あの日あそこであいつに出会わなければ、と思う。その①
その日の放課後、麗子は駅に向かって歩いていた。
麗子の家は学校の最寄り駅から二駅である。ただし今日は、家とは反対方向へ三駅行ったところにある大型書店のメガ書房へ行く予定だ。参考書を選びに行くという優等生の見本のような目的を持って。
「あのバカ、どこでなにしてんだか……」
佐野から頼まれたのがきっかけで思い出したくない過去を思い出してしまった。考えまいと努めても梨央のことが頭に浮かんでしまう。
いったい五日も学校を休んで何をしているのだろうか。家にいたって退屈だろうし、外で時間をつぶすのも金がかかる。
怠惰に不毛な時間を過ごしていると、そのうち自分に嫌気がさしてくるものだ。つまらなくても授業を受けていた方がマシだと思わないのだろうか。
梨央を心配している自分に気づき、麗子は溜息をついた。
私はお人好しなのかな――乙女のファーストキスを無理矢理奪ったんだから、一生恨んだっておかしくないんだけど。
あの事件の顛末がどうなったかというと、麗子は結局梨央がレズだとは誰にも言わず、久美にもキスしようとしたのは冗談だったと報告したのだ。
翌日久美から「誤解しててゴメンね」と謝られた梨央は、面食らってしまった。あんなことをしたのだから、逆に言いふらされることを覚悟していたのだ。
麗子の器の大きさに梨央は感心した。かといって礼を言うようなことはなかったが。
そういったわけで、この事件は二人の間に大きな溝を作った。二年に上がり奇しくも同じクラスになったが、言葉を交わすことはほとんどなかった。
優等生と問題児。あの事件がなくても、二人の接点は乏しいものだった。水と油が混じり合わないように、麗子が梨央に深く関わることはない――はずだった。
☆
「あっ……」
言葉や思いが偶然を引き寄せるということは往々にしてあることで、麗子は駅の出入り口で梨央を見つけてしまった。
関わり合いになりたくないのだが、世話好きの性分がそれを許さない。佐野に言われたからではなく、どうしても放っておけないのだ。犬を拾ってくる子供のようなものだ。
梨央は黒のショートパンツに、ピタッとしたピンクのTシャツを着ていた。Tシャツにはジャクソン・ポロックの抽象画のような柄が描かれている。ポロックを知らない人のために補足すると、要はペンキ屋のツナギのようなまだら模様である。
手にはトートバッグ。軽そうで大した中身は入っていないように見える。麗子には気付いていない。
梨央がプリペイドカードをかざして改札を通る。見失わないように麗子も後を追った。
ホームに人はまばらで、梨央はすぐに見つかった。サラリーマンや学生に混じって電車が来るのを待っている。
麗子は十メートルほど距離を置き、キオスクの陰から梨央を見守った。いったい何をして時間をつぶしているのか、最後まで見定めるつもりだった。
電車が来て、麗子は梨央に気づかれないように隣の車両に乗った。連結器のスペースに移動し、スライドドアの窓越しに梨央を見張る。梨央は吊革につかまり、おとなしく電車の揺れに身を任せていた。
五駅目の、海に近い駅で梨央は降りた。麗子も降りて、一定の距離を保って後をつける。
梨央は駐輪場に向かった。ずらりと並んだ自転車を眺めながらゆっくりと歩いている。
おかしいと麗子は思った。梨央の家は確か、麗子が行こうとしていた大型書店の辺りだ。ここに自転車を停めているはずはない。
梨央が足を止めた。一台の自転車が目にとまったようだ。ポケットをまさぐって細長い銀色のピンのような物を出した。明らかに鍵ではない。
その自転車は高そうな多段ギヤのマウンテンバイクで、車体に付いているロックで後輪だけが固定されていた。チェーンやU字ロックはかかっていない。
梨央はピンを鍵穴に突っ込むと、ガチャガチャと乱暴に動かした。数秒でロックはガチッと開いた。
うわあ、自転車盗んでるよ……。
えらいとこ見てしまったと麗子は思った。この場で注意すべきか迷ったが、後でもっとひどいことをやらかすかも知れない。麗子はもうしばらく尾行を続けることにした。
梨央は自分の物のように自転車にまたがった。麗子は駅前で客待ちしているタクシーに駆ける。乗り込むとすぐに窓の外を指差し、「あの自転車追いかけて!」と運転手に言った。
運転手は驚いて、「映画みたいだなあ、あの女の子、どうかしたのかい?」と聞いた。
「超小型の核弾頭を盗んだの」
運転手は「そりゃ大変だ」と言って笑い、車を出した。
スピードも違うし信号待ちも逆なので車で自転車を追うのは非常に面倒なのだが、初老の運転手の運転は見事で、つかず離れずに梨央の自転車を追いかけた。
☆
十分ほどの追跡劇の後、梨央の自転車は漁港のゲートを抜け中に入っていった。
「漁港? 何する気なの?」
意外な目的地だった。麗子はゲートでタクシーを停めさせ、料金を払って降りた。駐車してあるライトバンの陰から梨央を見張る。
漁港としては中規模の大きさだろう。港内には三十隻程度の漁船が係留されている。遠くに見える堤防にはまばらに釣りをしている人達がいて、竿から糸をたらしていた。きっと週末には釣り客でいっぱいになるのだろう。
湿っぽい海風が、濃厚な潮の香りを運んでくる。時計を見ると午後五時で、夏の太陽はまだ水平線から高い位置にあり、強い陽射しが海面をギラギラと輝かせていた。
梨央は漁港をひと回りすると自転車を停め、ハンドルから手を離し、腕を組んで何かを考えていた。
「……何してんだか」
いったい何をしに来たのか、一向に考えが読めない。
梨央は再びハンドルを握った。駐車場の方へ向かう。麗子はライトバンの向こう側に移動し、梨央の姿を追う。
駐車場で梨央は自転車を停め、駐車スペースを示す白線の間に置かれたコンクリートブロックを拾った。黄色いペンキが塗られていて、「漁協組合」とゴシック体の黒い文字が書かれている。関係者以外が駐車することを禁ずるためのものだ。
結構な重さがあるのだろう、梨央は腰を落としてブロックに手をかけると、うんせっ、と声が聞こえそうな動作で持ち上げ、自転車の荷台に載せた。荷を固定するためのゴムロープをブロックに巻きつける。
「……不可解な行動をする子ね……佐野先生に見せてあげたいわ」
車の陰でひとりごちる麗子。
梨央は再び自転車にまたがり、船が係留されている護岸の方に向かった。
護岸には誤って車が落ちたりしないように車止めが設置されている。梨央はそのそばに自転車を停めた。一歩足を踏み出せばすぐ海だ。干潮の時刻なので、海面は地面より二メートルほど低い。
荷台にくくりつけたブロックを降ろす。護岸には人影がなく、梨央の奇妙な行動に目を留める者はいなかった。
梨央はトートバックを肩から外した。中から取り出したものは、黄色と黒が縞になったトラロープだった。
「……未開の地にやってきた文化人類学者みたいな気持ちになってきたわ……いったい何の儀式よ……」
困惑する麗子に気づく様子もなく、梨央は次の作業を始めた。
三メートルほどの長さのロープの一端を、ブロックの穴に通して結わえ付ける。
そのあと地べたに尻をつけて、なにやらごそごそやっていた。
「……まさか、足を縛ってるの……?」
背を向けているのでよく分からないのだが、そんな感じがした。
梨央が立ち上がる。足首にロープの結び目が見る。梨央は、うんしょっ、とブロックを持ち上げると、護岸の岸に立てて置いた。蹴飛ばして倒せば海に落ちる位置だ。
「……ちょ、ちょっと……まさか、じ、自殺する気!?」
や、やばい、やばいやばいやばい! と、止めなきゃ!!
梨央は両手を腰に当て、海を眺めている。麗子は車の陰から飛び出しダッシュした。スカートが捲れあがるのも構わず全力で走る。
「梨央!! ダメー!!」
走りながら叫んだ。声が届き、梨央が振り向く。真っ直ぐにこちらに向かって駆けてくる麗子を見て、梨央が目を見開いた。
「レ、レーコ!? な、何でここに!?」
「梨央ー!! 死ぬなー!!」
麗子の必死の形相にびびって、梨央は一歩後ろに下がった。その足がブロックに当たる。
あっ、と思ったときにはもう遅く、ブロックはスローモーションで倒れ、護岸の向こうに消えた。一瞬あとにドボンと水音がした。
「わっ!」
梨央が叫んで足元を見た。ロープがシュルルルルと音を立てて海に吸い込まれていく。
ロープが張りつめると梨央は足を引かれ、立てた棒を蹴飛ばしたように九十度回転してひっくり返った。そのまま岸の向こうに転がり落ちる。
「きゃああああ!」
麗子が叫び声を上げた。走り寄って海を覗き込むと、梨央はかろうじて岸に手をかけぶら下がっていた。
「り、梨央! 早まっちゃダメよ! い、今引っ張りあげるから!」
「な、何であんたがここにいるのよ!」
生死の狭間で噛み合わない会話をしながら、麗子は梨央の手を引っ張った。しかし、女の力では引っ張り上げることなどできはしない。
「バカ! 何で死ぬのよ! 生きてりゃいいことだって……」
「し、死なないって、あほレーコ! あ、あんたがびっくりさせるから……」
梨央もとうとう力が尽きた。手が岸から滑り、梨央はザブンと海に落っこちた。
「あー!」
叫ぶ麗子の顔に海水の飛沫がかかる。梨央の姿は海中に消えた。
普通の女子高生なら狼狽して身体がすくんでしまうところだが、麗子は立ち上がると大きく息を吸い、迷わず海に飛び込んだ。並みの肝っ玉ではない。
海底に向かって水を掻く。服が抵抗になり、なかなか前に進まない。水は濁っており、底の方までは見通せなかった。
それでも数メートル潜ると、おぼろに梨央の金髪が見えてきた。水を掻く手に力を込める。
梨央は水中でもがいていた。足のロープを解こうとしているが、パニックになってかきむしるばかりだ。
梨央の身体に手が届いた。水中で触れられてビクッとする彼女と目を合わせる。
恐怖でかわいそうなくらい引きつった顔をしていた。声は出せないが、「わたしに任せて」と目で合図を送る。梨央は頷き、おとなしくなった。
梨央の身体を伝って足首の結び目へたどり着く。息が苦しい。ここまで潜ってきただけですでに肺の酸素をほとんど消費している。すぐに上がらないと危険だと本能が訴えるが、気力でそれを押さえつける。
ロープは固結びが三回してあった。絶望感が襲ったが、麗子は落ち着くよう自分に言い聞かせた。
団子みたいに小さく固い結び目に爪を立て、ロープを引っかく。一つ目が解けたが、その間に酸欠の不快感がどんどん身体に充満していく。
二つ目、三つ目――思考力が失われるほどほど苦しくなったころに、やっとロープが解けた。もう息が限界だ。全身が痺れているような感じがする。
二人とも海面へ向け必死で水を掻く。陽の光が水面でゆらゆらと反射しているが、美しいと感じる余裕は無い。
意識を失う寸前で、二人はザバッと海面に顔を出した。立ち泳ぎしながらむさぼるように空気を吸う。
「た、助かった……」
そう言ったのは麗子だ。先に海に落ちた梨央は麗子よりダメージが大きく、まだぜいぜい息をしていた。
麗子は梨央の手を引き、護岸に設けられた階段に向け泳いだ。
藻がついてぬるぬるする階段に手をかけ、麗子が水から身体を引き上げた。水を吸った服から大量の海水が滴り落ちる。
麗子の手を借りて、梨央も海から上がった。階段を上り、やっとの思いで陸にたどり着いて、二人は地面にへたり込んだ。
「し、死ぬかと思った……」
梨央がそう言ったので麗子がぶち切れた。
「死ぬかと思ったじゃないわよ! 死のうとしてたくせに! 危うくこっちまで巻き添え食うとこだったじゃない!」
「死ぬ気はなかったって言ってんでしょうが……あんたが猪みたいに突っ込んでくるからビックリして……」
まだ落ち着かない息で梨央は言った。
「じゃあ、あのブロックは何よ!? 足に結んでランニングでもするつもりだったって言うの!?」
梨央は眉をひそめた。
「あんたいつから見てたのよ……ていうか何でレーコがここにいるの?」
不思議そうな顔をする。話が変わったことで麗子もいくらか興奮が冷めた。
「駅で見かけたからつけてきたのよ。この自転車泥棒」
「……あんたもおせっかいね。どうやって自転車を追ってきたの?」
「そんなことどうでもいいわよ。あんたなんで死のうとしたの」
違うんだってば、梨央はそう言ってショートパンツのポケットからカッターナイフを出して見せた。
「やばくなったらこれでロープ切るつもりだったの。死ぬ気はないわ。さっきはパニクっちゃってカッターのこと思い出しもしなかったけど」
ポカンとする麗子。
「何よそれ……? あんたいったい、何がしたかったの……?」
「そりゃ分かんないでしょうね。事情は後で……」
「嬢ちゃんたちどうしたんだ? 海に落ちたのか?」
後ろから声を掛けられ振り向くと、色の浅黒い作業着姿の男性が立っていた。漁協関係者だろう。人の良さそうな顔をしている。
「あ、すいません、このバカがふざけて海に落っこちちゃって、私も助けようとして飛び込んで……」
麗子がさらりと嘘をつく。「このバカ」呼ばわりされた梨央がムッとした顔になる。
「ずぶ濡れだな、風邪引くぞ。とは言ってもタオルもないんだよなあ、ウエスならあるけど。着替えはどうする? 家族にでも持って来てもらうか?」
「そ、そうですね、えーと……」
梨央と相談した結果、家族は呼ばないことにした。二人とも親はまだ仕事をしている時刻だったし、できるだけ事を荒立てたくなかった。濡れたまま帰ることになるが、しょうがない。
「そんなら倉庫があるから、そこで服を脱いで絞ったらいい。この天気だから、しばらくすりゃ乾くだろ」
☆
漁師のおじさんの好意に甘え、更衣室代わりに倉庫を使わせてもらうことになった。
倉庫は漁協組合の建物の端の方にあった。男性が軋むスライドドアを開ける。中は教室の半分ほどの広さで、両側にプラスチック製のコンテナや魚網が積まれていた。
天井近くに明かり取りの窓があるが、こんなところから覗く奴はいないだろう。中に入るとこもっていた潮の香りが鼻をついたが、不快なほどではなかった。
「扉を閉めたら、これをつっかえ棒にしてくれ。そしたら開かないから。これはウエス。じゃあごゆっくり」
男性はそう言って長さ一メートルほどの角材と数枚のウエスを渡した。ウエスは古着を裂いたものだったが、どれも綿製できれいなものだった。
礼を言って梨央が受け取る。重たい扉を男性がガラガラと閉じた。
「親切な人ね」
麗子が言った。
「そうね。さて、待たせても悪いし。早く脱いで、服絞ろうか」
「梨央、向こうを向け」
Tシャツの裾に手をかけ脱ぎだそうとした梨央に、麗子は冷たく言った。
「え? どうして?」
わざとらしくキョトンとした顔で梨央が聞く。
「どうして? じゃないわよ、レズのくせに。本当は一人ずつ交代で服絞りたいんだけど、これ以上迷惑かけらんないからあんたと一緒に入ってるのよ。向こう向いてろ、絶対こっち見んな」
梨央が舌打ちする。
「ちぇっ、どさくさで忘れてると思ったのに……どうでもいいけどレズって言うな」
「じゃあガチレズ」
「ひどくなってる! 百合って言え! もしくは百合っ子って!」
「一緒じゃない」
「全っ然違う! イメージが!」
「はいはい。だから向こう向けってば! いつまでも脱げないでしょ!」
ぶつぶつ言いながら梨央が背を向ける。Tシャツに手をかけると、一気に捲り上げた。濡れているので頭を抜くのに苦労している。白い背中が艶かしくくねった。
肌、白っ……さすがクォーターね……。
麗子にレズっけはないが、思わず見とれてしまう。梨央がシャツから頭を抜いて、ぷはっと息をつくと、麗子も慌てて背を向けた。
朱色のタイをほどき、襟から抜き取る。ハンガーなどはないので、手近のコンテナに掛けた。夏服のシャツのボタンを、一つひとつ外していく。
「梨央」
「何?」
「さっきの話の続きだけど、あんた何で足にブロックくくりつけて海に飛び込もうなんて、普通に考えれば頭がおかしくなったとしか思えないようなことしたわけ? 家で珍しいハーブでも育ててるの?」
「珍しいハーブって、えらい言いようね」
「スーパーで売ってないキノコでもいいわよ」
「言っとくけどうちの庭、あたしが植えたヒマワリ咲いてるから」
「あんた花なんか植えるの? ……って、話が逸れてるわ。ちゃんと話してよ、私は訳を聞く権利があると思うけど」
背後でピチャピチャと水音が聞こえた。梨央が脱いだTシャツを絞っているのだろう。
短い沈黙。麗子はボタンを外し終わり、シャツを脱いだ。シャツの下に着ていたキャミも脱ぐ。
「……真面目に聞いてよ」
梨央が口を開いた。
「うん、ちゃかさないから」
スカートのファスナーを下げながら麗子が言った。足を交互に上げて、ずり下げたスカートを抜き取る。
声がない。梨央が言いよどんでいる雰囲気を背中で感じる。よほど言いにくいことなのかな、と麗子は思った。
「……命に危険が迫ったらね……」
ようやく梨央が話し出す。ブラのホックを外しながら、麗子はうん、と相槌を打った。
「……テレポーテーションできるかなって思ったの」
ホックを外した前屈みの姿勢のまま、麗子の動きがピタッと止まる。その顔に怒りの表情がじわじわと浮かび上がった。思わず振り向いてしまう。
「あ、あんたねえ、人に真面目に聞けって言って、そんなふざけた……」
梨央が全裸で真っ直ぐにこちらを向いていたので、麗子はものが言えなくなってしまった。慌てて背を向ける。
「こ、こっち見んなって言ってんでしょうが!」
「あんたはあたしを見ていいわけ? 不公平だわ」
「レズと一緒にすんな! 私はあんたが素っ裸で立ってようが、カーネル・サンダースが立ってようが同じなの! むしろカーネルおじさんの方に興味があるわ!」
「ひっど……この美しい身体より『小さく前へ習え』したおっさんを好むなんて……そういうの何フェチって言うの?」
「言葉のあやよ! 突っ込んでこないで!」
「それにしてもレーコ、前から大っきいなとは思ってたけど、あんた着やせするのね。超高校級だわ。何カップなの?」
「……以前からそういうやらしい目で見てたのね……また話が逸れてるわよ。ふざけないで本当の理由を話しなさい」
「ふざけてないってば。本当にテレポーテーションしようと思ったの。信じてもらえないだろうからあたしも話したくなかったけど、あんたが一応命の恩人だから、腹を割って話してるのよ」
麗子は溜息をついた。首だけ回して後ろを見る。梨央は脱いだショートパンツを絞りながら、まだこっちを向いている。全然視線を逸らそうという気はないようだ。麗子はいいかげんあきらめた。
「一応じゃなくて全く命の恩人だけどね……本当なの? そんな馬鹿げた理由?」
そう言いながら、ブラの肩ひもを腕から抜き取る。もう背中くらいなら見られてもいいやと思っている。
「マジ。ほら、漫画や映画で超能力が発現するきっかけって、たいてい自分か大切な人に危険が迫ったときじゃない?」
「確かに定番だけど、それにしたってあんたのしたことは危険過ぎない? カッターでうまくロープ切れなかったら死ぬよ」
「そのくらい自分を追い詰めないと危機感出ないでしょ。いろいろ考えたのよ。踏み切りに入るとか、道路で車の前に飛び出すとか。でも電車なんて止めたのバレたらすんごい賠償金取られるし、車に飛び出して、万一その車が急ハンドル切って事故っちゃったりしたら、夢見が悪いでしょ。だからできるだけ個人的にすむような、海に飛び込むって方法にしたわけ。理に適ってるでしょ」
……理に適ってるでしょ、だって。呆れるわね……。
「そもそもテレポーテーションできるかも知れないって考えが理屈を超えてるんだけど、あんたなりに考えた末の行動だったわけね。はたからは自殺にしか見えなくても」
「ちょっと気に障る言い方ね」
「あんたが本気だってことだけはよく分かったわ。で、もう一つ質問だけど、動機は何よ? 命を掛けてまでテレポーテーション能力を身に付けたいって思ったのは、どうしてなの? 子供の悪ふざけとは次元が違うわよね?」
話をしながら麗子はパンツ一丁でシャツとスカートを絞っている。シャツは皺だらけになってしまった。バサバサとはたいて、少しでも皺を伸ばそうとする。
「……それは……ごめん、今は話したくない……」
小さく、か細い声。
「いいわよ、話したくなってからで。私も人の心に土足で踏み込む気は……ひゃあっ!!」
予告なしに梨央が背中に指を触れたので、麗子は叫んで五十センチくらい飛び上がった。
「ななななな、何するのよっ!!」
腕で胸を隠し、風呂を覗かれたしずかちゃんみたいな格好で麗子は怒鳴った。梨央はポストに葉書を投函するようなポーズで止まっている。相変わらず全裸で。
「……背中に海草がついてたから取ってあげたのよ。そんな過剰に反応しなくてもいいんじゃない?」
「ひ、ひとこと言え! 自分がレズだっていうこと忘れんな!」
「レーコ、今ちょっとだけおっぱい見えちゃったけど、本当に大きいわね。さっきも聞いたけど何カップなの?」
「あんたこっちを見るなって言ったの忘れてるでしょ!」
「あれ生きてるの? 何も言わないからもう失効したんだと思ってたわ」
「……どんだけ堪え性ないのよ。うちの犬は『おあずけ』って言ったら一時間でも口を付けないわよ」
「レーコ、ずるいわよ。話を逸らさないで」
「……何の話でしたっけ?」
「何カップなの?」
「Eよ!」
やけくそで麗子は怒鳴った。
☆
絞った服をまた着て、倉庫とウエスを貸してくれた男性に礼を言い、麗子と梨央は漁協組合の建物を後にした。たいぶ太陽が傾いてきて、空はオレンジ色に染まりつつあった。
盗んだ自転車に二人乗りする。麗子は荷台に横になって乗った。
「バランス取りにくいから、股開いて左右対称に乗ってくれない?」
「断る」
「じゃあいいわよ。しっかりあたしにつかまってね。その大きな胸がピザのようにつぶれるまで、ギュッと抱きつくのよ」
「それも断る。ところで自転車泥棒さん、この自転車どうする気?」
「盗んだんじゃないってば、駐輪場に返すわよ。レーコに見つかったからじゃなくて、最初からそのつもりだったんだから」
「……信じるわ。あんたって嘘はつかないのよね。子供と一緒で、善悪の区別がついてないだけだけど」
「何かひとこと気に障ることを言わないと気がすまないのね。行くわよ、つかまって」
梨央がペダルを踏む。自転車は軽快に走り出した。
濡れた服に風が当たり、ひんやりと冷たい。でも夏の夕暮れはまだまだ蒸し暑く、冷たさはむしろ心地良かった。乾いた海水が肌や髪をべとつかせるのは不快だったが。
「梨央! わざと急ブレーキかけるな! 背中におっぱい当てようとしてるでしょ!」
交差点のたびに梨央が急停止するので、麗子が怒った。
「バレたか。すごいわ、大っきな水風船みたい」
梨央はサドルから腰を上げ、立ち漕ぎしだした。スピードが上がって、ちょっと怖い。麗子は仕方なく梨央の背にしがみついた。
☆
駅の手前で二人は自転車を降りた。建物の角から首だけ出して、駐輪場を覗き見る。
ちょうど梨央が盗んだ自転車が置いてあった辺りに、警官とジャージ姿の若い男が立っていた。
「うわっ、梨央、警察来てる! ど、どうしよう……」
優等生の麗子がうろたえる。
「そうね。レーコ、先に駅に行ってて。あたし返してくるから」
自転車をガシャンと乗り捨てると、梨央は駐輪場へ向けて歩き出した。
「え、ちょ、ちょっと、梨央!」
梨央はどんどん警官達の方へ歩いていく。自転車のそばにいるのはマズいと思い、麗子は梨央の言葉に従い駅へ向かった。
駅の出入り口で人を待っている風を装い、梨央を見守る。何だか今日はあいつの観察ばかりしている気がする。
梨央が警官達に声を掛けた。三人で輪になり、何か話している。
「……よく平気で声をかけれるわね……心臓に毛が生えてるんじゃないかしら」
麗子は半分感心して半分呆れていた。自転車を乗り捨てた建物の方を梨央が指差す。三人はそこへ向かって歩いていった。
角の向こうに梨央たちの姿が消えた。状況が気になるが、見に行って共犯で捕まるのはゴメンだ。麗子はそわそわしながら待った。
しばらくして三人が出てきた。青年は自転車のハンドルを持って嬉しそうにしている。
梨央は青年と警官に頭を下げたあと、駅に向かって歩いてきた。麗子が疲れ交じりの溜息をつく。
「ちゃんと返してきたわよ」
「……あんたどんな心臓してるのよ。よくいけしゃあしゃあと警官と話できるわね」
「お礼までもらっちゃったわ、五千円も。自転車借りた上にお金までもらっちゃうと、さすがに罪悪感あるわね……」
「もらうな! 返して来い!」
麗子がマジ切れする。
「あの自転車十三万するんだって。どうしてもって言うから、仕方なくもらったのよ。あまり強く断わるのも不自然だし。レーコ、二五○○円持ってない? 半分こしよう」
「要らん! そんな汚れた金!」
「じゃあ、このお金で商品券を買って、買物してそのお釣りをあげるわ」
「マネー・ロダンリングしても要らん! っていうかマネー・ロダンリングになってないし!」
「要らないんなら私が少しでも良いことに使うことにするわ。そうね、もうすぐパパの誕生日だから、プレゼントを買ってあげよう」
「その分あんたの小遣いが浮くんでしょ……募金でもしなさいよ……」
「レーコ、まだ改札通らないでね。あたしが奢ってあげる」
券売機に歩いていく梨央。
「奢るって……これであたしも共犯かなあ……」
麗子はまた溜息をついた。
☆
電車のシートはぽつりぽつりと空いていたが、生乾きの服で座るわけにもいかないので、二人は吊り革につかまり立っていた。
皺だらけの湿った服を着て海の臭いがする女子高生二人に、乗客達の好奇の視線が注がれている。
特に麗子は制服姿なので余計に視線が痛いが、開き直ってあまり気にしていなかった。
乗客が何を想像しているか知らないが、まさか入水自殺の真似事をしたクラスメイトを助けたのだとは、誰も思わないだろう。そう思うと乗客たちの無遠慮な視線も瑣末なことに感じられるのだった。
「レーコ、あたしん家でお風呂入っていきなさいよ」
梨央が話しかける。こちらは初めから体裁など気にしていない。
「遠慮するわ。今日はさっさと帰る」
「髪早く洗った方がいいわ、海水ってアルカリ性だから傷むわよ。それに、その格好で家に帰るの?」
悪い? と麗子は言った。
「着替え貸してあげるから、あたしん家でお風呂入って着替えて、制服はレジ袋に入れて持って帰ればいいのよ。家族には学校で池に落ちたって言うの。漁港で云々言うより、説明が早いでしょ」
レーコは顎に手を当てて考えた。確かにこの格好で帰って家族に海の臭いを嗅ぎつかれると、言い訳が面倒だ。それにさっきから鬱陶しく髪がべたついている。自慢の黒髪を守るためにも一刻も早く髪を洗いたい。
「……分かったわ、お風呂貸してちょうだい……変なこと企んじゃいないでしょうね?」
「一緒に入る?」
「それなら帰る」
「冗談よ。何にも企んじゃいないから、ありがたく入っていって」
ありがたくってあんたのせいでしょうが、と思ったが、突っ込み疲れしてきたので麗子は黙っていた。
☆