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第1話 空に堕ちた少女

 ――今の今まで湖上を優雅に進む遊覧船に乗り、鏡のように透き通った水面を眺めていたはずだ。

 それなのに、サラの意思に関係なく、いつの間にか淡い色合いの春の空が視界を埋め尽くしていた。


 エメラルドの双眸(そうぼう)を驚愕に見開いたのも束の間、重力に従ってサラの身体は頭から落下を始めた。


 そう――信じられないことに、気づけばサラは空に放り出されていたのだ。


 全身を風に(なぶ)られながら落ちていくサラは、果たして悲鳴を上げられたのだろうか。轟々(ごうごう)と唸る風の音に聴覚を支配され、それすらもわからない。


 今のサラにできることなんて、限界まで両目を見開いたまま、嫌でも重力に身を委ね、いっそ憎らしいほど美しく澄み渡った青空を目に焼き付けることだけだ。


 だが、地面に叩きつけられる瞬間を待つことしかできなかったサラの身に、突如として異変が起きた。

 皮膚を引き裂こうとしているのかと疑うほどの風圧から解放されたかと思えば、サラの身体は緩やかに落下をやめ、ふわりと宙に静止したのだ。


(た……助かっ、た……?)


 よくわからないが、どうやら自分は死を回避できたらしい。

 しかし、おそるおそる安堵の吐息を零した直後、そんなサラの思いを嘲笑うかのごとく、先程よりは勢いを失ったとはいえ、落下が再開された。


 しかも、サラは川か池か、はたまた湖の上に浮かんでいたみたいで、派手に水飛沫を上げながら水面に背中から叩きつけられた。

 全身を襲った痛みに息を詰めたのも束の間、サラの身体は水底に向かって沈んでいく。


(……さっきから、次から次へと何なの……!)


 驚きも度が過ぎると、かえって冷静さを呼び戻すものらしい。

 息苦しさを覚えつつも、サラは身に纏っていたチャコールグレーのジャンパースカートをかなぐり捨てた。


 落下していた最中に脱げ落ちてしまっていたのか、黒いタイツに覆われた足は両方とも靴を履いていなかったが、今は少しでも身に着けているものがない方が都合が良い。


 アイボリーのタートルネックのニットもタイツも、できることならば着用しているもの全て脱ぎ捨てたいくらいだったが、水中では動きが制限されてしまう。


 だから諦めて、水面に向かって泳ごうとしたものの、水をたっぷりと吸った服を着たままでは、身体は思うように動かない。


 それでも、懸命に上に向かおうとした結果、少しずつ水面に近づいていったのだが、次第に息苦しさまで限界に近づいてきた。

 その上、春先とはいえ水温はまだ低い。酸素だけではなくて体温も奪われ、手足の感覚が薄れていく。


(ちょ……これは、さすがに……)


 本能的に命の危機を察した途端、死への恐怖と焦燥が胸の奥底から込み上げてくる。


 早く、早くと焦る中、突然目の前に大量の水泡が現れた。そして、力強い手に片腕を掴まれたかと思えば、何者かにぐっと抱き寄せられ、あっという間に身体が上へと引き上げられていく。


 大きな音を立てて水面から顔を出すや否や、急に体内に酸素が取り込まれたからなのか、盛大に咳き込んでしまった。


 濡れた栗色の髪は顔中に張り付き、鼻の穴からも口の中からも水が出てきた気がするが、構っていられるだけの余裕はない。


 どうにか呼吸を整えようとしていたら、サラを水中から引き上げてくれた誰かの手が、遠慮がちに背中をさすってくれた。


 水の中にいた間は視界が不鮮明だった上、徐々に意識が朦朧としてきていたから、サラを助けてくれた相手は黒い塊程度にしか認識できなかった。


 だから、きちんと相手の目を見て、助けてくれた礼を伝えようと、顔に張り付いている鬱陶しいセミロングの髪を払い除け、瞬きをして睫毛に付着していた水滴を落とした直後、思わず息を呑む。


 何故なら、晴れた空をそのまま閉じ込めたかのような瞳が、サラの顔を心配そうに覗き込んでいたからだ。


 その美しい色合いの切れ長の双眸も、水が滴るやや癖のある濡れ羽色の髪も、シャープな顔の輪郭も、通った鼻筋も、薄くて形の良い唇も、色素の薄い肌も、何もかも五年前に会ったきりの男の子の面影を残している。


「――シュウ……?」


 懐かしい名をおずおずと舌の上で転がせば、そっと寄せられていた整った形の眉が開き、曇っていた表情が安堵に緩んでいく。


「ああ……久しぶりだな、サラ」


 サラの耳朶を打つ清涼感のある声は、五年前よりもずっと低くなっていた。


 どうして、今ここにシュウがいるのか。そもそも、今は一体どういう状況なのか。

 眼前の青年にそう問い質したいのに、何一つとして声にならない。


 そうこうしているうちに、シュウはサラを抱えたまま水をざぶざぶと掻き分けて進み、岸へと乗り上げた。


 無事、陸に上がってもサラは地面に下ろされず、それどころか横抱きに抱え直されたものだから、だんだんと気恥ずかしさが込み上げてくる。


 ふと、そこで何故かシュウの眉間にまた皺が寄せられたから、その空色の眼差しの先を辿っていく。

 その結果、今の自分がかなり際どい格好をしていたことを、ようやく思い出す。


 薄手のニットは色合いが淡いため、下着の色がうっすらと透けて見え、下半身に至っては水に濡れたタイツがぴったりと張り付いているせいで、下着の形がくっきりと浮かび上がっていた。


(き……緊急事態だったから、仕方ないんだけど……! でも……!)


 それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 サラが視線を右往左往させていたら、シュウがおもむろに動いた。


 一旦、地面に――綺麗に整備された芝生の上に下ろされたかと思えば、シュウは芝生の上に放っていたマントを取り上げ、それで問答無用にサラの身体をぐるぐる巻きにした。


 そこで、サラ同様、濡れ(ねずみ)になっているシュウが黒い軍服らしき制服に身を包んでいることや、サラが危うく溺れかけたのは湖であること、今、自分たちは湖岸にいることなどに、ようやく気づく。


「シュウ……軍人さんになったの?」


 他にも訊きたいことはたくさんあるはずなのに、咄嗟に出てきた疑問はシュウの今の立場を確かめるものだった。


 シュウは口を開きかけたものの、何かに目を留めた途端、剣呑に双眸を細め、もう一度サラを抱き上げた。


 目を白黒させつつもシュウの視線の先を辿ると、サラの視界には白亜の城を背にこちらへと向かってくる男女の姿があった。


 二人の男性はシュウと同じデザインの軍服を身に着けており、女性に至ってはまるで千年近く昔の時代を思わせるラベンダー色のドレスを身に纏っている。


 より一層、サラを取り巻く状況に疑問が増える中、男性たちはやや距離があるところで足を止め、女性だけがこちらへと近づいてきた。


「ようこそ、空中浮遊都市・ラカージュへ。あなたの帰還を心よりお待ちしておりました――(あや)め姫」


 妖艶さと品の良さを兼ね備えた美貌の持ち主が、サラに友好的に微笑みかけながら告げた言葉に、愕然と目を丸くする。


「……え……」


 現状に、全く理解が追いつかない。これは一体、どういうことなのか。

 とうとう頭が限界を迎えたのか、現実から目を背けるかのように、サラは一度思考を放棄することにした。



    ***


 ――無事、高校を卒業したサラは来月から、小型化と軽量化の限りを尽くされた、翼を生やした卵型の航空機である、飛行カプセルのパイロットを育成するための専門学校への進学が決まっていた。


 成人して高校を卒業したサラは、保護者の許可がなくても、旅客用飛行カプセルを利用した一人での移動が可能になった。


 だから、長期休暇を使えば、パイロットの操縦資格を取得する前でも、幼い頃によく一緒に遊んでいた男の子――シュウと、大人になったらまた会おうという約束を、もうすぐ果たせるかもしれない。


 それに、パイロットになったら、遥か高みに存在し、いくつもの浮島から成り立つ空中浮遊都市――ラカージュにいつか行けるかもしれない。


 世界大戦の負の遺産であり、未だに人類の天敵として存在し続ける生体兵器――アヤカシを先陣を切って(ほふ)り、人類が生きていくための一部の土地を、尊厳を、平穏を取り戻してくれた女性――殺め姫の子孫たちが暮らす、天上の楽園。


 人類にとって憧れの空の世界であり、手が届かない場所を、飛行カプセルのパイロットになれば、何かの折に垣間見ることができるかもしれないのだ。


 夢と未来への期待に胸を膨らませたサラは、友人たちとの卒業旅行中、それはもう大いに浮かれてはしゃいでしまった。


 でも、何日もの間、その調子ではさすがに疲れる。

 だから、遊覧船に乗って湖上から自然豊かな景色を堪能する間は、友人たちから離れて一人でのんびりと過ごしていたのだ。


 だがその結果、いきなり空へと放り出されることになるなんて、それこそ夢にも思わなかった。


(いやー……まさか、こんな形で憧れの地を踏むことになるとは思わなかったよね。うん……)


 サラが凍り付いているうちに、湖を臨む白亜の城――セレスティア城の中へとシュウに抱えられたまま連れ込まれたかと思えば、冷やした身体を温めてこいと、城内の浴室に放り込まれたのだ。


 たっぷりと湯が張ってあるだけではなく、花びらまで浮かべられた猫足のバスタブに浸かり、侍女だかメイドだかわからない女性に爪先から頭のてっぺんまで丁寧に洗われたサラは、すっかり放心状態に陥っていた。


 今は客間のドレッサーの前に腰を下ろし、綺麗に乾かした髪を()かしてもらっているサラは、虚ろな目を鏡に向けた。


 小動物みたいに大きくて丸い瞳に、小さな鼻と唇。どれだけ太陽の光を浴びても、日焼けとは縁遠い、透き通りそうなほど白い肌。


 白いうさぎみたいで可愛らしいと評価される反面、弱々しく舐められやすい印象のサラの顔は、今では覇気まで失われている。


 空色のドレスを着せられ、かなり薄めだとは思うものの、初めて化粧を施され、甲斐甲斐しく飾り立てられた今のサラは、さながら着せ替え人形にでもされた気分だ。


「――何か、お気に召さない点がおありでしょうか?」


 鏡に映る自分の顔をぼんやりと眺めていたら、唐突に頭上からおっとりとした優雅な声が降ってきた。

本日12時に次話更新します

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