あの日あそこであいつに出会わなければ、と思う。その②
駅から歩いて五分。梨央の家に到着した。
二階建てでごく普通の住宅だった。築年数は古くもなく新しくもなくといったところ。
「あんたの家だからもうちょっと何かあるかと思ってたけど、意外に普通ね……」
「古びた洋館やうらぶれたアパートじゃなくてがっかりした? 期待に沿えなくてゴメンね」
門を入ると小さな庭があった。花壇には麗子よりも背の高いヒマワリが見事な大輪の花を咲かせている。
「これ? あんたが植えたヒマワリって? すごい大っきいわね」
「でしょ、土がいいのよ。種取ってまた来年植えるの」
へえ、と麗子は思った。
――見た目はヤンキーにしか見えないけど、ガーデニングなんかする情緒を持ち合わせてるのね。
玄関を開けると中は暗くて、誰もいないようだった。麗子を風呂場に案内する。
「うち電気温水器だからすぐ入れるわよ。脱いだのはこれに入れて」
麗子に籠を示す。
「脱衣所鍵掛けないでよ。洗面台使うから」
「……開けないでよ」
「ちょっとは信用してよ。あたし今日変なことしてないでしょ?」
何度かされたような気がするが、それは梨央の中では数に入っていないらしい。
梨央が出て行った後、麗子は脱衣所で服を脱いだ。絶対開けると思ったから常に扉に背を向けていたが、予想に反し何ごともなく脱ぎ終わったので、拍子抜けした気持ちで風呂に入った。
☆
シャワーを浴び終わり、風呂のドアを細く開ける。梨央はいない。
着替えを頼むのを忘れていたが、脱衣所にちゃんと用意されていた。Tシャツと短パンと下着が置かれている。
身体を拭き服を着ながら、制服が失せているのに気が付いた。ドラム式洗濯機の中でそれらしき衣類がぐおんぐおんと回っている。
ノックの音がした。
「レーコ、開けていい?」
返事をすると梨央が顔を出した。
「サイズはいいみたいね。あ、ドライヤーはそこ」
「梨央、あんた何で私の制服勝手に洗濯してんのよ」
「早く洗わないと臭いが落ちなくなるかと思って」
「洗い終わるまで私何するのよ」
「乾燥コースでやってるから三時間かかるわよ。もう泊っていったら?」
「何でそうなる!? 思いっきり企んでるじゃん!」
麗子は激しく突っ込んだ。
「明日制服着て帰れば、池に落ちたとか嘘つかないで済むじゃない。嘘つくのって精神衛生に悪いよ」
「あんたが言うな! 警官相手に嘘ついたくせに!」
怒鳴ってはみたものの、洗濯機がすでに回っている以上少なくとも脱水が終わるまでは動くことができない。その間に日は暮れてれしまい、家に帰っても夕食は済んでいるかもしれない。正直風呂に入ってしまうと蒸し暑い夜道を歩いてまた汗をかくのも気が進まない。泊めてもらう方が何かと楽ちんではある。
「……すごく嵌められた感があるけど、泊ってくことにするわ。はあ、何であんたの世話になんかならなきゃならないんだろう……」
「そうそう、素直にそうすればいいの」
「下着も洗ってるの……あんた、あたしのパンツ頭に被ったりしなかったでしょうね?」
「……」
「お願い! そこ沈黙しないで!」
「冗談よ。あんなびしょ濡れのパンツ被らないわ」
「濡れてなきゃ被るの!?」
「そんなに突っ込んでよく疲れないわね。ブラのサイズは合ってる?」
「ちょっと大きいくらいだけど……あんたのじゃないわよね、これ?」
レズだと分かっているクラスメイトのショーツを着るのは複雑な気持ちだったが、それはさておきブラがピッタリなのは不思議だった。さっき漁港で梨央の胸を見たが、標準サイズだった。
「それ、ママの」
「ああ、マリア先生の……どおりで……」
へえ、ママって呼ぶんだ……。
マリアの巨乳は校内で有名だったからブラの大きさは納得した。そのことよりも麗子は、梨央が母親の事を「ママ」と呼ぶことの方が興味深かった。
「あたしお風呂入ったらご飯作るから、レーコは髪乾かしてテレビでも見て待っててちょうだい」
「うん……ありがと……」
ありがと? つられて礼を言っちゃったけど、何で私がありがとうって言わなくちゃならないんだろう?
釈然としなかったがとりあえず麗子は脱衣所のドライヤーで髪を乾かした。梨央はレーコの前でさっさと服を脱ぎ、風呂に入った。洗濯機はまだぐおんぐおんと回っていた。
☆
風呂を上った梨央がエプロンを着て、流しで野菜を切っている。テレビを見ていろと言われたが、麗子はキッチンのテーブルに座って、梨央が夕食を作るのを眺めていた。
トントンとリズミカルな包丁の音。慣れた手つきだ。
「あんたが料理するなんて意外だわ」
麗子が感心して言った。振り向かずに梨央が答える。
「ママいないんだもん、仕方なくやってるのよ。一年近くもやってればうまくなるわ」
「そう」
梨央には喘息持ちの弟がいる。中学に入ってそれが悪化したので、学校を休学し、空気の良いところで静養している。マリア先生も一年間の休職届けを出し、息子に付き添っているのだ。麗子は他の教師からそう聞いていた。
ただ、誰もマリア先生の行き先も連絡先も知らないなど、不可解な点が多い。これまで梨央と親しくはなかったので、麗子は同じクラスになっても事情を聞けないでいた。
「ねえ、マリア先生、いつ帰ってくるの?」
たっぷりと氷を入れた麦茶を飲みながら麗子が聞いた。
「夏休みが明けたら」
梨央は料理を作る手を休めずに答える。
「でも弟さんの容体が良くならないと帰れないでしょ。確かに夏休み明けたらちょうど一年だけど……」
「ママが一年って言ったら一年よ。それより長くなることも、短くなることもないわ」
そう言いながら切った大根を鍋に移す。声には確信がこもっていた。麗子にはその自信がどこからくるのか分からなかった。
「弟さんの様子はどうなの? 良くなってる?」
「良くなってんじゃない?」
「そんな他人事みたいに言わないでよ。梨央、連絡とか取ってるの?」
少し間があってから、梨央は答えた。
「連絡取ってるわよ。家族なんだから当たり前でしょ」
フライパンにひき肉の塊を乗せる。ジューッと肉の焼ける音。梨央はずっと背を向けている。
「マリア先生どこにいるの? 先生たちに聞いても誰も知らないのよ」
「……」
梨央は答えなかった。
「……まさか、梨央も知らないんじゃ……」
「あんたには話しておくわね」
くるりと振り向いて梨央は言った。
「アルはね、あ、アルって、弟の名前。アルは、喘息じゃないの」
「……そう……何か変だなとは思ってたけど」
麗子は梨央の表情をうかがったが、その顔はニュートラルで、感情は読み取れなかった。
「小さい頃から難しい子ではあったんだけど、中学に入ってから精神的に不安定になって、学校に通えないような状態になっちゃったの。心療内科の先生からは、しばらく休んで心を落ち着かせた方がいいってすすめられたわ。学校の先生はみんな知ってるわよ」
「……そうだったの」
「地元にいるとどうしても学校とか同級生との関わりが出てくるから、田舎で静養してるの。あの子は甘えん坊だから、ママが一緒についてるわけ。納得した?」
「……した。精神的に参っちゃったって、いじめでもあったの?」
「いじめはなかったようだけど……ほとんど本人の問題じゃないかしら」
それ以上は立ち入り過ぎになりそうで、聞けなかった。つじつまの合う話で、受け入れ難いことはない。だが、ひとつ気になることがある。
今現在の具体的な情報がない――梨央は、マリア先生と弟に、ほとんど「連絡を取っていない」ように感じられる――。
遠くにいて、それも心を患っている弟が気にならないはずはない。マリア先生のことも気にかかるだろう。「ママ」と呼ぶことからしても、梨央は母親を慕っているはずだ。
なぜ頻繁に連絡を取らないのか――それとも、「連絡が取れない」のか――。
食事の用意ができた。梨央がテーブルに皿を並べる。
「手伝おうか」
「うん、じゃあ、お味噌汁入れて」
麗子が味噌汁をよそう。椀は三人分用意されていた。
「お父さん、もう帰ってくるの?」
「うん、いつもこのくらい」
言葉通りに、玄関を開ける音がした。足音が近づき、梨央の父がキッチンに顔を出した。
「ただいま。おや、お客さんかい? 珍しいな」
背が高い。オリーブ色のチノパンに、クールビズのシャツ。きれいに刈りそろえた顎鬚を生やしている。髪も髭も白髪交じりだが、それがかえってダンディな雰囲気を醸し出している。首にさげた社員証には、「赤羽根智久」と名があった。
「初めまして、菊地原と申します」
席を立って頭を下げ、優等生らしい挨拶をする麗子。智久が破顔する。
「これはこれは、ご丁寧に。梨央がこんな礼儀正しい友達を連れてくるなんて珍しいな」
「下の名前は麗子。今日泊ってくのよ」
「そうかい。麗子さん、自分の家だと思ってゆっくりしていって下さいね」
ありがとうございますと麗子は礼を言った。智久は着替えるためキッチンを出て行った。
「お父さんカッコいいわね。なるほど、マリア先生の旦那様だけあるわ」
マリアは教師にしておくにはもったいないほどの美貌の持ち主である。あのお父さんなら隣に立っても全然不釣合いなことはないわね、と麗子は思った。
「何であんな素敵なおじ様と才色兼備のマリア先生から、あんたみたいなヤンキーレズビアンが産まれてくるの? あんた拾われたんじゃない?」
「拾われてねえよ! あたしどっから見たってママの遺伝子受け継いでるでしょ! それに何よヤンキーレズビアンって!?」
「あんたも顔は可愛いんだけどね。何でレズなの? 幼児期に悪戯でもされたの?」
「されてねえよ! レズで悪いか!」
「あんたの金髪に免じて血がつながっていることは信じるわ。料理冷めるわよ。早く食べましょう」
麗子が味噌汁の椀を並べていく。梨央はなおもぶつくさ言いながら一緒に食事の準備をした。智久も部屋着に着替えてきたので、三人で食卓につく。
「梨央が友達を家に連れて来るのは久し振りなんだ。麗子さん、これからも梨央と仲良くしてやってくれるかい」
「は、はい」
「友達」か……まだ「友達」と呼べるような間柄ではないんだけど。
テーブルに空のコップが三つ置かれている。梨央は瓶ビールの栓を抜くと、智久のコップに注いだ。ちゃんと両手で瓶を持ち、ラベルを上にしている。高校生のくせにビールの注ぎ方のマナーをわきまえているところが、なんかうざい。
きっちり七対三できめ細かい泡のふたを作る。居酒屋でバイトでもしていたのかと思うような上手さだ。
梨央は続いて麗子の前に置かれたコップにビールを注いだ。
「注ぐなー! ちょっとそんな予感はしてたけど、予想通りじゃん!」
「いいじゃない一杯くらい。あたしいつもパパの晩酌付き合ってるよ」
「お父さん! 未成年にお酒飲ませないでください!」
智久がまあまあ、と麗子をなだめる。
「本当に一杯だけですから。モンゴルでは馬の乳を醗酵させて作った酒を赤ん坊にも飲ませるというし、これくらい大したことはありません。親に隠れて飲む方がタチが悪いですから」
むっつりとした顔を見せる麗子。
「私は要りません。梨央、麦茶ちょうだい」
「そう? じゃあこれはあたしがもらうね」
梨央は麗子のコップを自分のところに引き寄せた。冷蔵庫から麦茶のピッチャーを出し、麗子にはそれを注いでやる。
「それじゃあ、麗子さんの訪問に、乾杯!」
智久がグラスを掲げ、梨央もそれに習う。
娘に飲ますなっつってんのに、と思いつつ、無視するわけにもいかないので麗子もグラスを合わせる。三つのグラスがカチンと鳴った。
梨央はひと息にグラスの三分の二をあおった。ぷはーっ、と旨そうに息を吐く。
……本当に飲みなれてやがるな、このやろう。
梨央を睨みつつ、味噌汁をすする。何気なく口に含んだ味噌汁が味覚を呼び覚まし、麗子は目を見開いた。
「美味し……大根の甘みが……大根、おろしたの?」
「大根突きでおろすの、すぐ煮えるから。手抜きよ。でも細かくすると汁に甘みが溶け出すのよね」
「一緒に入ってるのワカメかと思ったらアオサね……大根と相性いいわ、いい香り」
メインディッシュのハンバーグに箸を伸ばす。厚みがあって、小判型というよりスライムみたいな形をしている。箸で割くと、微かな湯気とともに肉汁があふれ出した。刻んだ玉ネギが顔を覗かせている。
「玉ネギ炒めてないハンバーグだ。美味しいんだってね」
ソースはかかっていない。塩とコショウだけで味を付けているようだ。麗子が、あむっとハンバーグを頬張る。
シンプルな味付けだから、肉の味が濃厚に感じられる。火を通しすぎていない玉ネギは、シャクシャクとした食感が残っている。玉ネギの甘みと肉の旨味が絶妙なハーモニーを成している。
「美味しい。いいわね、これ」
「あたしカレー作るときも玉ネギ炒めないよ。ルー使うんなら味変わんないし」
「噛んでると玉ネギの汁気と甘みがお肉と混ざり合って……美味しい。今度作ってみよっと」
「お気に召したようで嬉しいわ」
別皿のサラダに手を出す。レタスとトマトとツナのサラダだ。ゴマ風味のドレッシングかかっている。
「このごまドレ、甘酸っぱくて美味しい。市販のよね? どこの?」
「知らない。一番安いのだけど、味醂と酢を混ぜてあるの。味が軽くなるでしょ」
「へえ、ごまドレのくどさがなくなって、いいわね」
遠慮なくパクパクと食べる麗子。なかなか食いっぷりがいい。
「おみそれしました。梨央がこんなに料理できるなんて思わなかったわ」
「だから手抜きだって。大したものつくってないでしょ。お客さんが来ること分かってたらもう少し手の込んだもの作ったんだけど」
「手を抜きつつ美味しく作るのが難しいのよ。私も料理するから分かるわ」
とり立てて豪華なわけでもないメニューだが、梨央の料理は手を抜けるところは手を抜き、要所ではひと手間かけるというその加減が絶妙で、長く料理を作ったことのある者をうならせる巧みさがあった。
「ママがいなくなったばかりのころはひどかったけどなあ。上手くなったよな、梨央」
ハンバーグの大きな塊を口に放りながら智久が言った。
「そうなんですか」
「何回やっても目玉焼きを焦がすから、いったいどうやって焼いてるんだと思って見ていたら、油を引いてなかったとかな」
麗子が吹き出し、梨央は頬を膨らませた。
「しょうがないじゃない、それまでママが全部作ってたんだから。あたし卵割ったこともなかったのよ」
「ママはプロ並みだったからなあ。でもおかげで梨央の舌が肥えて、今はこんなに料理上手になったんだ。ママに感謝しないとな」
平和な家庭だなあ、と麗子は思った。こんな温かな家庭で、なんで梨央みたいなヤンキーが育つのだろう。
「麗子さんは泊りにきたのは、何か予定でもあるのかな?」
智久が聞く。急に泊ることになったのは雰囲気で分かるのだろう、興味を持つのは当然だ。
「あ……えーと、い、一緒に勉強を……」
「あたし海に落ちて、レーコが助けてくれたの」
嘘をつくのがヘタな麗子が言いよどんでいるうちに、梨央がさらりと言った。
首を曲げて隣に座る梨央を見る。梨央は何でもない顔をして、ヤギのようにレタスを口の中に吸い込んでいる。
言い訳は梨央の方が上手よね……この子に任せよう。
麗子は味噌汁をすすった。
「海に落ちたって、そりゃまたどうして?」
「漁港でね、足にブロック結び付けて、飛び込んだの」
ゲハッ、と麗子が味噌汁にむせた。苦しそうに咳き込む。
「危機一髪、みたいな状況作ったらテレポーテーションできるかと思ったんだけど、そしたらレーコがあたしが自殺するんだと勘違いして、海に飛び込んで助けてくれたの。あたしちょっと失敗しちゃって、レーコに助けられなかったら本当に死んでたわ。命の恩人よ」
信じられないことに、智久はこの話を眉も動かさずに聞いていた。
「そうか、そんなことが。麗子さん、娘を助けてくれてありがとう」
「お礼はいいですけどっ! お父さんこの話聞いて何とも思わないんですか!?」
深々と頭を下げる智久に麗子はツバが飛びそうな勢いで言った。
「うちの娘は時々破天荒なことをするもので、今日はちょっと度が過ぎたようです。梨央、あんまり無茶をするんじゃない。人様の迷惑にならないように気をつけるんだぞ」
「はーい」
「子供が木登りから落っこちた程度の叱り方になってる!! お父さん、娘が死にかけたんですよ! こんな馬鹿げた理由で! もうちょっとしっかり注意してあげてください!」
や、やっぱりこの家族おかしい……。な、何か頭が痛くなってきた……。
麗子は頭を抱えたが、梨央と智久にとってこの話はもう終わったらしく、まったく何ごともない感じで夕食をパクパクと口に運んでいた。
☆
食後の洗い物をしたり、梨央の部屋で雑談したりしているうちに夜が更けてきた。
麗子はアルの部屋で寝ることになった。梨央の部屋の隣にあるその部屋へ、梨央が案内する。
一年近く主のいない部屋だが、こまめに掃除や換気をしているのか、かび臭いようなことはなかった。ベッドも清潔そうだ。
本棚には漫画本が多数。机があって、その脇にテレビとゲーム機。男の子らしい部屋だった。
梨央がベッドにシーツを敷き、リモコンでクーラーの電源を入れる。
「被るのはタオルケットだけで寒くないよね? 枕はクッションだけど、いい?」
「うん、ありがと」
おやすみと言って梨央は部屋を出た。麗子はカーテンを閉じ、電気を消した。常夜灯は点けない習慣なので、部屋は真っ暗になった。
クーラーの温度を調整し、タオルケットを被って横になる。
今日あった様々なことが頭に浮かび、すぐには寝付けなかった。それでもだんだんまぶたが重くなり、麗子は眠りの淵に落ちていった。
☆
週が明けて、月曜日の放課後。麗子は駅に向かって歩いていた。先週行きそびれた書店へ行くためだ。
梨央は今日も登校しなかった。命の恩人に少しでも義理を感じているのなら、学校に来りゃいいのに。
麗子は腹を立てていた。梨央はどこかでまた、命を危険さらしているのだろうか。
彼女の身が心配になるが、それがテレポーテーションを習得するためだという世にもばかばかしい理由なので、余計に腹が立つ。人の気も知らないで、どこで何をしてるんだろう。
麗子は駅の階段を登った。ホームはいつもより人が多い。行き過ぎる人波の狭間に一瞬、梨央の姿が見えた気がした。
いや、気のせいではなかった。梨央は先週と同じように、黒のショートパンツにピンクのTシャツを着て立っていた。
梨央を見つけて、麗子はなんだか嬉しくなった。
顔が緩んでいる自分に気付き、あれ? 違う、私と梨央はそんなじゃない! と思い直し、ピタピタと頬をはたいた。
顔を引き締め怖い表情を作り、彼女に向かって歩いて行く。何でまた学校をサボったのかと、とっちめなくてはならない。
梨央は線路を見つめている。線路を見つめながら、一歩、二歩と、後退する。
何をしてるんだ? と麗子が思っていると、梨央は人通りが途切れたのを見計らい、線路に向かってダッシュした。
「あっ!」
麗子が叫ぶと同時に、梨央は走り幅跳びのようにホームの端からジャンプした。弓なりに身体を反らせ、宙を舞う。
膝を折って線路に着地した――そう思った瞬間、轟音とともに電車がホームに滑り込んできて、彼女の姿をかき消した。
ビクッと身体を震わせて、麗子は目を覚ました。
悪い夢を見た上に、いつもと部屋の様子が違うことにしばし混乱したが、すぐに梨央の家なのだと思い出した。
胸がドキドキしている。クーラーが効きすぎて、手足が冷たくなっていた。寒気で眠りが浅くなり、あんな夢を見たのだろう。
クーラーのリモコンは確かこの辺に――暗い中、ベッドサイドを手探りでリモコンを探そうとした麗子が、ピタッと動きを止めた。
暗くてよく分からないが、部屋の隅に、人影があった。
梨央……? いや、背が低い。少年……か?
起きたばかりでしょぼついた目に、その姿はおぼろげにしか見えない。麗子が指で目を擦っていると、少年と思しきその姿は――ふっと、消えた――。
「…………」
麗子は硬直したまま部屋の隅を見つめていた。だんだん視界がはっきりしてくる。少年が消えた部屋の隅にはクローゼットがひとつあるきりだ。ドアは反対側にある。
全身に冷たい汗がにじむ。計ったようなタイミングでクーラーのタイマーが切れ、ブゥン、と音を立てた。
「きゃああああああああ!」
麗子は叫んでベッドを飛び出すと、隣の梨央の部屋に駆け込んだ。乱暴にドアを開け、寝ている梨央を揺り起こす。
「梨央梨央梨央梨央梨央! でででで出た! 出た出た!」
激しく身体を揺すられ、梨央がいやいや目を覚まし、身を起こす。
「……何よレーコ? 出たって?」
「ゆゆゆゆ幽霊! 出た! お、男の子だった! だ、誰よアレ!? あんたの弟生きてんでしょ!!」
取り乱す麗子に構わず、梨央はのんきそうにあくびをした。
「そう、男の子だった……? アルかしらね」
「だ、だから! 生きてんでしょ! アルは!」
「レーコ、うちの庭に、大きなヒマワリが咲いてたでしょ」
梨央は静かな声で話した。
「そ、それが何よ!?」
「ママとアルは、その下に眠ってるわ……だからあんなにきれいに咲くのよ」
ひっ、と声にならない声を出して、麗子が顔を引きつらせた。
梨央は目を半分閉じ、冷ややかな瞳で見つめ返している。麗子は恐怖におびえ、手で口を覆って後退さった。
「……って言ったら怖いわよね、やっぱ。こんなこと言うと漁港のあたりから伏線張ってたみたいだし」
梨央が目を閉じてこくこくと頷く。麗子はとっさにものが言えず、口をパクパクさせた。
「う、嘘かよ! このタイミングでそんな絶妙な嘘つくなー!!」
涙目で麗子が渾身の突っ込みを入れる。
「まったく、あたしもよくとっさに思いついたと思うわ。あんたの顔面白かったわよ」
「寿命が縮んだわ! 三年くらい! 三年分の年金返せ!」
「JKが年金なんて言わないでよ……もうアルの部屋に戻って寝たら?」
「寝れるか!! アホ! もう二度とあの部屋には入らんわ!」
「突っ込みが関西弁になってるわよ……アルの部屋で寝ないのならどうするのよ? 一緒に寝る?」
麗子はぐっと詰まった。梨央は下心があるわけでもないらしく、眠そうな顔で答えを待っている。
レズと分かっていて褥を一緒にするのはどうかと思うが、今夜はとてもひとりではいられない。
「……一緒に寝てください、お願いします」
「あたしと寝たいのね?」
「微妙に変換するな。あんたと同じベッドで睡眠が取りたいです。よろしくお願いします」
「……」
梨央は無言でベッドの壁側に寄った。
「梨央、ごめん、私壁側がいい」
「もう、怖がりね」
梨央がベッドを移動して壁側にスペースを作る。麗子は梨央の身体を乗り越えてそこに横になった。
「レーコ枕ないね。あたしの貸したげる」
「梨央は?」
「あたし無しでも平気な人。おやすみ」
梨央の枕に頭を乗せ、麗子はおやすみと言った。麗子は梨央の方を向き、梨央は背を向けている。一枚のタオルケットを、分け合って被る。クーラーはもう停止しているようだ。今は暑くも寒くもない。
「……ねえ、梨央。あんた怖くないの? 何なのよ、あれ?」
「見てないから分かんないよ」
梨央は背を向けたまま答えた。
「幽霊出たことあるの? この家?」
「無いわ。夢でも見たんじゃないの?」
「夢なら見たわよ、寝覚めの悪いやつ」
麗子はさっき見た夢のことを話した。
「あんたが心配かけるからあんな夢見るのよ」
「……」
沈黙。そのまましばらく、無言の時間が過ぎる。
「梨央、寝たの?」
小さな声で麗子が聞く。
「起きてる」
「梨央、あんた、女の子とキスとかエッチとかしたことあるの?」
少し間をおいて、梨央は答えた。
「……話題が変わったわね……ないわよ。相手いないもん」
「じゃあ、あんたもあれがファーストキスなの? バカな捨て方したわね」
呆れたような声で麗子は、梨央の背に向けて言った。梨央の肩は華奢で、幼い少女のようだった。
「そう? あたしは別にあれで良かったと思ってる」
「良かったって、あんた、私のこと嫌いじゃなかったの?」
「嫌ってたわ。でも、全部じゃない」
背中越しに、淡々とした声。
「……そう」
――全部じゃない、か……同じクラスになっても口もきいたことなかったけど、そんな風に思ってたんだ。
不意に梨央が寝返りを打ち、麗子の方を向いた。至近距離で目が合う。
「な、何よ!?」
「寝返り打っただけよ。どこ向いて寝ようが構わないでしょ」
そう言って梨央は目を閉じた。暗がりの中でも、まつげがお人形のように長いのが分かる。美しい寝顔だった。
麗子は溜息をついた。そして、今の溜息は何の溜息だったんだろうと考え、やっぱりどうでもいいやと思って、目を閉じた。
もう寝ようと思ったのだが、ふとある考えが浮かんで、目を開けた。
「梨央、ひょっとしてあの幽霊……あれがテレポーテーションなの……?」
梨央は閉じていた目を開きかけたが、再び煩わしそうに閉じた。ごろんと寝返りを打ち、背を向ける。
「……見てないから分かんないわ」
梨央はそう言ったきり黙った。麗子は、そう、と言って、それ以上は聞かなかった。
しばらくすると麗子の呼吸の音が変わった。眠ったようだ。
梨央は手を突いて身を起こし、麗子の寝顔を眺めた。やすらかな寝顔だ。
首を巡らして壁を見つめる。壁の向こうはアルの部屋だ。梨央は小さく舌打ちした。
「アルのやつ、やっぱり出入りしてるんだ……」
聞く者のいないつぶやきは、闇に溶けて消えた。梨央が俯く。その顔に浮かぶ表情は、悔しさ、であろうか。
「……あのバカ」
梨央は麗子の方を向いて横になり、肩までタオルケットを引き上げた。
目を閉じて、頭の中のもやもやを追い払う。
寝よう――今日はもう、できることはないのだ。




