小春が羊で梨央が狼 その①
翌週、夢の中ではなく、リアルの月曜日。七時五十五分、予鈴が鳴る。
麗子は前の空席を見つめ、溜息をついた。
あのやろう……命の恩人とか言ってたくせに。ちょっとでも恩を感じてるんなら、学校に出てくりゃいいのに……。
先週の金曜日、麗子は梨央の家に泊まった。
金曜日はいろいろなことがあったが、明けた朝は特に大きな出来事はなく――朝起きたら梨央がコアラのように麗子に抱きついていたり、制服で帰るんなら服は全部(下着も)置いて行けと言う梨央と、パンツを被られるのは嫌だから洗濯して返すという麗子が言い争いになったり、その程度の小競り合いはあったが――とにかく麗子は梨央の家を後にしたのだった。
別れ際に麗子は言った。
「梨央、来週は学校に来なさいよ」
「うん、そうする」
梨央は確かにそう言った。麗子は机を指で叩いている。
嘘はつかない子だと思ってたんだけどな……。
八時になり、本鈴が鳴った。その時、教室が一瞬静かになった。麗子が教室の出入り口の方を見ると、梨央が鞄を肩にかけて入ってくるところだった。
みんな珍しいものを見るような目を向けている。梨央はそんな視線を無視して、ツカツカと歩いてきて、自分の席に鞄を置いた。立ったまま、斜め下の麗子と目を合わせる。
麗子は微笑んで、「おりこうさんね」と言った。子供みたいに扱われたのが面白くなかったのか、梨央は何も返さずに椅子を引き、席に着いた。
副担任の佐野が教室に入ってきた。佐野はここしばらく空いていた席に主が座っているのに気付き、ホッとした顔を見せた。これで生徒指導の教師からあれこれ言われずに済むと思っているのだろう。
連絡事項を伝えるだけの簡単なホームルームが終わり、佐野は満足そうに教室を出て行った。特に梨央や麗子に声をかけることはなかった。みんなの前で変に特別扱いすると、かえって疎ましがられることが分かっているのだろう。
一時限目が始まるまで五分ある。麗子は梨央の背中をつついた。梨央が振り向く。
「何よ」
「ちゃんと来たわね」
「……かったるかったけど、命の恩人に不義理できないでしょ」
「あんたの服持ってきたわよ。後で渡した方がいい?」
そうね、と梨央は答えた。
「なになに!? レーコと梨央仲良しなの?」
麗子の隣の席の里美が、物珍しそうに聞いてくる。里美はショートカットのぽちゃっとした子で、好奇心が旺盛だ。
「私がこんな不良娘と仲いいわけないでしょ。風紀を乱さないよう注意してるだけよ」
「……久し振りに登校してきたのに、また休みたくなってきたわ」
「へー、口喧嘩できるくらい仲いいんだ。さすがレーコ、どうやって手なずけたの?」
「いい子だったら餌をあげて、悪いことしたら電気ショックを与えるの」
「心理学の実験動物か! あたしは!」
怒る梨央を、里美は興味深げに眺めている。
「この非コミュとよくそんなに絡めるわね。レーコは委員長の鑑だよ」
「でしょ。里美、今からこいつと内緒話するから、聞かないでね」
そう言うと麗子は梨央の耳を引っ張った。
「痛っ!」
「いいから耳貸しなさい」
「引っ張らなくてもそう言や貸すわよ!」
梨央がしぶしぶと耳を向けると、麗子は顔を近づけた。片手で口を隠し、小声で話しかける。
(あのさ……)
「あんっ」
梨央が身体をくねらせる。
「や、やらしい声出すなっ! 気持ち悪りい!」
「い、息がかかったのよ! やめてよね! あたし耳弱いんだから! っていうか今日初めて分かったわよ、あたし耳弱いって!」
赤い顔をして梨央が抗議する。つられて麗子まで赤くなってしまう。
「ったく……やりにくい子ね……」
気を取り直して、麗子がまた梨央の耳に顔を寄せる。――そもそもこの動作が百合っぽいのだ。後で人がいないところで話せばよかったと、麗子は後悔した。
(あのさ、私考えたんだけど、いきなりテレポーテーションってのはハードル高いじゃない? スプーン曲げとか念写から始めたらどう?)
麗子はそれだけ言うと、どこか得意げな顔で梨央の顔を見た。梨央は訝しげに眉を寄せている。
「……そんなの身に付けて、何の役に立つのよ?」
「だから、それ自体はあまり意味がなくてもいいわけ、要はコツがつかめればいいのよ。力の入れ方っていうのかな? 逆上がりができないのに、ムーンサルトはできないでしょ?」
「……」
返事をする前に授業開始のチャイムがなった。梨央はもっと話したそうな顔で、後ろ髪を引かれるようにして前を向いた。
一時限目は数学だった。梨央は終始腕を組んだり頭を掻いたりして、何か考えているようだった。
梨央が三角関数の正弦定理について深く考えるはずはないので、さっきの麗子の言葉を吟味しているに違いない。麗子はやっぱり後で話せばよかったと後悔した。
鐘が鳴り休み時間になると、すぐに梨央は教室を出て行った。麗子は話をしたかったのだが、止める間もなかった。
二時限目は国語である。授業開始の鐘が鳴るが、梨央は席に戻らない。
佐野が教室に入ってきて、例の席が再び空っぽになっているのに気付き、暗澹たる表情になった。恨むような視線を麗子に向ける。
麗子は「私のせいじゃない!」と心の中で訴え、佐野の視線を避けるため授業が終わるまでひたすら俯いていた。
☆
結局その日、梨央は二時限目以降の授業を全てさぼった。麗子は要らぬ助言をしてしまったと心底後悔した。
授業のあと生徒会活動があり、もちろん麗子はそれに参加した。今日は難しい問題の討議が多く、会議は六時までかかった。
白熱した割りにまとまることのなかった会議を終え、生徒会室を後にする。三年生相手に口論となる場面もあったので、気疲れしてしまった。
夏なのでまだ外は明るい。グラウンドでは野球部の部員がトンボをかけていた。進学校なので運動系の部活はそれほど盛んではなく、ボールが見えなくなる時刻まで練習するようなことはない。
いつもはもう少し早く帰れるのに、トンボ掛け見るの久し振りだなあ……。
麗子は溜息をつきながら校門を抜けた。
「あ、レーコ、遅かったね」
校門を出るなり横から声を掛けられ、顔を向けると梨央がいた。制服のままだ。
今日一日を麗子がどんな気持ちで過ごしたか、微塵も気にしていない爽やかな顔をしている。
麗子のこめかみの辺りで、ぷちっと音がした。猫科の肉食獣のように梨央に飛びかかり、両手の拳で頭をぐりぐりする。
「痛ーい! 痛い痛い痛いー!!」
「痛いじゃねえ! このクソボケ不良ヤンキーハードレズ! よく平気な顔で私に話しかけられるな!? イカ並みに神経太いのか!?」
イカは神経線維が太く、生物学や医学の神経の研究によく用いられるのだが、そんなこと梨央は知らない。
「な、何よイカって!? そ、それにハードレズって言った! 百合って言えって言ってんでしょうが! っていうかやめてー! 痛いー!」
頭が変形しそうなほどぐりぐりして、やっと麗子は梨央を解放した。髪がわしゃわしゃになっている。
「ううう~、まだ痛い~。ず、頭蓋骨にひびが入ったかも……」
「ご飯粒でくっつけとけ! 漏れるほど脳みそ入ってないでしょ!」
「ひ、ひどい……」
梨央は地面にへたり込み、涙目で頭を抱えている。スカートが短いので、さっきからパンツが見えている。
「立ちなさい、パンツ見えてるわよ」
「レ、レーコになら見られてもいいわ……」
「そんなサービスは要らん! あんた今日いったい何してたのよ!? まさかスプーン曲げや念写やろうとしてたんじゃないでしょうね!?」
よろよろと梨央が立ち上がる。手の甲で涙を拭うと、ポケットから写真の束を出した。
ばらばらと地面に撒く。二、三十枚はあるかと思われるその写真は、全部真っ黒だった。
「レーコが念写がいいってアドバイスくれたから、あたし頑張ったわよ……でもダメだった……全部真っ黒」
「カッコいい感じで言うな! 学校サボってやるようなことじゃねえだろ!」
梨央は魂まで一緒に抜けてしまいそうな長い溜息をつき、膝を折って座り込んだ。頭をかくんと垂れ、うなだれてしまう。
「……あたし、才能ないのかなあ……」
彼女らしくない、暗い声。
そんな深刻に落ち込まれても……。
麗子は戸惑った。
こんなバカげたことに、何でそんなに真剣になれるのよ……。
呆れてしまうが、凹む梨央を見ていると気の毒になってしまい、何も言えなかった。
「……あたし、このまま、何の超能力も身につけられないで終わっちゃうのかな……」
普通はそうでしょうよ、と麗子は思った。口には出さなかったが。高校球児の夏じゃあるまいし、終わるって何が終わるんだ?
「く、暗い! 暗いわよ、梨央! あんたこんなんじゃないでしょ! 私が知ってる梨央は、もっと元気でポジティブよ!」
「うるさいわね! あんたに何が分かるっていうのよ!」
「分かんねえよ実際! 三日前から話すようになったばっかでしょうが! 私も勢いで言ってんのよ!」
部活帰りらしい生徒が数人、ジロジロと好奇の視線を注いで通り過ぎていく。旗森高校では有名人の麗子と金髪のヤンキー風少女が怒鳴りあっているのは、いかにも人目を引く光景だった。
梨央はまた立ち上がった。ひとつ深呼吸すると、さっきよりは幾分シャンとした。
「……ごめん。ノリでスポ根っぽいこと言っちゃったわ。『あんたに何が分かるってのよ』って、ちょっと言ってみたいじゃない」
大声を出してスッキリしたのか、いつもの軽口が戻っている。麗子は溜息をついた。安心の溜息だ。
「私も励まそうと思ってノリで言っちゃったけど、らしくないっては本当よ。深刻にものごとを考えるなんて、あんたには似合わないわ」
「……褒めてないわよね、それ……まあいいわ、レーコの言うとおりよ。あたしはあきらめるわけにはいかないの。どうやったら念写できるのか、研究しなくちゃ」
……やっぱりそっちの方向に頑張るのね……違う目標を見つけてくれないかなあ……。
再びやる気を奮い起こしている梨央を見て、麗子はジト目になった。何で私この子に付き合ってるんだろう?
「……この写真、どうしたの?」
あまり知りたくもなかったが、とりあえず麗子は聞いた。
「使い捨てカメラのレンズをガムテープで塞いで、写れ~! って念じながらシャッターを切ったの。カメラのキタラムで現像したけど、全部ダメだったわ。あ、店員には言ったよ。何も写ってなくても、全部いつも通りに現像しなさいって」
麗子は顎に手を当てて考えた。
校門前で話しているうちに夜もだいぶ更けてきて、風が涼しくなっている。もうちょっとしたら街灯が点くのではないだろうか。
「……フィルムカメラがダメなら、デジカメでやってみれば?」
ぼそっと麗子は言った。梨央が怪訝そうな顔をする。
「念写ってフィルムでやるもんじゃないの?」
「それは、昔はフィルムカメラしかなかったからでしょ。現代ならデジカメでもいいじゃない。テレビから出てくる幽霊がいるくらいだから、デジカメで念写できたっておかしくないでしょ」
「……」
梨央は黙って思案した。どうも梨央が黙ると、ろくでもないことを考えていそうな気がする。
「……一理あるわね……試してみるわ」
テレビから出てくる幽霊はフィクションだから、一理も何もないのだが。
「学校休んで試すんじゃないわよ! あんた明日休んだら、上履きに画鋲入れて、机に『キモイ、死ね』って落書きするからね!」
「いじめじゃん、それ! あんた委員長でしょ!」
「来なかったら本当にやるわよ! 机の上に花瓶置いとくからね! 誰も水を換えず、花が腐れ落ちるまで休んだらいいわ!」
梨央は悔しそうな顔をした。学校を休むと麗子のいじめ攻撃が待っているようだ。梨央はいないのだから攻撃の防ぎようがない。
「……分かったわよ、明日はちゃんと来るから……」
「明日も明後日も来い! それから写真拾え! ゴミを放置するな!」
麗子は梨央に散らばった写真を拾い集めさせた。手伝うつもりはなかったが、梨央の動作があまりに遅く、しかも風で遠くに飛んでいったのは取りに行くのを面倒くさがって気付かない振りをしようとするので、仕方なく手伝った。
梨央が記念に写真をあげると言ったが、麗子は断固として断わり、梨央のスカートのポケットに押し込んだ。
「そこらへんに捨てるんじゃないわよ! ちゃんと家に持って帰りなさい!」
「子供に言ってるみたいね……分かったわよ」
その日、二人は校門で別れ、別々に家に帰った。
梨央は帰り道、真っ黒い写真の束を民家の郵便受けに放り込んで捨てた。
こんなの入れられたら気味が悪いだろうなあ、と梨央は思った。
☆