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いよいよアレにチャレンジします その①


 放課後、SF研の部室。克彦と梨央と麗子はすでに部室に入り、小春が来るのを待っている。

「一年の女の子が変身したって噂、俺の教室まで伝わってきたよ」

 ごちゃごちゃした電子部品の基盤を精密ドライバーでいじりながら、克彦は言った。

「わざわざ一年の教室まで見に行くやつもいたけどさ、俺は行かなかったよ。部室で会うのを楽しみにしようと思って。髪、結構短く切ったの?」

 あんまり切ってないわよ、と梨央はしれっとした顔で答えた。

「あたしは短い方がいいって言ったんだけどさ、小春が失敗したらヤダって言って、切らしてくれなかったの。あんま変わってないわよ、はっきり言って」

 ふーん、と克彦は言った。麗子は克彦の方を見ないようにして、必死で笑いを堪えている。

 コツコツ、といつもの控えめなノックの音がした。

「お、来た」

 克彦がドアに注目する。カラカラと引き戸が開いて、小春が姿を現した。

「ごめんさい、遅くなっちゃって……」

「………………」

 約十秒間、克彦はフリーズした。口をポカンと開け、目をパチパチさせている。

 突然目の前で焚かれたフラッシュで、克彦は我に帰った。見ると梨央が例の念写で使ったカメラを手に、ゲラゲラと笑っている。

「あ、あははははは! ハ、ハト! ハトが豆鉄砲食らった顔が撮れた! あはははははは!」

 梨央が麗子にカメラのモニターを見せる。笑いを堪えていた麗子だが、それを見ると吹き出した。

「ひ、ひでえな梨央。何が『あんま変わってないよ』だよ。あー、びっくりした……あ、小春、そんなとこ立ってないで、座んなよ」

「あ、いい、のかな?」

 小春がちょこちょこと歩いてイスに腰掛けた。梨央はまだ腹を押さえて笑っている。

 隣に腰掛けた小春の顔を、克彦はまじまじと見つめた。

「はあああ……びっくり仰天だね……。あ、コンタクトにしたんだ。髪は……ちょっと染めてるよね。このウェーブは……パーマ?」

 克彦が不躾にじろじろと見つめるので、小春は恥かしそうに答えた。

「う、うん、髪は染めた。でも、先生怒んなかったよ。パーマも、当ててないです、コテですって言ったら、信じてくれた」

「私、風の噂で聞いたけど、先生も染めてるの分かったけど、何も言えなかったらしいよ。他の生徒から反感買うからとかじゃなくて、衝撃で何も言えなかったって」

 さすが委員長、情報が早い。

「いやしかし……すごいな……こう言っちゃ悪いけど、前の座敷わらしみたいな格好から人並みになったからみんな驚いてるんだと思ってた……そしたら人並みどころじゃなくて、アイドルみたいになってるんだもんなあ。あー、オレ、梨央達と知り合って良かったよ。こんな可愛い子とお近付きになれるとは思ってもみなかった」

 克彦は照れずに女性を褒めることができる性格らしい。小春の頬が赤くなる。

「もー、克彦君、恥ずかしいからそういうこと言わないで……」

「はいはい、二人ともじゃれあうのはそれくらいにして」

 梨央が手をパンパンと叩いて区切りをつける。

「今日はあたしたちの新たな目標を発表するために集まってもらったの。次はテレポーテーションに挑戦するわよ」

 帰りにマックに寄るわよ、と言うのと同じくらいの軽い調子で梨央は言った。みんなの視線が梨央に集まる。

「も、もうそれにチャレンジするの? あんたこの間念写できるようになったばっかじゃない」

「念写はもうパーフェクトよ。次のステップへ行くわ」

 梨央はそう言うと、先ほど克彦の間抜け面を撮ったカメラを額にかざし、シャッターをパチリと押した。モニターを麗子に見せる。

 レースクイーン風のきわどい服を着た小春が、大きなパラソルを持って微笑んでいる画像が映っていた。

「わ、すごいくっきりしてる……って梨央、ヘルメットは!?」

「練習してるうちに、なくても写せるようになっちゃった。電磁波が強くなったのかな?」

 何でもない顔で梨央は言った。小春にもモニターを見せる。もー、こんなの撮らないで、と小春が顔を赤らめる。

「マジかよ。俺頑張って作ったのに、無駄だったってこと?」

 そうじゃないと思いますよ、と小春。

「たぶんですけど、梨央先輩は、機械の能力をコピーできると思うんです。増幅機なしで念写ができるようになったのは、梨央先輩が潜在意識下でヘルメットの仕組みを解析して、その機能を会得した……んじゃないかな」

「へえ、そうなの?」

 自分のことなのに興味深げに梨央が言った。

「それなら作った甲斐はあるけど、小春はどうしてそう思うわけ?」

「えーと、念写が上達するのって、デジカメの仕組みが分かってないとできないじゃないですか。それができるようになったってことは、梨央先輩には無意識に電子機器の機能を読み取る力があるんです。さらに、ですよ。読み取る能力があるのなら、機械の能力をコピーすることもできる……んじゃないかな~、ひょっとして」

 克彦は呆れ顔をした。

「うっわー、無茶な理屈。でも、これが梨央だとあながち馬鹿げた話とも言い切れないんだよなあ」

「そうね、多分、小春の言うとおりよ」

 真面目な調子で言う梨央。克彦が疑わしげな目を向ける。

「言うとおりって、そんな感じすんの?」

「あたし最近、携帯にメール来たのが分かるのよ」

 えー! と、三人の声が重なった。

「メ、メール来たの分かるって、着信音とかバイブとかなくても?」

 驚き顔で麗子が聞く。

「うん、マナーにしてどっか遠いところに置いてても分かる。前なんかバッテリー切れてても分かったわよ。何でかなーって思ってたんだけど、小春の説明でハッキリしたわ。四六時中身に付けてるから、身体が機能を読み取ったのね。そのうち携帯なしでメールできるようになるわ」

 ものすごいことをさらっと梨央は言った。

「へー、いいな、梨央先輩。便利ですね」

「のんきなこと言ってんじゃないわよ小春……いまさらながら私すごい人と知り合っちゃったって思うわ……あんた宇宙人?」

「お、レーコ、いい線いってるわね。そう、あたしクォーターで宇宙人の血も入ってるの。そういうわけだから、克彦、また色んな機械作ってね。あたしどんどんコピーするから」

 克彦は上司からどえらいプロジェクトを任された新任課長みたいな顔をした。

「……分かった。やり甲斐があるよ」

「克彦、梨央にホームベーカリーあげてくれない? 米粉のパンも焼けるやつがいいわ」

「そんなもんコピーできるか! どこに材料入れんのよ!」

「イオン式空気清浄機でもいいわよ」

「それは頑張ったらできそうな気がするからよけいヤダ!」

 そのあと小春が蒸気で加熱するオーブンレンジを、克彦が羽の無い扇風機かセグウェイを欲しいといったが、それぞれに梨央は切れのいい突っ込みを入れた。

「……みんなあたしを家電量販店と思ってるんじゃないの? 欲しけりゃ買えっつーの……果てしなく脱線したけど話を元に戻すわよ。次はテレポーテーションやるんだからね。小春、理屈考えて」

 小春の顔がスッと青くなった。

「……は、はい。え、えーと、テレポーテーションするにはですね……」

 意外にもすぐに理屈を話し出そうとする小春に、梨央がちょっとビックリした顔をする。

「あれ? もう用意してるの?」

「……レーちゃんから、梨央先輩が命懸けでテレポーテーションに挑戦したって話聞いてたから、たぶん次はそれだろうなって思って……」

 用意してあったわりには自信なさげな様子だ。

「偉いわ、小春。それじゃあ、早速拝聴しましょうか。それと、テレポーテーションって言うと長いから、今後はテレポという略称を使うことにします」

 全国のSFファンから抗議が殺到しそうなことを、梨央はたった今決めた。

「……分かりました。えーと、テレポって、A地点とB地点を次元を超越して結ぶこと、ですよね」

 小春は姿勢を正して、というか緊張でしゃちほこばって話し始めた。鞄からA4の紙とボールペンを取り出す。紙の両端に二つの点を書き、それぞれにA、Bと印をつけた。

「視覚的に示すと、こういうことですよね」

 紙を逆さまのΩみたいな形にして、AとBの印をくっ付ける。

「二次元の世界の人は、正直にAからBまでテクテク歩いていくしかないですけど、三次元に住んでるあたしたちは、空間を曲げてA地点とB地点をくっ付けることができます。つまり、三次元でテレポーテーション……じゃなくてテレポするには、一つ上の四次元空間で空間を曲げて、現在地と行きたい所をくっ付ければいいんです」

「それは分かるわ。ワープの原理よね。問題はそこからよ、どこに四次元空間があるの?」

 梨央は同点で九回裏を迎えた野球の監督みたいな難しい顔で言った。

「……相対性理論って、あるじゃないですか」

「アインシュタインの」

「……そうです。相対性理論では、三次元の空間と一次元の時間を合わせて四次元時空間として扱います。それまでは空間と時間は別物と考えられていたんですけど、アインシュタインによって光速度のみが絶対で、空間と時間は曲がったり伸び縮みするものだと分かりました。相対性理論では重力は空間の曲がりとして説明できます。えーと、ここでですね、数理物理学者テオドール・カルツァって人が出てくるんですけど、この科学者さんがちょっと変わったことをやったんです。四次元時空間に一次元足した五次元時空間で相対性理論が成り立つかって、どうしてそんなことしようとしたのかは分かんないですけど、とにかくそれをやって、それがうまく成り立つことを確かめたんです。さらにですね、相対性理論を五次元時空間に適用すると、重力だけでなくって、電磁気力も空間の曲がりであらわすことができると分かったんです」

 急に難しくなってきた小春の話に、梨央は眉を寄せながら必死で耳を傾けた。

「ちょ、ちょっとこんがらがってきたわ。重力と、電磁気力?」

「この世界が多次元時空間だと仮定すると、時間や重力や電磁気力が等しく空間の曲がりで説明できるって、そこだけ理解してもらえればいいです。科学者って、とりわけ数学者と物理学者は、世界がとってもシンプルな原理に基づいてできていると信じているんです。実際、シンプルなことって、正しいんことが多いんですよね。重力と電磁気力を同一の理論で表現することができるってことは、この世界は多次元であると考えた方が合理的だってことです」

 険しい顔をして梨央が頷く。この話の着地点はどこなんだろうと思っている。

「つまり、いまあたしがいるこの世界が、すでに四次元だか五次元だってこと?」

「……最新の理論では、世界は十一次元らしいですけど」

 梨央は溜息をついた。

「……えーと、小春が言いたいのは、この世はすでに多次元だから、テレポは不可能ではないってことね? で、肝心なことなんだけど、三次元より上の次元って、どこにあるの?」

 額に縦線を走らせながら、小春は作り笑いを浮かべた。

「……そうですよね、どこにあるんでしょうねえ?」

「うおーい! そこで終わりかよ!」

 椅子を倒しそうな勢いで梨央が立ち上がる。小春は「ひっ!」と叫び手で頭をかばった。

「ちょっと梨央、小春を責めちゃダメでしょ。ちゃんとした理屈じゃない。足にブロック結んで海に飛び込むのに比べりゃ、ずっと理論的だわ」

 麗子が梨央を諫めると、梨央はしぶしぶといった顔で座りなおした。

「……だって、今の説明じゃ、あたし何していいか分かんないじゃん」

「そんな簡単にテレポできるようになるんなら、町中超能力者だらけよ。あんたも少しは知恵を絞ったら?」

 梨央は口を尖らしてむくれた。

「知恵がないから小春に頼ってるんじゃない……ねえ、小春、せめてヒントくらいないの?」

 怯えて縮こまっている小春に聞く。

「……そ、それは、世界中の科学者がいろんな説を唱えてることで……ある科学者は、もう一つの次元は三次元空間の各点に小さく丸め込まれて存在しているって説明してます。素粒子よりも小さな、無限に小さい空間一点一点に、もう一つの次元が閉じた形で収まってるんだそうです……だ、だから……今ここに、すでにですよ、ここにもう、別の次元が存在してるはずなんです」

 梨央はがっかりして溜息をついた。

「うーん、そうなんでしょうけどねえ……さて、その次元に行きたいってときに、どうやったらいいのやら……そこがさっぱりよね」

 梨央の落胆する様子を見て、小春はますます困り顔になった。

「……あたしにもどうしたらいいのか……あとは梨央先輩に頑張ってもらうしかないです……」

「頑張ってできるんなら頑張るけど~、頑張る方向が分かんないよね……でも、実際できる人がいるんだから、理屈は合ってるんだろうなあ……」

 麗子は、梨央の家に泊まったときに見た、消える少年を思い出した。

「……ごめんなさい、梨央先輩……力になれなくて……あの、きっと、他の次元は探すものじゃなくって、今ここにあるんだから、そこに入り込むってのは、もう自分との戦いっていうか、悟りの境地に近いものだと思うんです。だから闇雲に動くより、瞑想したりする方が早く近づけるんじゃないかなって、気はします……」

 少しでも梨央の力になりたいのだろう。自信はないが一生懸命に小春は助言した。しょげる彼女が気の毒になり、麗子が克彦に助け舟を求める。

「克彦君、何かこう、次元の裂け目が見えるとか、そんな機械作れない?」

 どちらかと言うと現実主義者(リアリスト)で小春の説を胡乱な顔で聞いていた克彦は、急に水を向けられて目をしばたかせた。

「簡単に言うなよ。そんなの作れるわけないだろ」

 突っぱねる克彦に対し、小春は活路を見出したような顔をした。

「でも、電磁波の可視領域を広げたら、何か見えるかもしれませんね」

「何それ? どういうこと?」

 梨央が聞く。

「人間の目に見えるのは、波長が360ナノメートルから830ナノメールの電磁波なんです。それよりず~っと長い超長波から、ず~っと短いガンマ線まで見ることができたら、時空の歪みで生じた何かが見えるかもしれません」

 嬉々として梨央に進言する小春。しかし、梨央の表情は明るくない。

「……それでも『何か見える』程度なのね……克彦、そういうの作れる?」

「そ、そういうのって……えーと……うん、それならできる。ゴーグルに広範囲な電磁波センサーつけて、それを可視光領域に波長を変換して投影すりゃいいや。明後日までにできる」

「相変わらず仕事速いわね。それじゃあ、お願いするわ」

 克彦が親指を立てて了解した。その日はそれ以上良い案も出ず、しばらく雑談したあとSF研は解散したのだった。


        ☆


 翌朝、梨央は憂鬱な顔で通学路を歩いてた。

 いつもは遅刻ギリギリで間に合うように計算しているのだが、今日は少し時間に余裕がある。

 考えごとをしながら支度をしていたら、いつもより早く家を出てしまった。彼女の場合、調子が悪いと早く登校してしまうようだ。

 昨日からずっと、四次元について考えている。しかし、未だに何をどうすればいいのか、糸口さえつかめない。

 今この瞬間にも四次元は目の前にあるはずだが、その存在は空気よりも手応えがない。小春は悟りを開くようなものだと言ったが、まさにその通りだ。仏僧が瞑想によって宇宙の真理に到達するように、梨央は自分の力で四次元の存在を見出さなくてはならない。

「梨央先輩、おはようございます」

 校門を抜けたところで横から声をかけられた。小春が後から追いついて来たのだ。屈託のないその笑顔を見ると、くさくさしていた心も和んでしまう。

「おはよう、小春」

「浮かない顔ですね。四次元のこと考えてたんですか?」

 うーん、パッと見て分かるか。

「そうね。でも全然つかみどころがないわ。禅寺に入って滝にでも打たれないと無理みたい」

 軽口を叩く余裕はあるようだ。小春はすまなそうな顔をした。

「ごめんなさい、力になれなくて……」

「気にしないで、小春には感謝してるわ」

 ありがとうと小春は言った。それからしばらく、二人は黙って歩いた。

 校舎が近づく。不意に、小春が梨央の手を握った。

 華奢な指で、梨央の手をしっかりと握る。梨央はドキッとした。

 元気のない自分を励まそうとしてくれているのだろうか、梨央は最初そう思ったが、どうも違うようだ。

 ただ手を握るだけではなく、すべすべした手のひらを梨央の手の甲に擦りつけてくる。何をしているのだろうと梨央は思った。

 スッと手を離し、小春は「梨央先輩、匂い嗅いでみて」と言った。

 柔らかな手の感触が名残惜しかったが、梨央は言われたとおり手の甲の匂いを嗅いだ。

 うっすらと、花のような香りがしたが、梨央は何の匂いか分からなかった。

「いい香り。何の匂いなの?」

 小春は悪戯っぽく微笑んだ。二人は校舎の前まで来ている。一年の靴箱は、ここから少し離れたところにある。

「うふふ、しゅくだーい」

 小春はもう一度光が零れるような笑顔を振りまくと、くるりと背を向けて、駆けていった。

「あ……」

 呼び止めようと片手を前に出した姿勢で、梨央は取り残された。小春は振り返らずに駆けていく。突っ立って後姿を見送る梨央の横を、他の生徒が不思議そうな目を向けながら通り過ぎていった。


        ☆


「あれ? あんた珍しく早いわね」

 予鈴十分前に教室に現れた梨央に、麗子が声をかける。梨央はすぐに席には着かず、鞄を机に置いて、麗子の横に立った。

「何よ?」

「レーコ、あたしの手、嗅いでみて」

 小春に握られた右手を差し出す。麗子は怪訝そうな顔をした。

「何でよ? トイレに紙がなかったの?」

「そうそう、紙がないから手で拭いて――っておい! あたしゃみっちゃんか!」

 朝っぱらから全力で梨央が突っ込む。

「あんたのノリ突っ込みは芸人並みね。何なのよ、手を嗅げって?」

「何の香りか分からないから嗅げって言ってるのよ! 変な匂いじゃないから、早く!」

 差し出された手を、麗子は用心して嗅いだ。花の香りだった。

 警戒を解き、目を閉じてくんくんと匂いを嗅ぐ。脳内検索があるものにヒットして、彼女はパチッと目を開けた。

金木犀(きんもくせい)ね。どうしたの? トイレの芳香剤でも詰め替えたの?」

「トイレから離れろよ! ああもう……朝の素敵な思い出が(けが)されていく……」

 梨央は病人のように力なく席に腰掛けた。

「ごめんごめん、冗談よ。素敵な思い出って何?」

 麗子が肩を叩くと、梨央は嫌そうに振り向いた。

「今朝ね、登校するとき小春と会ったんだけど、小春があたしの手を握ってこの匂いを移したの」

「へー。良かったわね、手をにぎにぎしてもらえて」

「ええもう、それはそれは、天に昇るほど幸せなひとときでしたよ。あんたの心ない発言で(けが)されてしまいましたけど!」

「悪かったわよ。そんなに怒んないで。で、何で小春の手から金木犀の匂いがするわけ?」

「それをレーコに聞きたいのよ。幼なじみでしょ、何か分かんないの?」

 なおもふてくされて口を尖らせながら、梨央は聞いた。

「そうね、察しはつくわよ」

 あっさりと麗子がそう言ったので、梨央はイスをガタつかせながら、後ろを向いた。

「え、レーコ分かんの!? 教えて教えて!」

 額がぶつかりそうなほど梨央が顔を寄せるので、麗子はのけぞって避けた。

「近いっつーの。すごい食いつきようね。えっと、まだちょっと時期は早いと思うけど、そろそろ金木犀が咲いてもおかしくない季節よね。たぶん今朝、通学路の途中で、住宅の庭木にでも咲いてたんでしょう。学校に向かってテクテクと歩いていた小春は、ふと、どこからか漂ってくる金木犀の香りに気がつきました。蝶々が花に誘われるように、小春は鼻をひくひくさせながら金木犀を探し当てます。いい匂いを胸いっぱいに吸い込んで、朝からとてもいい気分です。小春は金木犀の花を摘んで、ポケットに入れました。数学の問題が難しくて頭を悩ませているとき、はたまた眠りを誘う午後の授業で、この香りを嗅いで元気を出そう。小春はそう考えたのでした」

 麗子の推理を梨央は紙芝居を見る幼児のような顔で聞いていた。

「こんなとこでしょ。小春のやりそうなことだわ。あの子、ひと昔前の少女漫画みたいにメルヘンチックだから」

 梨央はあらためて手の匂いを嗅ぎ、うっとりとして溜息をついた。

「レーコ」

「何」

「あたし、小春のためなら死ねるわ」

 ぶっ、と麗子が吹き出す。梨央は真剣な表情だ。真剣ゆえにアホにも見える。

「死ねるってどういう状況でよ? あんたが身代わり?」

「例えば宇宙船でね」

「スケールでか! いきなり宇宙に行った!」

「エンジントラブルで、あと三分で船は爆発するのよ。一人乗りの脱出ポッドが二つあるけど、ひとつは壊れてるの。あたしは壊れていない方の脱出ポッドに小春を押し込めて、発射のボタンを押すの。射出される直前、小春はもうひとつが壊れていることに気付いて、ポッドの内側からガラスの窓をドンドン叩くのよ、泣きながら。あたしは微笑んで手を振り、虚空の宇宙に飛んでいく小春のポッドを見送るの」

「……感動的ね。その勇気を称えて、地球に銅像を建てるわ」

 しょうもない会話をしているうちに予鈴が鳴り、梨央は前を向いた。

 視線を感じて麗子が横を向くと、隣の里美が物珍しそうな目で見つめていた。

「……何の話か全然分かんないけど、あなたたち本当に仲いいわね」

「仲いいわけじゃないわよ。そうね、酸化還元反応みたいなものよ」

「それも全っ然分かんない」

 分かんなくてよろしい、と麗子は言って、机の中から一時限目の教科書やノートを出すのだった。


        ☆


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