう。店員がコンタクトレンズを包んでいる間、小春はしきりに麗子に礼を言っていた。
メガネ屋を出て駅に向かう。梨央の行きつけの美容室に行くのだ。歩きながら梨央が麗子の脇腹をつつく。
「レーコ、小春って何であんなに遠慮深いわけ? あんた札束かゴールドカードでも出してさ、『金ならあんだよ』ってとこ見せてやってよ」
いつもの軽口のつもりだったが、麗子はのって来なかった。微かに胸の痛みを感じたような、そんな顔の麗子を見て、梨央は何かまずいことを言ったかと思った。
麗子は振り向いて、後をついてくる小春を見た。小春はメガネなしに景色がはっきり見える喜びに顔をほころばせ、きょろきょろと辺りを眺めていた。
前に向き直り、小春に聞こえないように麗子は言った。
「小春の家、母子家庭なのよ。お母さんは看護士をされてて、兄弟五人いるの。だからすごい倹約家なのよ」
梨央は言葉が返せなかった。花のような笑顔の裏で、小春がそんな苦労をしていたのかと思うと、胸がぐっと苦しくなった。
「別に同情することないのよ。私よく小春の家遊びに行くけど、ガキんちょどもみんな元気よ。あ、兄弟で小春が一番上ね。お母さんもパワフルだし。そこらの家庭よりずっと幸せそうよ」
そう言って麗子は微笑んだ。嘘のない笑顔で、梨央も心のつかえが取れた。
「そう……安心したわ。いいわね、あたしも小春の家、遊びに行ってみたい」
「あんたは連れてかない」
「何でよ! 今いい話な感じになってたでしょうが!」
「何でわざわざ狼に羊の寝床を教えてやらなきゃならないのよ。あんた克彦と付き合えば? もしその気なら応援するわよ。そうね、あんたたちのために薬局へ避妊具を買いに行ってあげてもいいわ」
「台無し! 今ちょっとしんみりするシーンだったのに台無しじゃん! 要らないわよコンドームなんか!」
「あら、避妊はきちんとしないとダメよ。性病予防にもなるんだから」
「お、乙女に向かってお下劣なことをポンポンと……あんたのおっぱいにはそういう下品なことがいっぱいに詰まってんのね!?」
この言葉にキレた麗子がまた激しく言い返した。口汚く罵りあう二人を後ろから見て、「レーちゃんと梨央先輩は本当に仲がいいなあ」と小春は思うのだった。
☆
待ち合わせた駅から二駅。本日のメインである梨央行きつけの美容室に着いた。テナントビルの一階にあり、ショーウィンドウのように大きなガラス越しに、広々としてこじゃれた店内が見える。
「ふん、まあ小春を連れてくるだけあって、良さそうなお店ね」
腕を組んで店構えを検分していた麗子が、合格点を出す。七五三以来美容室に来たことのない小春はビビリまくっている。ここへ来る道すがら、梨央が小春にどこで髪を切っているのかインタビューしたが、案の定母か兄弟に切ってもらっているということだった。
「レ、レーちゃん……こんなとこ高いんじゃないの……? いいよあたし、床屋さんとかで……」
「小春、入るわよ」
立ちすくんでいる小春の腕を引き、磨き上げられたガラスドアを開く。美容師が揃って「いらっしゃいませー」と挨拶する。
ファッション雑誌から抜け出てきたような垢抜けたお姉さんが、梨央を迎える。
「梨央ちゃん、いらっしゃあい。あ、この子ね、ダイヤの原石って」
客に対し思いっきりタメ口だが、笑顔に屈託がないので嫌味がない。
「そ。セリカさん、この子とびっきり可愛くしてあげて」
「メガネはしてないのね。先にコンタクト買って来たんだ。小春ちゃんだった? ちょっといい? お顔見せてね」
セリカと呼ばれた美容師は、梨央がいつもしているように、腰をかがめて小春の前髪を上げた。コンタクトを買うことを知っていることからして、事前に梨央から話を聞いていたようだ。
顔が近すぎて、小春は恥かしそうに首をすくめた。じっと小春の顔を見つめていたセリカが、感嘆の溜息を漏らす。
「かっわいい……鳥肌立っちゃった。梨央ちゃん、すごい原石見つけてきたわね……ああ、腕が鳴るわ。この子の髪が切れるなんて、美容師冥利に尽きるわね」
小春を褒められて、梨央は我が事のように喜んだ。
「でしょでしょ。セリカさん、どんな感じにする?」
セリカは身体を起こし、右手を顎に、左手を右肘に沿え、美容師がヘアスタイルを考えるお決まりのポーズを取った。
「前髪は眉ラインで切って少女っぽくしようと思ってたんだけど、作戦変更よ。なるべく切らないで左右に分けて、おでこを出しましょう。この長さならギリギリ分けられるから。こんなきれいなおでこを隠すなんて、もったいないわ」
梨央が頷く。麗子も感心したように、ほお、と言った。小春だけがわけが分からずおろおろしている。
「そうね、どこ取っても可愛いんだから、出せるとこ出した方がいいわ。全体の長さはどうする?」
「あごラインよりちょっと下かな。いい?」
「あ、あご!? そ、そんな短く!?」
小春が焦った声をあげる。今は肩甲骨の下まであるのだ。梨央は小春の両肩に手を置き、いい含めるように言った。
「いい、小春。あたしを信じて。あなたはボブの方が似合うの。きれいな首やうなじを出した方がいいのよ。ベリーショートでもいいくらいだわ」
「ベ、ベリーショートはちょっと! わ、分かりました! ボ、ボブ!? それでいいです!」
ヘア用語に詳しくない小春はベリーショートという語感にスポーツ刈りのような頭を想像したらしく、慌ててボブにすることを承諾した。
「色はどうする? ブラウンでいいよね?」
マリアがさらっと言った。優等生の麗子がすかさず反応する。
「えっ、染めるの?」
「「染めなきゃダメよ」」
マリアと梨央の声が重なった。揺るぎない確信を持った声だ。
「だ、だって校則で……」
「いっぱいいるじゃん、うち進学校だからまっきんきんなのはいないけど」
「麗子ちゃん、大丈夫よ。6トーンくらいの濃い目のブラウンにするから。そのくらいだったら文句言う先生はいないわ。小春ちゃんはねえ、髪多いから、真っ黒だと重く見えちゃうの。絶対染めた方がいいわ」
セリカはそう言うと棚から染色した髪のサンプルを持ってきた。ビターチョコのような濃い茶色だ。確かに、これくらいの色の女子なら二割くらいいるし、染めているのは麗子も知っていた。
そもそも生活指導の教師が髪の色やスカートの丈についてうるさく言うのを、麗子は好まない。麗子自身はミニスカートが似合わないから履かないし、黒髪の方が合ってるから染めないだけで、意識して校則を守っているわけではない。
やりすぎは良くないが、髪が茶色くても誰かに実害があるわけじゃなし、目くじら立てて従わせようとするのは馬鹿らしいという考えだ。だから梨央のパンツが見えそうなスカート丈についても、とやかく言っていない。
とはいえ、小春は今まで校則に反するような所業とは無縁だったから、こちらから強いて道を外させるのは気が引ける。
「レ、レーちゃん……い、いいのかな? 染めちゃって……」
麗子の顔色を伺うように小春が聞く。小春はすっかりまな板の上の鯛で、刺身になろうが塩焼きになろうがなすがままといった感じだ。梨央に逆らうのは怖いので、判断を麗子に委ねますと、目で訴えている。
麗子は溜息をひとつついて、覚悟を決めた。
「……セリカさん、その色でいいです。小春、先生に何か言われたら、私も一緒にいたって言いなさい。共犯者になってあげるから」
梨央がパチパチと手を叩く。
「さっすがレーコ、度量があるわね。セリカさん、毛先どうする? ちょっと巻こうか?」
「ま、巻くの!?」
いま髪を染めることを呑み込んだばかりの麗子が、面食らった顔をする。
「いちいちうるさいわね、レーコ。ちょっとくらいいいでしょ。うちの学校にもちょこちょこいるじゃん」
「う……で、でも巻くならコテにしてよ、それなら落ちるし……」
セリカがまた「考える人」のポーズをとる。
「うーん、でもこの子、朝から念入りにコテで髪巻いたりするようなタイプじゃないわよね。パーマの方が面倒ないわよ」
「パ、パーマ!? ちょ、ちょっと待ってよ! どんどん校則違反の方向に進んでるじゃない!」
激しく突っ込む麗子を、セリカが説得する。
「だーいじょーぶ! あたしどれくらいまで大目に見てもらえるか見極めてるから! 毛先を少ーしふわふわ~っと遊ばせるだけよ。この子ならストレートも清楚な感じでいいけど、ちょっと毛先をいじったらすっごくエレガントになるわよ。思い切って変身させてみない?」
「で、でも……」
「もし学校で先生にダメ出しされたら、あたしが無料で毛先を切ってあげます。もちろん可愛くね。どう?」
麗子は洞窟で分かれ道に出会ったような顔をした。
「レーコ、セリカさんがここまで言ってくれてるんだからパーマしようよ。小春が大変身するとこ見たくないの?」
「あんたは黙ってなさいよ! そりゃ私だって見てみたいけど……うう……小春、あなたはどうなの……?」
麗子が小春に問いかける。突然水を向けられた小春は「えっ!?」と言って目を大きくした。
「あなたの髪のこと話してるのよ、ちゃんと聞いてなさい。小春、あなたはどう思ってるの? 染めるのはともかく、パーマは怒られるかもよ? どうする?」
麗子とセリカと梨央に見つめられ、小春は答えを迫られた。怖いけど全員にいい顔はできない。小春は正直に自分の気持ちを言った。
「……パーマはいいよ、レーちゃん……そういうの、高いんでしょ?」
校則に違反してまで可愛くなりたいかどうかを尋ねたつもりだったが、費用の心配をされたので、それが麗子にはカチンと来た。
「そう、分かったわ小春。セリカさん、パーマ当ててください。あんまりきつく巻いちゃダメですよ」
「オッケー、麗子ちゃん。プロに任せなさい!」
セリカが笑顔で親指を立てる。小春は目を丸くして「えーっ!?」と言った。
「おし、それでこそレーコよ! 小春~、天使みたいになっちゃいましょ~ね~。あ~楽しみ!」
梨央は小春の両肩に手を置いて、頬ずりせんばかりに顔を寄せた。「くっ付くな」と言って、麗子が梨央を引き離す。
☆
洗髪して湿りが残る程度に髪を湿らせ、いよいよセリカが鋏を取り出す。
人に頭を洗ってもらう気持ち良さにうっとりとしていた小春だが、鏡の向こうで鋏が銀色にきらめくのを見ると、少し不安になった。
セリカが櫛で髪を梳く。
「髪質いいわね、柔らかで瑞々しくて。シャンプーとコンディショナー何使ってるの?」
「え? えーと、シャンプーは特に決まってなくて……コンディショナーは使ったことないです」
「……小春、あとで私が使ってるの教えてあげるから、今度からちょっといいの使いなさい」
髪にはことの他の気を使っている麗子が小春を指導している間に、セリカが最初の鋏を入れた。
耳横でシャッと鋭い音がして、黒いものが視界の隅を落ちていった。小春が無意識にそれを目で追うと、床に大量の髪が落ちていた。
「え? ええ!? こ、これあたしの髪!? こ、こんなに切るんですか!?」
ボブというのがどういうものがイマイチ分かっていなかった小春が、悲鳴に近い声をあげる。他の理容師やお客さんも好奇の視線を向けた。
「小春ちゃん、ボブってのは、あごラインから肩上の長さなのよ。知らなかった? 大丈夫、絶対似合うから。お姉さんに任せて」
青い顔をしている小春をよそに、セリカは髪を梳きながらシュシュシュシュと素早く鋏を入れていく。そのたびにバサ、バサ、と髪の束が落ちた。
泣きそうな顔で鏡越しに麗子を見つめる。麗子は大丈夫、と頷いて見せた。
実際鋏が入るたび、小春は可愛くなっていった。ライチの黒い皮をむくと、中から純白の美しい果肉が現れるのに似ていた。
サイドと襟足を切り終え、次は前髪を整える。あまり短くはせず、左右に分ける。キスしたくなるような、つるんとしたおでこが顔を出した。
「ひとまずこんな感じね。細かい注文があればどうぞ」
鏡に映る小春は、すでに別人だった。お菊人形みたいな髪はさっぱりと短くなり、驚くほど軽い感じに仕上がっている。オタク少女のイメージから、垢抜けた印象へと一気に変わった。
梨央と麗子は予想以上の出来栄えに感嘆し、変身した小春に見入っていった。小春も鏡に映る自分を、狐につままれたような顔で見つめている。
「な、何か、意外に、似合ってる、かな?……レ、レーちゃん、どう思う?」
麗子は呆れたように笑って答えた。
「似合ってるどころじゃないでしょ、花が咲いたみたいよ。可愛いわ、小春」
「ほんっと、小春、可愛くなるのは確信してたけど、予想以上だわ。抱きしめてキスしたい」
「すんな」
興奮気味の梨央を、麗子が冷静に諌める。梨央は構わず小春の髪をつまんだり指で梳いたりしている。
「セリカさん、腕いいわね~。何も注文ないわ。はあ、これで髪染めて毛先がはにゃはにゃになっちゃったらどうなるんだろう」
「何よはにゃはにゃって?」
麗子の突っ込みも耳に入らないらしく、梨央はうっとり顔で小春を見つている。顔が近すぎるので、小春は照れながら困っていた。
☆
三時間後、髪の染色とパーマが終わった。セリカが胸を張って満足気に微笑んでいる。
「完成よ、小春ちゃん。どう? ご感想は?」
小春は、魔法を見せられたような顔をして鏡を見つめている。
「こ……これが……あたし?」
傍らに立つ梨央が、心底嬉しそうな顔をする。
「お~! 言ったよ! 少女漫画でしか見たことのないセリフ。いいなあ、あたしも言ってみたい」
カットするだけでも軽く見せる効果はあったのだが、ブラウンに染めることで髪は羽毛のように軽やかになった。
毛先は口元の高さからミックス巻きにしてある。ゆるく上品な巻き毛がまるで北欧の少女のようだ。あどけない顔に優雅さが加わり、思わず溜息が出るような愛らしさだ。
ヘアスタイルが引き立つのも、それに負けない小春の顔立ちがあってこそである。
分厚く覆い被さっていた髪の毛に隠されていたその眼は、女の子なら誰もが羨むほどぱっちりとしていて、細く長いまつげに縁取られている。
つるんとしたおでこ、ぷくぷくして思わず触りたくなる頬は、雪国育ちのような白さである。そこらのアイドルでは太刀打ちできない美少女が、ここに誕生した。
はしゃいでる梨央に対し、麗子は娘のウエディングドレス姿を前にした父親のようだった。
「小春……可愛いのは分かってたけど、まさかこんなに……何だか置いてかれちゃったみたいで、寂しくなってきたわ……」
「レーコ、なに湿っぽいこと言ってんのよ。小春が生まれ変わったんだから、素直に喜びなさい」
小春は夢を見ているような心持ちだった。鏡の中の少女が自分だとはにわかに信じられないくらいだ。
「り、梨央先輩……レーちゃん、セリカさん……あ、ありがとう……あ、あたしのこと、こんな、可愛く――って、じ、自分で可愛くって言っちゃったけどっ、ちょ、ちょっとビックリしすぎて、言葉が、見つかんない――」
不器用に言葉を並べる小春の頭を、セリカが優しく撫でる。
「小春ちゃん、おつかれさま。こんなに楽しく仕事できたの初めて。絶対また来てね、サービスしてあげるから」
セリカが髪避けのマントを取り、小春はイスから降りた。マントに隠れていたので忘れていたが、当然小春は朝見たまんまのケミカルウォッシュジーンズとダサダサのTシャツである。梨央たち三人は、先ほどまでとは異なる種類の溜息を吐いた。
「り、梨央ちゃん、今日は服も買いに行くんでしょ? お願いだから、小春ちゃんに早く可愛い服着せてあげて」
「え? ふ、服も買うの……?」
すでに大満足していた小春が、戸惑いながら聞いた。
「買うに決まってんでしょうが! こんな罰ゲームみたいな服着て小春を歩かせられないわよ!」
よそ行きのつもりで一応選んで着てきた小春の服に、梨央は全否定的なダメ出しをした。
☆
この辺りは梨央のテリトリーなので、彼女が推薦するブティックに向かう。美容室から歩いて十分ほどのその店は、ヤンキー服ばかり置いているのでは、という麗子の不安を裏切って、少女っぽい服を数多く取り揃えていた。
「普段あんたが着てるペット用の服みたいなのばかり売ってるのかと思ったら、意外とまともじゃない。あんたこんな店も知ってるの」
「聞き捨てならねえな! ペット用の服ってどんなのよ!?」
「ごめん、私、私服のあんたに会うたび、トイプードルにピッタリな服だなって思ってた」
「トイプードルにピッタリな服の基準を教えてちょうだい! 今度からそれ避けて服買うから!」
「布地の面積が小さくて、色が派手で窮屈そうで……」
「本当に言うな! あたしの服はだいたいそうよ! 服買えなくなるじゃない!」
「あ、これ小春に似合うんじゃない?」
ごまかすなと怒鳴ろうとした梨央だが、その服が本当に似合いそうだったので声を呑み込んだ。麗子が小春を呼んで、ハンガーに掛かった服を小春の胸に当てる。
「どーよ梨央、いいんじゃない?」
薄いピンク色のブラウスは、確かに彼女のイメージに良く合っていた。こういう小洒落た店に慣れていない小春は、手をペンギンみたいにして立ちすくんでいる。
「むむ、さすがレーコが選んだだけあるわね、似合ってんじゃん。でも大人しすぎない? もうちょっとフリルとかあってもいいんじゃないの?」
「あ、あの、あたし、こういうひらひら~っとしたのじゃなくて、もっと丈夫そうな生地の方が……」
「そういう基準で服を選ぶな!」
突っ込んだのは麗子だ。今日まで小春のためと思ってファッションについては何も言わなかったのだが、やるとなればとことん指導する気らしい。
麗子も梨央もそれぞれ好みがあるのだが、とりあえず無難な、着回しのしやすい服を中心に選ぶ。
二人は相談しながら、浅葱色のショートパンツ、薄いピンクのキャミソール、クリーム色のニットという、定番の組み合わせをひと通り揃えた。
「はい、小春、試着しといで」
梨央が服を小春に手渡す。小柄な小春は両手いっぱいの服を抱え、目を丸くしていた。
「え? こ、こんないっぱい、いっぺんに……?」
「上下着ないと相性が分かんないでしょ。はい、さっさと着る!」
背中を押して小春を試着室に押し込み、サッとカーテンを引く。
しばらくすると試着室の中からベルトを外す音や衣擦れの音が聞こえてきた。従順に着替えているようだ。身体が触れて、ときどきカーテンが揺れる。
梨央は試着室の前で腕を組み、小春の着替えを待っていた。時折チラリと麗子に視線をやる。麗子も同じように腕を組んで待っていた。試着室と梨央に、均等に視線を配っている。
一見ただ突っ立っているだけのようだが、二人の間には張り詰めた緊張感が漂っていた。剣の達人同士が刀を抜いて睨み合っているようだった。
背後でカタンと物音がした。他の客が棚にぶつかったか、ハンガーでも落としたか、そんな音だった。反射的に麗子が後ろを振り向く。
瞬間、蛇が獲物に飛び掛るような素早さで、梨央が試着室のカーテンに手を伸ばした。
しかし、麗子が振り向いたのはフェイントだった。首を捻っただけで、目線は梨央に貼り付けたままだった。
麗子は右手の棚にとぐろを巻いて陳列されているベルトをひっつかまえると、梨央の手を狙って鞭のように振り下ろした。ベルトの先がしなり風を切る。手の甲を撥ねると、バチーン! と切れの良い音がした。
「痛ったああああ! な、何すんのよ、レーコ!」
「何すんのよじゃないわよ! 覗くな! スケベ!」
「こ、小春が遅いから、まだかな~って聞こうとしただけよ!」
「嘘つけ! ずっと私の隙を窺ってたくせに!」
企みがばれていたことに気付き、梨央は不敵な笑いを浮かべた。真っ赤になった右手の甲をさする。あまりの痛さに涙目になっていた。
「ふ、ふふふ……お見通しだったとはね。レーコ、見事なフェイントだったわ。さすがは我が永遠のライバル」
「何のライバルだ! あんたの悪ふざけに永遠に付き合わすつもりか!」
梨央と麗子が無駄な戦いに体力を消耗させていると、着替えが終わったのか、小春がカーテンの隙間から顔を出した。
「……バチーンって、すごい音がしたんだけど……また喧嘩?」
心配そうな顔をする小春に、麗子が何でもないという風に手を振る。
「何でもないのよ、小春。着替え終わった?」
「終わったけど……何だか恥かしいな……」
小春がカーテンを開く。試着室から光が差したような気がした。
ショートパンツと、キャミと、ニット。全部明るいパステルカラー。定番中の定番。それが、この服を着て産まれたんじゃないかと思うほど、似合っていた。
小春は、恥かしそうに頬を染めている。それがまたグッと来る可愛らしさである。
「うっわああ……可愛すぎる……手をつないで歩きたい……」
梨央があんぐりと口を開けて言った。麗子も唖然としてすぐに言葉が出てこない。
「レ、レーちゃん、この上から羽織ってるの、意味あるの? 穴だらけなんだけど……」
「それはニットって言って、寒さをしのぐために着るものじゃないのよ。あなた服はすべからく体温を調節するために存在すると思ってるわね? ……それにしても、似合うわねえ……これはきっと、何着ても似合うんでしょうね……」
「そうね。要は、『似合わない』ってのは、服に負けてるのよ。小春ならどんな服でも着こなせるわ。メイドでもナースでもスクール水着でも」
「どうしてそうオタクが喜びそうな衣装しか思いつかないの?」
麗子は小春に着ているものを脱ぐよう指示し、再び梨央とともに服を選んだ。
ミニスカートとブラウス、カーディガン。どれもナチュラルな色合いのもの。小春はそれも当然のように、梅の木に鶯がとまるように完璧に似合った。
「何かもう横綱相撲ね。こんなの似合うの分かりきってるわ。レーコ、とりあえず今試着したのは買うことに決めて、あとは買わなくていいから着せ替えして遊ぼう」
「……店にとって思いっきり迷惑なこと思いつくわね……でもこんな機会滅多にないし、ちょっと冒険した服着たとこも見てみたいわね」
三人はその後一時間半試着室を占領し、小春は親バカの両親と孫を溺愛する祖父母に連れられて七五三の写真を撮りに来た幼児のように着せ替え人形にされた。
ボーイッシュな服も少女趣味なのも大人っぽいのも見事に似合ったが、いい加減小春が疲れてきたのを麗子が察して、着せ替えごっこは終了した。
はじめに試着した二揃いの服を購入する。ショートパンツとキャミとニットの組み合わせは値札を外してもらい、小春に着せた。着ていた元の服は袋に詰めてもらう。
☆
店を出るころには日が傾き始めていた。山吹色に染まった空の下を、駅に向かい三人で歩く。
今朝集合したときは美少女二人と座敷わらしといった感じだったが、小春が変身した今は三人組のアイドルユニットのようだ。楽しそうに談笑しながら歩く様は、じゃれあう子猫のように愛らしい。
駅に着き、改札を通ってホームで電車を待つ。ここからは梨央だけ逆方向だ。
「梨央先輩……今日は、本当に、ありがとう……」
両手に紙袋を持って小春が礼を言い、深々と頭を下げる。梨央が照れて頭を掻く。
「いいよ小春、そんな頭下げなくっても。あたしがやりたいことやっただけだし。小春の方こそ、今日は一日付き合ってくれてありがとう」
顔を上げた小春は、感情が高ぶってきたのか、泣き出しそうな顔をしていた。
「……あたし、今まで、髪とか服とか、どうでもいいやって思ってて……お金もないし、そういうのは、あたしには縁がないんだって思ってた……でも今日、梨央先輩に色々してもらって、自分が変わっていくのが、すっごく……ものすごく嬉しくって……」
小春の目に涙が浮かぶ。
「あたし、バカだったなって思った……女の子なんだから、可愛くなろうって思わなきゃ、ダメだよね……おしゃれするのは、ゆとりがある人にだけ許されるんだと思ってたけど……おしゃれって、自分を大切にすることと、一緒なんだって、分かった……梨央先輩、今日あたし、シンデレラになったみたいだった……梨央先輩に、大切なことを教えてもらったと思う……本当に、ありがとう……」
頬を涙が伝う。小春はもう一度、うなじが見えるくらい深く、深く頭を下げた。その真摯な姿に感動し、梨央の目にも涙が浮かんだ。
「梨央、あんた泣いてるの? 意外に涙もろいのね」
麗子がからかう。梨央は慌てて手の甲で涙を拭った。
「う、うるさいわね! 小春にこんな風に言われたら……ってレーコも泣いてんじゃん!」
麗子は堂々とハンカチを出して涙を拭いていた。
「そりゃ泣くわよ。梨央、私からもお礼を言うわ。私間違ってた。小春はもっと早く可愛くなるべきだったのよ。あなたがいてくれたおかげだわ。本当に、ありがとう」
いつも喧嘩ばかりしている麗子から思いがけない礼を言われ、梨央はまた目頭が熱くなった。
「な……何なのよもう、レーコまで柄にもないことを……ヤダもう、止まんなくなっちゃった……」
次々と溢れてくる涙を手で拭う。麗子がハンカチ持ってないの? と言って自分のを貸した。
梨央はハンカチを広げて顔を拭き、ついでに洟をかんだ。人のハンカチで洟かむなと麗子が怒鳴る。
頬に涙の跡を残したまま、楽しそうに小春が笑う。潤んだ目をして、梨央も笑った。麗子も二人を見つめ優しく微笑んでいる。
下り電車の方が先に来た。梨央が乗り込み、扉が閉まるとすぐに、電車は動き出した。窓越しに手を振る梨央に、小春も手を振って返した。
車輪の音が遠ざかっていくと、静寂が訪れた。麗子と小春はホームに佇み、次の電車が来るのを待つ。
「……レーちゃんも、ありがとうね。お金いっぱい使わせちゃったね……」
麗子は傍らに立つ小春の方を向いた。長身の麗子が小柄な小春を見下ろすと、頭のてっぺんが見えてしまう。
以前のボサボサではなく、天使のようにふわっとしたその髪を、麗子は子供をあやすように撫でた。
「お礼を言われることはしてないわ。お金のことは気にしないで。私も梨央も、したいことしただけだし」
「いけないわ、そういうの。友達だからこそきちんとしなくちゃ。絶対返すから」
「いいってば。あなたバイトなんかする時間ないでしょ?」
「お仕事するようになったら、お給料から返すから。ちゃんと覚えといてね」
「……あなた進学するんでしょ? ずいぶん先の話なのね……まあいいわ、忘れちゃってもいいからね」
忘れないってば、と小春は口を尖らして言った。その顔が可愛らしくて、本当に子供みたいだな、と麗子は思った。
アナウンスが流れ、麗子たちの乗る電車が、ガタゴトとホームに滑り込んできた。
☆
翌週の月曜日。一年の教室が並ぶ廊下に立ち、梨央と麗子は小春が来るのを待っていた。二人とも少々威圧感があるので、一年生はみな小さくなって前を通り過ぎていく。
「レーコ、あの後小春と何か話した?」
先週土曜日に小春は大変身を遂げた。今日二人は初登校でのクラスの反応を見ようと、示し合わせてやって来たのだ。
「その日のうちに電話したわ。帰ったら家族に『誰?』って顔されたって言ってたわよ。そのあと小春のお母さんから私に電話かかってきて、涙声でありがとうって何回も言われたわよ。あ、あんたにも礼を言っといてって」
「そう、良かったじゃない。それにしても、お姫様遅いわね」
「まだ予鈴の十五分前よ。自分はいつも遅刻ギリギリのくせに」
それから五分して小春が登校してきた。梨央と麗子の姿を見つけ駆け寄ってくる。制服を着てもすこぶる可愛らしい。
「梨央先輩、レーちゃん、おはよう。どうしたの、一年のとこ来て?」
小春の明るい笑顔に、梨央は胸がキュンとしてしまう。なので質問には麗子が答えた。
「あなたのデビューを見届けに来たのよ。ここまで来る間、誰かに気付かれた?」
小春は首を振った。
「レーちゃんが電話で『誰とも話さず登校しなさい』って言うから、じーっと黙って来たよ。クラスのみんな、あたしに気付かず行っちゃうし」
そう言っているそばから小春のクラスメイトが廊下を通り過ぎて行くが、「上級生と話しているあの可愛い子は誰だろう」という視線を送るだけで、誰も小春とは気付かない。
梨央が楽しそうな顔をする。
「あ~、クラスの反応が超~楽しみ! 小春、教室に入りなさい。ドアをくぐったら、しばらくリアクション待ちするのよ!」
小春はこくん、と頷いて、教室に向かった。ドアの前でいったん立ち止まり、うつむいて一呼吸つく。梨央と麗子は廊下から様子をうかがっている。
顔を上げて、小春が教室に足を踏み入れた。ドア付近の席にいた生徒達が、ぴたりとおしゃべりをやめて小春を見上げた。
それを合図に、ざわついていた教室が、波が引くように静かになっていった。
クラスメイトの視線は、立ちすくむ小春に集中している。視線の圧力で前に進むことができない。
全員の頭に?マークが浮かんでいた。この並外れた美少女は何者だ? 全員がその疑問に頭を悩ませ、また幾人かは、どこかで見たことがあるその風貌に、該当する女子を懸命に脳内検索するのだった。
「……え? こ、小春……?」
教室の中央の席の、小春と親しい女生徒が、半信半疑でその名を呼んだ。教室がざわっと沸き立つ。
小春は緊張で唾を飲み込んでから、
「お、おはよう!」
と、できるだけ明るい調子で言った。聞き覚えのある声。一瞬で教室が騒然となった。
「えー! 小春なの! 本当に!?」
「やだ! 超可愛い! どうしたの、小春!?」
「うそー!? 信じられない! い、いったい何が……」
あっという間にクラス中の女子に囲まれ、質問攻めにされる小春。男子は閉め出され、遠巻きに眺めることしかできなかった。
女生徒たちは、小春の髪を触ったり頬を撫でたりしながら、驚き混じりに小春の可愛さを褒め称えた。取り囲む女子の中には、感涙にむせいでいる子までいた。
窓越しにその様子を眺めていた梨央と麗子は、満足そうに微笑んだ。
「囲まれて見えなくなっちゃったね。梨央、もう行こ。遅刻するよ」
梨央はまだ名残惜しそうにしてその場を動かなかったので、麗子は手を引っ張って無理やり彼女を連れて行かなくてはならなかった。




