1.冬の王
ごうごうと強い風が、森の木々の間を荒れ狂っている。吹き上げられた雪が、まるで小さな針のように、男の頬を刺す。
「……っ」
まともに目さえ開けられない視界の中、彼は一歩一歩、歩みを進めていた。彼の足が埋った場所は一旦その跡を残すが、しかし数分後には誰かがそこを通ったなどとは、分からなくなるほどの凄まじい吹雪だった。
男は色のあせた黒の外套に雪をまつわりつかせ、鼻まで隠れる布で顔を覆っていた。背には大きめの布袋を一つ背負っており、どこからどう見ても「流浪の旅人」という風情である。
切れ長の目は細く、瞳も、僅かに覗ける前髪も黒い。中肉中背の体格ながらも、足取りは確かに、寒々とした森の中を歩いている。
山の裾野に広がる樹海は広く深く、夏の盛りには多くの動植物が命の栄を極めるのだろう。しかし「冬の国」に近いこの場所では、木々は立ち枯れて久しく、黒々とした枝を、まるで空間に入った罅のように、空に投げている。
森の中には、一応「道」と呼べるものが開けており、雪の重みで倒れた木や、雪崩などでふさがれていない限りは、風雪の中でも何とか通行が可能な状態だった。
だが雪の勢いはひどく、昼の間に歩く距離を稼がなければ、今日の夜は雪の中に穴を掘って、野宿をしなければならないかもしれない。旅人はそれを思うと、急にやる気と元気が失われていくのを感じていた。
「……っ……ううっ……」
何かのうめき声が聞こえて、彼はふと立ち止まった。熊は、冬には冬眠するはずである。このような天気の悪い日に、外に出て獲物を探す動物を彼は知らなかった。
真っ白な周囲を見渡し、次いで彼はよく見えないながらも、足元に目を落とす。
少し歩いた先の、道の上に、雪にまみれた彼の外套と同じように、人間が雪に埋もれて倒れている。元は藍色であろう外套にはみっしりと雪が降り積もり、頭部は半ば雪の中に沈んでしまっているように見えた。
旅人はごくりと喉を鳴らしつつ、倒れている人間に近寄った。
死んでいたらどうしよう――僅かな危惧が彼の心を掠める。
だが、少し近寄った辺りでまた、行き倒れの口から細く低いうめき声が聞こえた。とりあえず息はしているようだ。彼は少しほっとしながら、倒れている人間の傍に跪き、体を仰向けにした。
旅人は息を呑む。雪で視界は悪いが、今はまだ昼間。仰向けになった人間は、絶世の美しさを湛えた、男だった。
白いと思っていた髪は銀のようで、しかも伸ばして、緩くうなじで結わえているらしい。肌は雪の白さをそのまま写し取ったようで、病的なまでのその色合いは、どんどん生気が失われていることの証左でもあった。急いでどこかで身体を温めなければ、間もなく命を落としてしまう。彼にはそれが、はっきりと分かった。
旅人は素早く視線を周囲に向けると、近付いていた山肌に、丁度いい大きさの黒い空洞を見つける。
男を一度地面に戻すと、彼は急いで洞窟まで様子を見に行った。
どうか熊があの穴倉で暖をとっていませんようにと、強く祈りながら。
ぱち、と薪の爆ぜる音が響き、洞窟の高い天井に火の粉が舞う。
旅人が心配していたとおりにはならず、山肌の小さな洞窟には、どんな動物の影も見出せなかった。
代わりに、洞窟には人のいた気配が残っていた。
乾いた大量の薪に、土が掘られ、まわりを石で囲まれた小さな竈。寝るための板敷きも、その上にかぶる毛布も、少々饐えた匂いはするが、充分用途に耐えうるものが備え付けてあった。
恐らく山の天候に翻弄され、その日のうちに帰宅できない者のために、このような仮宿が整備されているのだろう。旅人はこの際、ありがたく全て使わせてもらうことにした。
ぐったりとして重たい男の身体を運び、火を起こす。そして冷えて凍ってしまった男の服を脱がせ、乾いた毛布で巻いてやる。凍えた身体を温めるための湯たんぽまで備え付けてあるのに気付いた旅人は、自分の服を脱いで、己の肌で男を温めるのを止めた。幸いに雪も薪も大量にあり、陶器製のそれに温めた湯を注ぐと、自分の外套にくるんで、彼は男の脹脛の下に置いてやる。
「……今日はここで寝るしかない、か」
旅人は洞窟の外を見るために、入り口の方まで歩いていった。
外を見遣ると既に日は落ち、吹雪の上に余計に視界が効かない状態になっている。
これだけの悪状況の中で登山を決行すれば、まず生きて明日の朝日を拝むことは出来ないだろう。
本当なら「冬の国」へ入ってしまいたかったところだが、行き倒れをそのままにしておくことも出来ない。旅人は、大人しく洞窟の奥へと引き返した。
「うう……っ」
旅人が炉の傍に戻ると、男がゆっくりと意識を取り戻した。
「……大丈夫ですか?」
うっすらと瞳を開けた男の虹彩は、醒めるような湖の、氷の蒼だった。暗い洞窟の中でもはっきりと分かる色彩に、旅人の心臓は驚いてどくりと跳ねる。旅人は恐る恐る男の顔を覗きこみ、こちらを認識しているかどうか確かめた。
男の視線が旅人の目を見る。像が結ばれたのか、男の口から、乾き掠れた声が押し出された。
「……ここ、は?」
旅人は男の声に安堵の笑みを浮かべつつ、カンテラに火を入れ、周囲を明るくした。次いで温めて水にした雪を火に掛ける。
「山の麓にある洞窟です。あなたは吹雪の中、ぶっ倒れていらっしゃったんですよ? ろくに防寒もせずに、一体どうしたんですか?」
男は一回頭を振ると、起き上がろうとした。
「あっ、だ、だめですよ。まだ休んでなきゃ」
旅人が押し戻すと、男は怪訝そうな目で旅人を見つめた。
「……何で、私は、裸なんですか?」
「仕方ないですよ。服、凍ってましたもん。あのままだったら死んでましたよ?」
彼の纏っていた衣服は、洞窟の中に渡された紐に掛かって、乾かされている。男は周囲に視線を巡らせると、自身の羽織っていた外套に目を向けた。
「あの……」
「はい?」
「小瓶は、割れていませんでしたか?」
男の質問に、旅人はああ、と頷いた。
「外套の中に一杯くくりつけてあった小瓶ですか? 大丈夫ですよ、一つも割れていませんでした」
男はそれを聞いて、ようやく安心したように息を吐く。
「よかった……。助けてくださって、ありがとうございます。あの、貴方は?」
男は美丈夫然とした容姿に似合わない、少し弱弱しい口調で尋ねた。それに違和感を覚えつつも、旅人は口を開く。
「僕のことはロセンと呼んでください。流れの占い師です」
「うっ、占い師……!?」
男は唐突に、ロセンを縋るような目で見つめた。
ロセンはよく、こういった視線に遭遇する。どうにかしたい何かを抱えた、そのためには手段すらいとわないと考える、追い詰められた人間の目に。
「……どうかしましたか?」
何か嫌な予感が、ロセンの背筋を上った。面倒ごとの存在を感じ取る彼の嗅覚は正しく作用していたが、男を助けた時点で、既に厄介ごとに巻き込まれているのと同じである。今更、知らない振りが出来ようはずもない。ロセンは、男が言葉を続けるのを見守るしかなかった。
「占い師殿、お願いです、私を……私の国を、助けてくださいっ!」
男の必死な声に、ロセンは聞き捨てならない単語を見出した。
国、と男は言った。規模の大きい話に、彼は一瞬思考停止に陥る。
「あの……あなたは、誰なんですか?」
ようやくそれだけを聞くと、更に男は衝撃的な事実を口走った。
「ああ! 申し遅れました……。私は、冬の王です」
「……へ?」
ロセンの間の抜けた声が、洞窟に思いのほか、うわんとこだまする。
「春の女王の軍勢に国を追われ――このように、流浪の身と成り果ててしまいましたが。……ううっ」
泣き崩れる王に、しかしロセンは驚愕の眼差しを向け、
「……うそですよね?」
と呟くのが精一杯だった。
「嘘なものですか!」
自身を王と名乗る男は、堰が切れたように瞳に涙を盛り上がらせると、雫のようなそれをぼろぼろと零し始めた。
「……な、何があったんですか?」
ロセンは及び腰で尋ねる。
「春の女王――春の国が、攻めてきたのです」
泣き声の隙間から、冬の王の嘆きの言葉が応えた。
「春の国?」
「はい」
「……そこは、どういうところなんですか?」
ロセンは、ひとまず無難な質問を口にした。彼は「冬の国」を知ってはいたが、「春の国」は知らなかったのである。
「春の国は、冬の国の隣にある、春を司る国です。久しく女王にも会っていませんが、特に争うこともなく、平和にやってきたはずなのに……」
「攻められるような謂われは、ないわけですね」
「そうです。いきなり春風が国に吹き始めたかと思うと、国中が暖かくなって、国民が融けて死んでしまったのです」
王の嗚咽の合間に紡がれる悲痛な声は、ロセンにも痛みを伴って響く。
「……生き残りはいないのですか?」
「私一人と……そこの外套に抱えて持ってきた、小瓶の中に避難させた部下が、すべてです」
旅人は外套に鋭い視線を向けると、無言で王に向き直った。
「私は、別に暖かくても暑くても平気なのですが、国民はそうはいきません。私という『冬の力』と一緒にいなければ、みんな死んでしまうのです」
「だから、国から逃げてらしたんですね……」
「ええ。……ですが、国を取り戻さなければ、『均衡』が崩れてしまいます。ここ以外の世界にも、様々な影響が出てしまうでしょう。でも、今の私には、何をどうするべきなのか、何の方策も浮かんでこないのです……」
しくしくと泣き崩れる王を見ながら、旅人は考える。
頭のおかしい人間にしては、話の筋が通っていなくもない。しかしそれ以前に、「冬の国」「春の国」が、どうやら文字通りの「国」ではないのかもしれないということを、ようやくロセンは理解し始めた。
王は顔を上げて涙を拭うとゆっくりと起き上がり、身体に布を纏いつかせて言った。
「旅の方が信じられないのも道理です。ですが、真実なのです。このままでは……ああ。冬の国が、滅びてしまう……」
……もう既に滅んでいるといっても過言ではない、と喉まで出かかった言葉を、ロセンは押し留めた。飲み込んだ息を深々と吐くと、口を開く。
「ええっと……」
「何かいい案でもありますかッ!?」
王の食いつきように、ロセンは思わず後ずさった。必死な瞳を向けてくる王に、ロセンはどもりながらも、言うつもりだった台詞を口にする。
「ええとその……。と、とりあえず、国の様子を見てきましょうか? 冬の国の人たちは、暑さ? に弱いんでしょう? だったら、たぶん僕しか、街を見てくることは出来ないんじゃないかなあ、と……」
「本当ですか!? 是非、そうしていただきたいです! 私も、国から離れたことがありませんでしたので、今どのようになっているのか、心配で心配で……」
ロセンにしがみつかんばかりの王を一旦毛布に横にし、旅人は諭すように話す。
「では、明日の朝、ここから冬の国を目指します。王さまは体力回復に努めてください。いいですか?」
「――占い師殿、かたじけないです……っ!」
感極まってまた涙を流す王に、ロセンは溜め息を吐きそうになるのを懸命に堪えて、励ました。
翌朝、少しばかり体調の回復した王に乾いた衣服を着せて、ロセンは洞窟の外に出た。
相変わらずの空模様に辟易しながらも、ゆっくりと山を登り、昼過ぎには峠を越える。
そして、目の前に広がる光景に、彼は開いた口を塞ぐことができないでいた。
「……なんだ、これ」
同じ山の反対側とは思えないほどの、緑、緑、緑――。
木々には優しい色合いをした若芽が柔らかく萌えて、温かい空気が雪をほぐすように水に戻し、しっとりとした春の湿気を山の森に与えている。
ロセンは目を瞬いた。山一つ越えた先に、こんなにも明確な季節の違いがあるなどと、誰が想像しようか。
ではあの男――冬の王の話は本当なのか?
見晴らしのいい頂から眺めると、山を下りて少し下った辺りに、大きな街があることに彼は気付く。
もし冬の王の言葉が確かなら、あの立派な石組みの街は、春の女王に制圧された「冬の国」のはずである。
本来目指していた場所に穏やかではない気配を感じ取りながらも、ロセンはまたゆっくりと、山を下り始めた。