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怪異?っぽい?

『魅入られた世界で、魅入られなかった男』

作者: 月白ふゆ

奇跡は、怖いほど分かりやすい。

祈れば救われ、手を伸ばせば届き、涙が流れれば「正しさ」になる。


だからこそ、

そこから少しだけ外れた視線は、とても静かで、目立たない。


この話は、

奇跡を否定する物語ではありません。

信仰を嘲る物語でもありません。


ただ、

奇跡のすぐ隣に立っていたはずの「人」が、

いつの間にか見えなくなっていたことに、

そっと触れるだけの話です。


少しだけ、不思議で。

少しだけ、不穏で。

けれど最後は、

とても穏やかなところへ戻ります。

王都の大聖堂は、いつ来ても天井が遠い。白い石と金の縁取り、蝋燭の火が揺れて、息を吸うだけで喉の奥が澄むような錯覚がする。


その中央に立つ女は、空間をひとりで占めていた。

ミオナ・ヤシロ。聖女。王国の祈り手。


見上げれば、目線が自然に上向く。背が高い、という言葉では足りない。彼女が立つと、そこだけ天井が少し近くなる。近づけば近づくほど、自分の立っている場所が狭くなったように感じる。実際の距離は変わらないのに、空気の密度だけが変わる。


「聖女様……」


誰かが膝をつく音が連鎖し、祈りの列が波になる。王子と王子妃が壇上から見守り、神官たちが粛々と儀式を整える。

そして、ミオナは祈る。


彼女が両手を胸元に重ねた瞬間、空気がひとつ息を止める。

次の瞬間、奇跡は分かりやすい形で起きる。目の前で、死にかけていた老人の唇に色が戻り、熱にうなされていた少年の肩の震えが止まり、包帯の下で止まらなかった血が静まっていく。


何度見ても、理屈は追いつかない。

だから人は、祈る。縋る。泣く。

そして、魅せられる。


王子の横顔は、いつも少し熱を帯びている。聖女を見つめる眼差しが、信仰のそれを越えてしまっているのに、本人だけが気づかない。王子妃はもっと慎重で、礼を尽くしながら距離を保ち、触れてはならない境界線を守り続けている。


この場で膝を折らずに立っているのは、雑務係として端に控える男だけだった。


アーヴィン・ヴァルディス。男爵家の次男。

目立たない顔、目立たない身なり、目立たない立ち位置。王宮の誰もが、必要だからそこに置いているだけの存在として扱う。


ところが、彼は見ていた。

奇跡ではなく、ミオナ自身を。


祈りの合間に、微かに音が混じる。

ぽ、ぽ、ぽ。

乾いているようで湿っている。蝋燭の弾ける音にも似ているし、靴裏が石を打つ音にも似ている。誰も気に留めない程度の小ささで、けれど規則だけは妙に正しい。


人々はそれを祝福の前触れだと言った。神官は「霊気が満ちる音だ」と囁いた。涙を浮かべた女は「神様が近い」と震えた。


アーヴィンは、ただ首を傾げた。

音が、彼女の足元から来ている気がしたからだ。


祈りが終わると、列が動く。神官が合図し、王子が一歩前へ出て、聖女に感謝の言葉を述べる。いつもの形式。いつもの熱。いつもの陶酔。


その熱の端で、アーヴィンは帳簿を抱え、次の儀礼の備品確認をしていた。儀式用の布、聖水の瓶、蝋燭の残数、薬草の補充。奇跡が起きるほどに人が押し寄せ、物が消える。補給が遅れれば、儀式が滞る。


「ヴァルディスの次男」


背後から、神官長が呼んだ。

アーヴィンが振り向くと、ミオナがそこにいた。近い。近すぎる。視界が一瞬、白で埋まる。ローブの胸元の布が柔らかく影を落として、思わず目を逸らす。


「……はい」


声が掠れた。

高さも、存在感も、音も、平然としていられるのに、そこだけはどうしても平然ではいられない。


ミオナは気づいているのかいないのか、淡々とした顔で言った。


「次の祈りの準備を。水が足りない。薬草も」


「承知しました」


神官長が満足げに頷く。

アーヴィンは胸元の圧から逃れるように一歩引いた。ミオナの視線が落ちてくる。見下ろされている、というより、彼女の視線の高さがそこにあるだけで、自分が低い場所にいると理解させられる。


それでも、怖くはない。

ただ、近いと照れる。


「……天井、低く感じませんか」


口から出た言葉に、神官長が怪訝な顔をした。

ミオナだけが、一瞬だけまばたきを遅らせた。


「ここは高い」


「そうですよね。なのに、今日は近い気がします」


神官長が咳払いをする。そんな雑談を挟む場ではない、と空気で叱る。

アーヴィンは肩をすくめて、帳簿を抱え直した。


ミオナは何も言わず、ただ、ほんの僅かに口角を上げた。笑みではない。微かな緩み。誰にも見せない種類の表情。


それが最初だった。



---


王宮での仕事は、意外なほど単純だ。

誰がどこで何を言うかは決まっている。儀礼の段取りは固定され、必要なのは不足を埋める手と、空気を乱さない振る舞いだけ。


アーヴィンは空気を乱さない。

ただ、空気の意味付けに参加しないだけだ。


聖女の奇跡は凄い。救われる命がある。助かる村がある。だから感謝はする。敬意も払う。だが、それを理由に彼女を神そのものにしてしまうのは違うと思っている。違う、というより、そんな発想が彼には生まれにくい。


祈りの後、救われた者がミオナのローブに縋ろうとしたとき、アーヴィンは自然に間に入った。


「危ないので、距離を。……視界が高いので、転ぶと踏まれます」


言った直後に、自分の言い方が失礼だったかもしれないと気づく。だが、相手は涙を浮かべたまま頷いて、後ずさった。

ミオナは何も言わず、アーヴィンの肩越しにその者を見下ろした。慈悲深い、とも、冷たい、とも取れる視線。王子がそれを「聖女の慈愛」と受け取り、胸を熱くする。


王子は魅せられている。

世界がそれを支えている。


数日後、ミオナは王子に願い出た。

アーヴィンを自分の傍付きにする、と。


「聖女が望むなら」


王子は一拍も置かずに許可を出した。理由を問うことすらしない。

王子妃が微かに眉を動かしたが、否は言わなかった。聖女の判断に逆らうことは、王宮の空気として不可能になっている。


そうして、アーヴィンの仕事は変わった。

祈りの準備の管理。聖具の搬入の監督。水と薬草の在庫統制。儀礼の導線整備。聖女の衣装や足元の確認まで。


彼は、彼女の「生活」に近いところへ押し込まれた。


最初の晩、ミオナの控え室へ呼ばれたとき、アーヴィンは扉の前で立ち尽くした。

中から、ぽ、ぽ、ぽ、という音がしたからだ。あの儀礼の音。だが、今回ははっきりと、床の上で鳴っている。


扉が開き、ミオナが立っていた。

近い。白いローブの胸元が、視界の半分を占める。反射で目を逸らす。


「……靴、濡れてます?」


ミオナは首を傾げた。


「濡れていない」


「じゃあ、音は……」


言いながら、アーヴィンは音の正体が分からないことを思い出した。分からないなら、分からないでいい。

だが、言葉は止まらない。


「足、痛くないですか。あの音、ずっとしてると気になるでしょう」


ミオナは少しだけ黙った。

そして、とてもゆっくり言った。


「気にした者はいない」


「そうですか」


「お前は気にする」


「……音は、気になります。あと、天井」


ミオナは控え室の天井を見上げた。

その動きだけで、部屋の狭さが増す気がした。錯覚だ。だが、錯覚のはずなのに、胸の奥がざわつく。

アーヴィンはそのざわつきを恐怖だとは思わなかった。単に、圧があるのだ。大きさの圧。存在の圧。


ミオナが少し身を屈めて、机の上の書類を指した。

その瞬間、視界がまた白に埋まる。

アーヴィンは息を吸って、必死に平常心を取り戻した。


「……近いです」


呟いた声は、祈りの場の誰よりも人間くさかった。


ミオナが、はっきりと目を細めた。

笑ったわけではない。だが、冷えていた室内の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


「照れるのか」


「ええ、普通に」


「他の女には?」


「王子妃殿下くらいなら平気です」


言ってしまってから、しまったと思う。比較するな。失礼だ。

だがミオナは怒らなかった。怒りの気配すら見せない。むしろ、少しだけ考える顔をした。


「……そうか」


その夜、アーヴィンは控え室を出たあとも、胸の鼓動が落ち着かなかった。

祈りの奇跡を見たときには、こんな鼓動にはならない。

自分の中にあるものが、明確に違う反応をしている。


彼女は聖女だ。

それでも、女だ。


その当たり前に、彼は初めて気づいた。



---


季節が巡る。

王都の疫病が落ち着き、地方の干ばつが収まり、戦場で傷ついた兵の列が減っていく。奇跡は確かに起き続け、そのたびに人々の信仰は濃くなった。


だが、その濃さの中で、ミオナは少しずつ変わっていった。

派手に笑うことはない。涙を見せることもない。けれど、アーヴィンがそばにいるときだけ、息の速度が変わる。視線が、ほんの僅かに柔らかくなる。


誰も気づかない変化だった。

気づいたのはアーヴィンだけだ。


ある日、祈りの途中で、ミオナの影が不自然に伸びた。

蝋燭の火の向きは変わっていないのに、影だけが、壁を這うように長くなる。天井が近い。空間が足りない。ひとりで祈っているはずなのに、ひとり分では収まらない。


ぽ、ぽ、ぽ。

音が、いつもより鮮明に響く。


列の誰かが歓喜で泣き、神官が「霊気が満ちている」と震え、王子が恍惚の息を漏らした。

王子妃だけが微かに顔を強張らせ、袖の中で指を握りしめた。


アーヴィンは、祭壇の端で、そっと口を開いた。


「今日は、いつもより……高いですね」


言った瞬間、近くの神官が目を剥いた。

不敬だ、と言いたい顔。

だがアーヴィンの声は不思議と穏やかで、誰かを貶める色がなかった。


ミオナの祈りが一瞬だけ、揺れた。

それは間違いなく揺れだった。声の伸びが変わり、空間の張りがほどける。

そして、彼女は祈りを終えた。


奇跡は起きている。

倒れていた女が息を吹き返し、蒼白だった頬が赤みを取り戻す。

人々は涙を流し、王子は満たされたように微笑んだ。


だが、アーヴィンは見てしまった。

祈りの最中、ミオナが少しだけ“広がった”ことを。

そして、彼の一言で少しだけ“戻った”ことを。


控え室へ戻る道中、ミオナがぽつりと言った。


「お前は、怖くないのか」


「何がですか」


「……わたしが」


アーヴィンは立ち止まり、彼女を見上げた。

視線を上げても上げても、目線が合うところに到達しない感じがする。

それでも、怖くはない。


「奇跡は凄いと思います。助かる人がいますから」


「それは、わたしが凄いからか」


「力が凄いんだと思います。あなた自身が凄いっていうのとは、別で」


言いながら、アーヴィンは自分の言い方が失礼になっていないか気にした。

だが、ミオナは怒らなかった。むしろ、少しだけ目を細めた。


「……お前は、わたしを神にしない」


「神官たちがやってますよ」


「お前はしない」


「ええ。……でも、女としては、意識します」


その瞬間、ミオナの呼吸が一拍止まった。

次に出た吐息が、ほんの少し熱い。


「……どこを」


アーヴィンは視線を泳がせ、ほんの少しだけ耳が赤くなるのを自覚した。


「……胸とか」


言った瞬間、ぽ、ぽ、ぽ、という音が一度だけ弾んだ。

まるで、誰かが小さく笑ったみたいに。



---


王子は、ミオナを国家の象徴として手放せない。

それは王国の安定でもあり、彼自身の拠り所でもある。


だからこそ、アーヴィンの存在は都合が良かった。

聖女が望んだ傍付き。聖女が選んだ補佐。聖女が信頼する男。

その枠の中なら、彼女の周囲を整えられる。聖女の安全も保てる。儀式も滞らない。


王子妃は別の危うさを感じていた。

聖女が誰かに心を寄せること。

それが王子の熱をどう揺らすか。

だが、王子はすでに深いところまで沈んでいた。彼女の言葉が「正しい」と感じるのは、信仰なのか、別の何かなのか、自分でも分からない。


そんなある日、ミオナが王子の前で言った。


「婚姻を望む」


王子が、呼吸を忘れた。

王子妃が、わずかに目を伏せた。

神官たちが、ざわめいた。


「相手は?」


王子の声は震えていた。期待と恐れの混じった震え。

ミオナは迷いなく言った。


「アーヴィン・ヴァルディス」


世界が一瞬止まった。

次に動いたのは、王子だった。


「……聖女が望むなら」


二つ返事だった。

痛みが走ったような顔をしたまま、それでも王子は許可した。

彼女の望みを拒むという選択肢が、最初から存在していないのだ。


アーヴィンは、儀礼の廊下でその知らせを受けた。

頭が真っ白になる。奇跡を見たときには真っ白にならないのに、婚姻の話で真っ白になる。

そして、最初に出た言葉が、自分でも情けないくらい俗だった。


「……え、あの、胸……」


言ってから、違うだろ、と自分に突っ込む。

だがミオナは、真顔で言った。


「抑える」


「抑えられるんですか」


「普段は抑えている」


その言い方が妙に自然で、アーヴィンはさらに混乱した。

抑える? 何を? どこまで?

聞けば聞くほど、答えは生活の側に落ちてくる。神秘ではなく、習慣みたいに語られる。


「……嫌か」


ミオナが問うた。

声が、いつもより低い。


アーヴィンは、答えを探した。

怖くない。嫌でもない。驚いている。照れている。

それらを全部まとめて言える言葉が、ひとつだけあった。


「……僕でいいんですか」


ミオナは、ほんの少しだけ視線を逸らした。

その仕草が、やけに人間らしかった。


「お前がいい」


たったそれだけで、アーヴィンは頷いてしまった。

世界の熱狂や制度の重さではなく、目の前の女の言葉で。



---


婚姻は、王宮の祝福として執り行われた。

聖女は聖女のまま。男爵令息は王宮勤めのまま。

表向きの説明は、聖女の傍付きに対する褒賞と、聖女の安寧のための制度整備。

誰も「恋」とは言わない。言えない。言えば制度が崩れるから。


それでも、家庭は生まれた。

王都の外れ、静かな屋敷。人が頻繁に訪れない場所。

夜になると、廊下の奥でぽ、ぽ、ぽ、と音がする。


最初の夜、アーヴィンは目を覚まして廊下へ出た。

ミオナが窓の前に立っていた。背が、暗闇の中でやけに高い。

天井が近い。空間が足りない。

だが彼女は窮屈そうにはしていない。むしろ、ようやく呼吸が楽になったように見えた。


「起こしましたか」


「いや。……歩いてたんですね」


「歩いていた」


「音、します」


「そうだ」


「……僕、慣れてきました」


そう言うと、ミオナは少しだけ振り返った。

月明かりが頬を照らし、目の奥が淡く光る。

それを神聖と呼ぶ人もいるだろう。

アーヴィンは、ただ綺麗だと思った。


「胸は、まだ慣れません」


言ってしまってから、またやった、と自分で思う。

だがミオナは、今度ははっきりと口角を上げた。


「……慣れなくていい」


その言葉が、妙に優しかった。



---


数年後、三人の娘が生まれた。

三つ子だった。


泣き声が三つに重なり、屋敷の空気が一気に賑やかになる。

乳母が驚くのは、成長の早さではない。

背丈が、同じ歳の子どもより少しだけ大きいこと。手足が長いこと。立ったとき、三人並ぶと廊下が狭く感じること。


「元気なお子ですね」


誰もそれ以上は言わない。

言葉にした瞬間、別の名前が付いてしまうから。


夜更け、アーヴィンはふと目を覚ます。

廊下の奥で、音がする。


ぽ、ぽ、ぽ。

ぽ、ぽ、ぽ。

ぽ、ぽ、ぽ。


三つに分かれて響く。


彼は枕に顔を埋めたまま、眠気の中で笑いそうになった。

そして、寝返りを打つ。


「ああ……歩いてるな」


隣で、ミオナが静かに息をする。

いつもより少しだけ天井が近い気がするのは、夜だからだろう。

それとも――いや。考える必要はない。


奇跡は相変わらず起きる。

王宮で祈れば人が救われ、村が救われ、畑が救われる。

王子は相変わらず彼女を神意として崇め、王子妃は相変わらず境界線を守る。

世界は相変わらず魅せられている。


その世界の端で、聖女は帰る。

背が高くて、音がして、少しだけ空間を取る女として。


そして、ただひとり、魅せられなかった男は、今日も平常心で言う。


「明日は王宮です。……天井、低いところは避けましょう」


ミオナは頷き、三つ子は寝息のまま、廊下の向こうで小さく音を立てる。


ぽ、ぽ、ぽ。


誰も名前を付けないまま、

それは確かに、家族の音になっていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


もし途中で、

「なんだか変だな」

「説明されない違和感があるな」

と感じていたなら……たぶん、こちらの狙い通りです。


気づいてもいいし、

気づかなくても大丈夫な仕掛けを、

そっと置いてみました。


恋愛として読んでも、

不思議な話として読んでも、

ただの静かな短編として読んでも成立するように。

でも、もし何かひっかかるものが残っていたなら、

それはたぶん“成功”です。


説明しないまま終わるものほど、

あとでふと、思い出してしまうので。


読んでくださったあなたの中に、

少しだけ妙な余韻が残っていたら、

それがこの話の完成形です。

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― 新着の感想 ―
増えた…(笑) 怪異として畏怖するのか、祭り上げて神として畏敬するのか…の2択ではなく、情をもたせてヒトに近しい存在にする、のが確かに国としては安全かつ利用しやすくはあります。 しかしなんでこの世…
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