第77話 王太子殿下、待っていたと言われたのにすぐ喜べない
誰かを待つことと。
誰かに待たれることは。
似ているようで、少し違います。
待つ側は、自分が待つと決められる。今日は来るかもしれない。来ないかもしれない。それでも、もう少しここにいようと、自分の時間を自分で選ぶことができます。
けれど。
『待っていました』
そう言われる側は、少し難しい。
自分のために、相手の時間が使われたと知るからです。
嬉しい。
たぶん、普通なら。
最初にそう思うのでしょう。
でも、王太子殿下は違います。
待たせた。
時間を奪った。
無理をさせたのではないか。
来なければならないと思わせたのではないか。
嬉しいと思うより先に、そういう心配が全部出てくる。
そして。
せっかく相手が差し出してくれた気持ちを。
心配という形で、少し遠ざけてしまう。
殿下は。
人を大切にしようとして。
時々。
その人が自分で選んだことまで、心配しすぎてしまいます。
だから。
この日の朝。
好きなご令嬢から。
「昨日、お待ちしていたのです」
と。
突然告げられた王太子殿下は。
喜ぶより先に。
「何分だ」
と、お尋ねになりました。
◇
朝の中央回廊は、いつもより少し騒がしかった。
雲の切れ間から差し込んだ淡い日差しが、高い窓を通って白い石床へ長く伸びている。昨夜の湿気がまだ残っているのか、開け放たれた窓から入る風には、濡れた土と若い葉の匂いが混ざっていた。
登校してきた生徒たちが行き交う。
教師へ挨拶をする声。朝の課題について話す声。昨日の研究発表がどうだったとか、購買の新しい菓子が昼まで残るだろうかとか。
そして。
もちろん。
王太子殿下と、例のご令嬢について話す声も。
「昨日も研究棟にいらしたらしいわ」
「今度はお一人で?」
「そう。しかも、殿下の方から二人で話したいって」
「本当に?」
「廊下にいた子が聞いたって」
「でも、毎日会う約束ではないのでしょう?」
「殿下ご本人がそうおっしゃったらしいけれど」
「会いたい日は多い、とも」
「それ、もう十分では?」
聞こえている。
かなり。
聞こえている。
私は教室へ向かいながら、なるべく気にしないように歩いていた。
最近は、噂の一つ一つへ反応していたら、授業開始までに教室へ着けない。
事実と違うところだけ訂正する。
それ以外は、無理に消そうとしない。
殿下と決めた。
決めたのだけれど。
「一生、毎朝迎えに行くと誓われたそうです」
「それは違います」
さすがに口を挟んだ。
話していた女子生徒二人が、驚いて振り返る。
「あ、マリア様」
「おはようございます」
「お、おはようございます」
二人は少し気まずそうに頭を下げた。
「どこから、一生という話になったのですか」
「ええと」
「毎日会いたい、と」
「殿下は毎日会いたいとはおっしゃっていません」
「でも、会いたい日の方が多いと」
「それはおっしゃいました」
二人の顔がぱっと明るくなる。
「では、やはり」
「なぜ明るくなるのですか」
「だって」
一人が声を落とした。
「王太子殿下が、そんなに正直におっしゃるようになるなんて」
私は、少しだけ言葉に詰まった。
そこは。
確かに。
私もそう思う。
「でも、一生ではありません」
「はい」
「毎朝迎えに行くという話もありません」
「はい」
「婚約もしていません」
「はい」
「王宮へご挨拶にも行きません」
「それはまだ聞いていません」
「先に訂正しました」
二人が笑った。
そのとき。
回廊の向こうから、急にざわめきが薄くなる。
生徒たちが自然に道を空けた。
王太子殿下。
いつもの紺色の制服。
後ろには侍従と二人の警護役。
殿下は、こちらを見つける。
そして。
私ではなく。
私の少し先を見て。
足を止めた。
私は、その視線を追った。
そこに。
好きなご令嬢がいた。
研究会の友人らしい女子生徒と二人。
胸元へ数冊の本を抱えている。
ご令嬢も、殿下へ気づいた。
ほんの一瞬。
表情が明るくなる。
その変化はとても小さい。
けれど。
最近。
殿下は。
そういう顔を、以前よりよく見られるようになった。
「おはようございます、王太子殿下」
ご令嬢が頭を下げる。
「ああ。おはよう」
殿下の返事は、もう以前ほど硬くない。
それだけで。
周囲の何人かが、ちらりとこちらを見る。
普通の挨拶です。
本当に。
普通の。
……たぶん。
「昨日は、ありがとうございました」
ご令嬢が言った。
「何がだ」
「お話ししてくださって」
「ああ」
「それから」
一度、少しだけ迷う。
「来てくださって」
殿下の目が、わずかに動いた。
「私が行きたかった」
「はい」
「礼を言われることでは」
そこまで言って。
止まった。
私は何も言わない。
殿下が自分で気づいた。
「……いや」
言い直す。
「そう言ってもらえるのは、嬉しい」
ご令嬢の目が少し大きくなる。
「はい」
「私も。話せてよかった」
周囲。
静か。
静かすぎる。
朝の回廊なのに。
皆、聞いていないふりが上手になっている。
でも。
完全には。
聞いている。
「殿下」
ご令嬢が。
少し恥ずかしそうに、続けた。
「昨日」
「ああ」
「実は。少しだけ、お待ちしていたのです」
殿下が。
完全に止まった。
私も。
周囲も。
たぶん。
一瞬。
止まった。
「待っていた?」
「はい」
「私を?」
「はい」
「どこで」
「研究会で」
「いつから」
ご令嬢が、目を瞬く。
「え?」
「何時から待った」
「殿下?」
「どのくらい」
殿下の声が、急に真剣になる。
「何分だ」
私は。
額へ手を当てたくなった。
ご令嬢も。
少し。
困っている。
「正確には」
「はい」
「待っていたというより」
「違うのか」
殿下の顔が、わずかに落ちる。
「違わないというか」
「どちらだ」
「殿下」
私は、ようやく口を挟んだ。
「何だ」
「お顔を」
「見ている」
「ご令嬢がお困りです」
殿下が、ご令嬢を見る。
本当に。
少し困っていた。
でも。
嫌そうではない。
むしろ。
殿下があまりにも真剣なので、どう説明しようか考えている。
「申し訳ない」
殿下が言う。
「急かした」
「いいえ」
「待たせたなら」
「違います」
ご令嬢は、今度ははっきり言った。
「殿下」
「何だ」
「私は、殿下が来られると約束されたから待っていたのではありません」
「……ああ」
「昨日。お話ししたあと」
一度、本を抱え直す。
「今日も来てくださるかもしれないと」
「はい」
「少しだけ。思っていました」
殿下は。
黙る。
「ですから」
ご令嬢は、少しだけ笑った。
「扉の方を。何度か見ました」
殿下の耳が。
ゆっくり。
赤くなる。
「何度」
「殿下」
「いや」
殿下は止まる。
「回数も。聞かなくてよいな」
「はい」
「分かった」
「でも」
「何だ」
「三回くらいです」
殿下の顔が。
また止まる。
ご令嬢の隣にいた友人が、とうとう口元を手で隠した。
周囲でも。
小さな息を呑む音。
「三回」
殿下が繰り返す。
「はい」
「扉を」
「はい」
「私が来るかと」
「はい」
「見た?」
「はい」
殿下は。
何も言わない。
「殿下?」
「嬉しい」
小さな声。
「かなり」
今度は。
はっきり。
ご令嬢の頬が赤くなる。
「私も」
「何だ」
「来てくださったとき」
「はい」
「かなり。嬉しかったです」
回廊の空気が。
完全に。
変わった。
朝の登校時間。
多くの人がいる。
教師も。
生徒も。
侍従も。
警護も。
なのに。
二人だけが。
少し。
別の場所にいるように見える。
私は。
ここで。
何かを言うべきではないと思った。
殿下も。
ご令嬢も。
互いの顔を見ている。
「だが」
殿下が。
やはり。
少し不安そうに続けた。
「待ったということは」
「はい」
「時間を」
「殿下」
今度は。
ご令嬢が止めた。
「私は。研究をしていました」
「ああ」
「扉だけを見て。一日中座っていたわけではありません」
「……そうか」
「殿下が来られなくても。研究は続けていました」
「ああ」
「来られたら嬉しい」
「はい」
「来られなくても。殿下には殿下の時間がある」
「……はい」
「そう思っていました」
殿下は。
しばらく。
何も言わなかった。
「では」
ゆっくり。
言う。
「待っていたと言われて」
「はい」
「私は。喜んでよい?」
ご令嬢の目が。
少しだけ。
柔らかくなる。
「はい」
「あなたの時間を奪ったと」
「思わなくて大丈夫です」
「無理をさせた?」
「していません」
「本当に?」
「はい」
「なら」
殿下は。
少し。
笑った。
「嬉しい」
「はい」
「かなり」
ご令嬢も。
笑う。
「私もです」
◇
その場にいた人々が。
どういう顔をしていたか。
説明するのは。
少し難しい。
驚いている。
嬉しそう。
気まずそう。
聞いてはいけないと思っている。
でも。
聞きたい。
それらが。
全部。
混ざっていた。
少し離れた柱の近くでは。
二人の男子生徒が。
無言で。
互いの腕を掴んでいる。
声を出すと。
何かを言ってしまうからだろう。
女子生徒たちは。
口元を隠している。
一人の教師は。
途中まで足を止めていたけれど。
自分が見ていることへ気づき。
急に。
掲示板を読み始めた。
そこには。
昨日から。
何も新しいものは貼られていない。
「鐘が」
私は。
遠くから響いた。
予鈴へ。
助けられるように言った。
二人も。
ようやく。
周囲の時間へ戻る。
「授業ですね」
ご令嬢が言う。
「ああ」
「では」
一度。
少しだけ。
迷う。
「また」
殿下の目が。
わずかに動く。
昨日。
また明日。
その言葉を。
約束へ変えそうになった。
ご令嬢も。
少しだけ気づいたらしい。
「また。お話しできたら」
言い直した。
殿下は。
それを。
すぐに約束へしなかった。
「ああ」
少し。
待ってから。
「私も。話したい」
それだけ。
「では」
ご令嬢が。
笑う。
「また」
「ああ」
「また」
二人は。
それぞれの教室へ。
向かう。
ご令嬢が。
数歩進んでから。
一度だけ。
振り返った。
殿下も。
まだ。
見ていた。
目が合う。
ご令嬢が。
少しだけ。
笑う。
殿下も。
ほんの少し。
口元を緩めた。
そして。
ようやく。
反対方向へ。
歩き始めた。
「殿下」
「何だ」
私が。
横へ並ぶ。
「よかったですね」
「ああ」
「待っていたそうです」
「ああ」
「三回」
「言うな」
「扉を」
「言うな」
「かなり嬉しい?」
「……かなり」
「はい」
「だが」
「はい」
「喜ぶまで。時間がかかった」
「そうですね」
「また。心配した」
「はい」
「彼女が。自分で待つと決めたのに」
「はい」
「それを。私は」
一度。
少し。
苦い顔になる。
「待たせたと。変えかけた」
「はい」
「難しい」
「でも。気づけました」
「ああ」
「ご令嬢が。教えてくださいました」
「ああ」
「殿下」
「何だ」
「前より。二人で解決していますね」
殿下が。
歩きながら。
少しだけ。
私を見る。
「お前が。ほとんど何も言わなかった」
「はい」
「珍しい」
「失礼ですね」
「事実だ」
「でも」
「何だ」
「少し。嬉しいです」
「また。寂しい?」
今度は。
殿下が。
先に尋ねた。
私は。
少し。
目を見開いた。
「覚えていたのですね」
「ああ」
「少しだけ」
「はい」
「でも。嬉しい?」
「それ以上に」
殿下が。
うなずく。
「そうか」
それだけ。
言った。
相談役と。
相談する人。
その関係も。
少しずつ。
形を変えている。
でも。
なくなるのではない。
たぶん。
別のものへ。
変わっていく。
◇
当然。
その日の一時限目が終わる頃には。
新しい噂が。
広がっていました。
王太子殿下が。
ご令嬢から。
『昨日はずっとお待ちしていました』
と。
告げられた。
殿下は。
『私もあなたを一晩中思っていた』
と。
返した。
さらに。
二人は。
毎朝。
同じ回廊で。
必ず会う約束をした。
もちろん。
違います。
かなり。
違います。
「一晩中は。思っていない」
昼休み。
校舎裏のベンチ。
殿下は。
本気で。
困っていた。
「では。どのくらい?」
「何が」
「ご令嬢のことを」
「……」
「殿下」
「寝る前には」
「はい」
「少し」
「はい」
「考えた」
「何を?」
「また明日は。約束か」
「それですね」
「ああ」
「では。一晩中ではない」
「当然だ」
「眠れました?」
「……」
「殿下」
「少し」
「はい」
「途中で。起きた」
「なぜ?」
「また明日は。場所を決めていないと思って」
私は。
しばらく。
何も言えなかった。
「それは」
「何だ」
「かなり考えています」
「一晩中ではない」
「途中で起きるくらい」
「……」
「殿下」
「噂を肯定するな」
「肯定していません」
「顔が」
「少しだけ」
「やめろ」
殿下は。
昼食の包みを。
開く。
今日の食事は。
平たいパン。
豆の煮込み。
薄い肉。
そして。
小さな黄色い果実。
「これは?」
私が尋ねる。
「知らない」
「殿下」
「名前が出てこないだけだ」
「昨日と」
「言うな」
「侍従の方」
私は。
少し離れた場所へ。
視線を向ける。
侍従が。
静かに答えた。
「黄桃でございます」
「知っていた」
殿下が言う。
「はい」
「今。思い出した」
「はい」
「本当だ」
「はい」
「信用していないな」
「しています」
「顔が」
「殿下」
「何だ」
「ご令嬢は。黄桃がお好きでしょうか」
殿下の手が。
止まる。
「……知らない」
「聞きます?」
「ああ」
早い。
「今度」
「はい」
「話したとき」
「はい」
「普通の話として」
「はい」
「聞く」
「よいと思います」
「理由は作らない」
「はい」
「差し入れのためではない」
「はい」
「ただ」
一度。
黄桃を見る。
「好きか。知りたい」
「はい」
殿下は。
少しだけ。
笑った。
「昨日より」
「何です?」
「普通だ」
「そうですね」
「私は」
「はい」
「王太子として。彼女を知る必要はない」
「はい」
「婚約候補として。調べているわけでもない」
「はい」
「研究のためでもない」
「はい」
「だが。好きな食べ物は。知りたい」
「はい」
「それで」
一度。
言葉を探す。
「少し。嬉しくなる」
「何が?」
「次に。話すことがある」
私は。
その言葉に。
少しだけ。
胸が温かくなった。
「殿下」
「何だ」
「それが普通のお話ですよ」
「ああ」
「ご令嬢も。きっと」
殿下が。
私を見る。
「先を決めるな」
私は。
止まった。
「……はい」
「彼女が。話したいかは。彼女が決める」
「はい」
「好きな食べ物を。話したいかも」
「はい」
「私が。聞く」
「はい」
「彼女が。答える」
「はい」
「嫌なら」
「答えなくてもよい」
「ああ」
私は。
少し。
笑った。
「何だ」
「いいえ」
「また。顔が」
「殿下」
「何だ」
「私より先に。ご自分で言えるようになりましたね」
「……」
「成長しました」
「褒めるな」
「受け取る練習です」
「今日は」
殿下は。
少しだけ。
考える。
「待たれた気持ちを。受け取る練習だ」
「練習名が長くなりましたね」
「お前が増やすからだ」
「殿下が増えています」
「半分だ」
「では。半分ずつ」
「今日は。それでよい」
珍しい。
殿下が。
認めた。
◇
昼食を。
半分ほど。
食べた頃。
殿下が。
急に。
「マリア」
と。
私を呼んだ。
「はい」
「待っていたと言われるのは」
「はい」
「普通は。嬉しい?」
「人によると思います」
「そうか」
「でも。会いたい方なら」
「はい」
「嬉しい方が多いのでは?」
「そうか」
「殿下は?」
「嬉しかった」
「はい」
「だが」
一度。
パンを。
皿へ戻す。
「怖かった」
「何がです?」
「彼女が。私を待つことで」
「はい」
「他のことを。できなくなるのではと」
「はい」
「私が来ると思って。帰れないとか」
「はい」
「研究を止めるとか」
「はい」
「友人と。話せないとか」
「はい」
「そういうのは」
殿下の声が。
少し。
低くなる。
「嫌だ」
「はい」
「私を待ってほしい」
「……はい」
「だが」
「はい」
「待たなくてもよい」
私は。
すぐには。
何も言わなかった。
「矛盾している?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
「私は」
殿下が。
言葉を探す。
「私を待ってくれることは。嬉しい」
「はい」
「でも」
「はい」
「私のために。彼女が自分の時間を。全部止めるのは嫌だ」
「はい」
「来るかもしれない」
「はい」
「来たら嬉しい」
「はい」
「来なかったら」
「はい」
「今日は来なかったと」
一度。
苦笑する。
「少し寂しくなるくらいでよい」
「はい」
「そういう」
殿下が。
眉を寄せる。
「待ち方があるのか」
「あると思います」
「昨日の。彼女みたいに?」
「研究をしながら。時々扉を見る」
「ああ」
「三回」
「言うな」
「嬉しいのでしょう?」
「かなり」
「はい」
「だから言うな」
「なぜですか」
「顔が熱くなる」
「正直ですね」
「もう隠しても。お前は言う」
「はい」
「諦めた」
「よい諦めです」
「褒めるな」
殿下は。
少し。
ため息をついた。
「では」
「はい」
「私も」
「はい」
「待つなら」
一度。
考える。
「自分のことをしながら待つ」
「はい」
「彼女が来るかもしれないと」
「はい」
「少しだけ。期待して」
「はい」
「来なかったら」
「はい」
「また別の日」
「はい」
「それでよい」
「はい」
「……」
「殿下」
「何だ」
「本当に成長しましたね」
「だから」
「受け取る練習です」
「今日は多い」
「よいことなので」
「褒めすぎると。疑う」
「どうしてですか」
「お前は。何か企んでいる」
「失礼です」
「事実だ」
「何も企んでいません」
「本当に?」
「はい」
「信用」
「してください」
「……努力する」
「まだですね」
「そこは。急がない」
「便利に使い始めましたね」
殿下は。
少しだけ。
笑った。
◇
放課後。
殿下は。
研究会へ。
行きませんでした。
少なくとも。
すぐには。
行きませんでした。
授業が終わり。
生徒たちが。
教室から。
次々に。
廊下へ出る。
部活動。
図書館。
寮。
研究会。
それぞれの場所へ。
人の流れが。
分かれていく。
私は。
校舎裏のベンチへ。
向かいました。
殿下が来るかどうかは。
分かりません。
約束は。
していない。
でも。
私は。
なんとなく。
今日は。
ここに座りたかった。
古いベンチ。
木の表面。
夕方の。
少し冷たい風。
遠く。
運動部の掛け声。
私は。
本を開く。
少し。
読む。
殿下は。
来ない。
また。
一頁。
読む。
来ない。
でも。
私は。
待っているわけでは。
……たぶん。
少し。
待っていました。
自分のことを。
しながら。
時々。
校舎の角を見る。
一回。
二回。
三回。
「……」
三回目。
自分で。
少し笑った。
ご令嬢と。
同じ。
「マリア」
声。
私は。
顔を上げた。
殿下。
「殿下」
「ああ」
「来られたのですね」
「何だ。その言い方は」
「いいえ」
「待っていた?」
私は。
少し。
止まった。
「……少し」
殿下の目が。
少しだけ。
大きくなる。
「何回見た」
「何をです?」
「角を」
「殿下」
「聞いた」
「数えていません」
「本当に?」
「三回です」
殿下の口元が。
少し。
緩む。
「同じだな」
「何が?」
「彼女と」
「言わないでください」
「なぜ」
「少し恥ずかしいです」
「私は。朝。言われた」
「はい」
「なら。お前も」
「公平ですか」
「そうだ」
「殿下」
「何だ」
「使い方が違います」
「便利だ」
「完全に覚えましたね」
殿下は。
私の隣へ。
座る。
いつもの距離。
少し。
間。
「今日は」
私が尋ねる。
「研究会へ行かれないのですか」
「まだ決めていない」
「はい」
「会いたい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「だが」
一度。
研究棟の方角を見る。
「今日は。彼女が来るかもしれないとも思っている」
「ここへ?」
「ああ」
「昨日。来られましたからね」
「ああ」
「待ちます?」
「少し」
「どのくらい?」
殿下が。
私を見る。
「時間を決めさせるのか」
「聞いただけです」
「決めない」
「はい」
「私は」
殿下は。
少し。
ベンチの背へ。
体を預ける。
「ここで。お前と話す」
「はい」
「彼女が来たら」
「はい」
「嬉しい」
「はい」
「来なければ」
「はい」
「あとで。会いたければ。研究会へ行くか考える」
「はい」
「それでよい?」
「私に聞くのですか」
「……」
「殿下」
「自分で決める」
「はい」
「それでよい」
「はい」
私は。
少し。
笑った。
「何だ」
「いいえ」
「顔が」
「嬉しいです」
「また?」
「はい」
「お前は。最近。よく嬉しいな」
「殿下が前より。少しだけ安心できるので」
「私は。前は。そんなに危なかったか」
「かなり」
「お前も。彼女も。そればかりだな」
「事実です」
「……そうかもしれない」
殿下は。
以前なら。
絶対に。
認めなかったでしょう。
◇
私たちは。
しばらく。
普通の話をしました。
授業。
昼食。
今日。
教師が。
黒板の文字を。
一つ。
間違えたこと。
殿下が。
それを。
授業中に指摘しようとして。
隣の生徒に。
止められたこと。
「なぜ止められたのです?」
「教師が。自分で気づいたからだ」
「殿下は?」
「手を上げる直前だった」
「止まれました?」
「ああ」
「よくできました」
「子ども扱いするな」
「以前なら」
「分かっている」
「すぐ」
「言わなくてよい」
「はい」
そんな。
何でもない話。
途中。
殿下は。
二回。
校舎の角を見ました。
私は。
気づいたけれど。
言いませんでした。
三回目。
殿下が。
また。
見る。
でも。
誰も。
来ない。
「殿下」
「何だ」
「会いに行きます?」
殿下は。
すぐには。
答えなかった。
「……まだ」
「はい」
「もう少し。ここにいる」
「なぜ?」
「お前と。話しているから」
私は。
少し。
驚いた。
殿下も。
私を見る。
「何だ」
「いいえ」
「顔が」
「殿下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「なぜ」
「ご令嬢を待っているから。私との時間がつなぎではないと」
「当然だろう」
「以前なら」
「私は。そこまで酷くない」
「……たぶん」
「マリア」
「はい」
「今の間は何だ」
「何でもありません」
「信用できない」
「でも」
「何だ」
「嬉しいです」
殿下は。
少し。
不満そう。
でも。
そのあと。
「私も」
と。
言った。
「何がです?」
「ここで。お前と話すのは」
一度。
少し。
照れたように。
視線を逸らす。
「落ち着く」
私は。
今度こそ。
何も言えなかった。
「何だ」
「いいえ」
「また泣くな」
「泣いていません」
「目が」
「風です」
「今日は」
「殿下」
「何だ」
「そこは。友人として」
「ああ」
「気づかないふりを」
「……努力する」
「ありがとうございます」
そのとき。
足音。
校舎の角。
二人。
生徒。
一人は。
研究会の男子生徒。
もう一人。
好きなご令嬢ではない。
殿下の目が。
一瞬。
そこへ向く。
でも。
すぐに戻る。
「残念?」
私は。
思わず。
聞いた。
「少し」
「はい」
「だが」
「はい」
「今の人たちが悪いわけではない」
「はい」
「顔に出さないように」
「少し出ていました」
「……難しいな」
二人の生徒が。
こちらに気づく。
慌てて。
頭を下げる。
「ご機嫌麗しく存じます、王太子殿下」
「ああ」
研究会の男子生徒。
以前から。
何度も。
同じ部屋で。
殿下と話している。
代表の生徒だった。
「殿下」
「何だ」
「本日は。研究会へ」
一度。
少し。
言いづらそうに。
止まる。
「いらっしゃいますか」
殿下の表情が。
少しだけ。
動く。
「なぜ」
「いえ」
「彼女が」
殿下が。
止まる。
代表の男子生徒も。
止まった。
私は。
黙る。
「彼女が。何か言った?」
「い、いえ」
「本当に?」
「はい」
「では」
「その」
男子生徒が。
少しだけ。
困ったように笑う。
「今日は。何度か。扉を見ていましたので」
殿下が。
完全に。
動きを止めた。
私は。
息を。
少しだけ。
止めた。
「誰が」
「……」
「彼女が?」
「はい」
殿下の顔が。
変わる。
嬉しい。
でも。
すぐに。
朝のことを思い出したのか。
不安。
「何回」
私が。
「殿下」
と。
呼ぶ。
殿下が止まる。
「……聞かない」
「はい」
代表の男子生徒が。
少し笑う。
「四回です」
「なぜ言う!」
殿下の声が。
庭へ。
響いた。
男子生徒が。
一歩。
引く。
「申し訳ございません」
「いや」
殿下が。
すぐに。
言い直す。
「怒ってはいない」
「はい」
「ただ」
一度。
顔を。
少し。
赤くする。
「聞くつもりはなかった」
「はい」
「だが」
「はい」
「……四回か」
男子生徒の。
口元が。
完全に。
緩む。
「殿下」
「何だ」
「嬉しいですか」
「お前まで聞くな」
「申し訳ございません」
「笑うな」
「笑っておりません」
「笑っている」
以前なら。
研究会員が。
王太子殿下を。
こんなふうに。
少しだけ。
からかうなど。
考えられなかった。
でも。
今は。
殿下も。
本気では。
怒っていない。
「それで」
殿下が。
少し。
姿勢を正す。
「研究会は。今」
「測定は終わりました」
「本当に?」
「はい」
「彼女は」
「記録をまとめています」
「忙しい?」
「あと少しだと思います」
「……」
殿下が。
考える。
私は。
何も言わない。
「行く」
殿下が。
自分で。
決めた。
「はい」
「会いたい」
「はい」
「待っていたかもしれない」
「はい」
「だが」
「はい」
「それだけを理由に。急がない」
「はい」
「彼女の作業が終わるまで」
「はい」
「待つ」
「はい」
「ここで?」
男子生徒が。
尋ねる。
殿下は。
少し考え。
「いや」
「はい」
「研究会へ行く」
「はい」
「でも」
一度。
私を見る。
「マリア」
「はい」
「お前との話も。途中だ」
私は。
少し。
驚く。
「続きが?」
「ああ」
「何の?」
「教師の板書を止められた話だ」
「それですか」
「まだ。お前が。なぜ笑ったか聞いていない」
「必要です?」
「ああ」
「では」
私は。
立ち上がる。
「研究棟まで。歩きながら?」
「それでよい」
殿下は。
代表の男子生徒を見る。
「一緒に行く」
「はい」
私たちは。
三人。
研究棟へ。
向かいました。
殿下は。
急がなかった。
会いたい。
でも。
走らない。
待っていたかもしれない。
でも。
自分だけの時間ではない。
そのことを。
少しずつ。
覚えている。
◇
研究会の部屋。
扉の前。
今日は。
殿下が。
すぐには。
叩かなかった。
中から。
紙をめくる音。
小さな話し声。
「あと一つ」
「ここの数値」
「昨日と違う」
「記録して」
まだ。
作業中。
「待つ」
殿下が。
小さく言う。
「はい」
私。
代表の男子生徒。
三人。
廊下。
そのまま。
待つ。
「中へ入って。待たれますか」
男子生徒が尋ねる。
「いや」
「なぜです?」
「私が入れば。止まる」
「……はい」
「だから。区切りまで」
「分かりました」
殿下は。
壁際へ。
少し寄る。
廊下を。
他の生徒たちが。
通る。
王太子殿下が。
研究会の前で。
静かに待っている。
当然。
見る。
また。
噂になる。
「殿下が待ってる」
「何を?」
「彼女を?」
「研究の終わり?」
「毎日?」
小声。
殿下にも。
聞こえる。
「殿下」
私が。
少しだけ。
呼ぶ。
「何だ」
「大丈夫です?」
「ああ」
「噂」
「事実と違えば」
「訂正する」
「ああ」
「では」
「私は」
一度。
扉を見る。
「彼女の研究が終わるのを。待っている」
「はい」
「話したいから」
「はい」
「それは。事実だ」
「はい」
「隠さない」
私は。
小さく。
うなずいた。
「よいと思います」
「褒めるな」
「受け取る」
「……」
「殿下」
「今日は。受け取る」
「はい」
「だが。少しだけ」
「十分です」
「勝手に決めるな」
少し。
二人で。
笑う。
そのとき。
扉の中。
声が。
止まった。
「終わり?」
「はい」
「では」
足音。
扉が。
内側から。
開いた。
ご令嬢。
手には。
記録用紙。
扉の前に。
殿下。
私。
研究会代表。
ご令嬢の目が。
大きくなる。
「殿下」
「ああ」
「いつから」
「……」
殿下が。
私を見る。
私は。
何も言わない。
「何分ですか」
ご令嬢が。
少し。
笑う。
朝の。
仕返し。
殿下も。
気づいた。
「分からない」
「本当に?」
「ああ」
「聞きませんでした?」
「……聞いていない」
「侍従の方へ?」
「今日は。いない」
殿下の侍従と警護役は。
少し離れた場所。
ご令嬢が。
さらに。
笑う。
「では」
「ああ」
「待っていてくださったのですか」
殿下が。
ご令嬢を見る。
朝。
待っていました。
そう。
言われた。
今。
同じ。
「待っていた」
殿下が。
素直に言う。
ご令嬢の表情が。
少し。
柔らかくなる。
「私を?」
「ああ」
「研究が終わるまで?」
「ああ」
「なぜ」
「話したかった」
すぐに。
答えた。
ご令嬢の頬が。
少し。
赤くなる。
でも。
殿下は。
そこで。
終わらなかった。
「だが」
「はい」
「待たせたと。思う必要はない」
ご令嬢が。
目を瞬く。
「何ですか」
「今朝。あなたが言った」
「はい」
「自分で待っていたと」
「はい」
「だから」
一度。
少し。
照れたように。
視線を逸らす。
「私も。自分で待った」
「はい」
「あなたが。私に。待ってほしいと言ったわけではない」
「はい」
「私が。話したかったから」
「はい」
「待った」
ご令嬢の目が。
ゆっくり。
揺れる。
「だから」
殿下が。
続ける。
「礼を言われたら。嬉しいが」
「はい」
「申し訳なくは。思わないでほしい」
ご令嬢は。
しばらく。
何も。
言わなかった。
それから。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「無理に?」
「いいえ」
「なら」
殿下が。
少し。
笑う。
「よい」
ご令嬢も。
笑った。
「では」
「何だ」
「待っていてくださって。ありがとうございます」
殿下が。
止まる。
でも。
今度は。
礼を。
否定しない。
「……ああ」
一度。
息を吸う。
「どういたしまして」
私は。
少し。
驚いた。
ご令嬢も。
驚いた。
研究会代表は。
口を。
少し開けたまま。
固まっている。
「何だ」
殿下が。
周囲を見る。
「いえ」
「今」
私は。
つい。
言う。
「どういたしまして、と」
「言った」
「自然に」
「何が悪い」
「悪くありません」
「なら。なぜ見る」
「少し。感動しています」
「大げさだ」
「殿下」
ご令嬢が。
少し。
笑う。
「私もです」
「あなたまで?」
「はい」
「なぜ」
「殿下が」
一度。
少し。
恥ずかしそうに。
「待ってくださったことを」
「はい」
「そのまま。嬉しいと思えたので」
殿下が。
黙る。
「私も」
ご令嬢が。
続ける。
「今朝。待っていたと申し上げて」
「はい」
「殿下に喜んでいただけたことが」
「はい」
「嬉しかったです」
「……そうか」
「はい」
「なら」
一度。
小さく。
笑う。
「お互いに」
「はい」
「待って。嬉しかった」
「はい」
その言葉が。
とても。
静かに。
二人の間へ。
落ちました。
◇
「ところで」
研究会代表の男子生徒が。
少し。
申し訳なさそうに。
口を開いた。
「殿下」
「何だ」
「廊下で」
「はい」
「このまま。お話しされますか」
周囲。
見れば。
人。
増えている。
かなり。
増えている。
遠く。
階段。
窓際。
壁の掲示。
見ていないふり。
でも。
全員。
見ている。
殿下が。
静かに。
息を吐く。
「今日は」
「はい」
ご令嬢を見る。
「どこで話す」
「私に?」
「ああ」
「殿下がお決めにならないのですか」
「一緒に決める」
ご令嬢の目が。
少しだけ。
大きくなる。
私は。
その言葉へ。
気づいた。
公平。
特別。
時間。
会う。
待つ。
殿下は。
以前。
全部。
一人で。
決めていた。
ご令嬢を守る。
だから離れる。
公平にする。
だから特別ではないふりをする。
今は。
聞く。
「研究会でもよい」
殿下が言う。
「小庭でも」
「はい」
「校舎裏でも」
ご令嬢が。
少し。
笑う。
「マリア様は?」
私を見る。
「私は」
「はい」
「今日は。お二人でよいのでは?」
殿下が。
私を見る。
「本当に?」
「はい」
「お前は」
「今日は。相談があります?」
「……」
殿下が。
少し。
考える。
「今は」
「はい」
「ない」
「では」
「だが」
「はい」
「あとで。少し話す」
「もちろんです」
「友人として」
私は。
少し。
目を見開く。
「はい」
「なら」
「はい」
「今日は」
殿下は。
ご令嬢を見る。
「二人で。小庭へ行く?」
ご令嬢の頬が。
少し。
赤くなる。
「はい」
「嫌では」
殿下が。
言いかける。
止まる。
「嫌なら。断る」
「はい」
「では」
ご令嬢が。
少しだけ。
笑う。
「行きたいです」
「分かった」
二人は。
並んで。
小庭へ。
向かう。
私は。
その場に。
残る。
研究会代表も。
残る。
少し。
沈黙。
彼が。
私を見る。
「マリア様」
「はい」
「殿下」
「はい」
「かなり」
「はい」
「変わられましたね」
私は。
少し。
笑った。
「かなり」
「以前は」
「はい」
「殿下が研究会へ来られると」
「はい」
「全員。何を言えばよいか」
「分からなかった?」
「はい」
「今は?」
男子生徒は。
少しだけ。
考える。
「何を言うかは。まだ考えます」
「はい」
「でも」
「はい」
「間違えても。殿下が聞いてくださると」
「少しは?」
「はい」
「思えるようになりました」
「そうですか」
「それに」
「何です?」
男子生徒が。
小庭へ向かう。
二人の背を見る。
「殿下が」
「はい」
「普通に。楽しそうです」
私は。
同じ方向を見る。
殿下。
ご令嬢。
二人。
少しだけ。
距離。
でも。
以前より。
近い。
「そうですね」
「恋って」
「はい?」
「王太子殿下も。普通にするのですね」
「どういう意味ですか」
「待ったり」
「はい」
「会いたかったり」
「はい」
「不安になったり」
「はい」
「何を話すか分からなくなったり」
「はい」
「私たちと。変わらない」
私は。
少し。
考えた。
「殿下も」
「はい」
「一人の人ですから」
「そうですね」
男子生徒が。
小さく。
うなずいた。
◇
研究棟裏の小庭。
二人。
石卓。
向かい合う。
今日は。
質問の続きではありませんでした。
少なくとも。
最初は。
「殿下」
「何だ」
「今日のお昼は?」
ご令嬢が。
尋ねる。
「また食事か」
「普通のお話です」
「そうだった」
「何を?」
「パン」
「はい」
「豆」
「はい」
「肉」
「はい」
「黄桃」
「お好きですか」
殿下が。
止まる。
「普通」
「普通?」
「あまり。考えたことがない」
「では。好きでも嫌いでも」
「ないと思う」
「はい」
「あなたは」
「何です?」
「黄桃は好き?」
ご令嬢の目が。
少し。
大きくなる。
「なぜ」
「知りたい」
殿下は。
それだけ。
言った。
理由を。
作らない。
「好きです」
ご令嬢が。
答える。
殿下の表情が。
少し。
明るくなる。
「本当に?」
「はい」
「かなり?」
ご令嬢が。
笑う。
「かなり」
「そうか」
「殿下」
「何だ」
「嬉しそうです」
「嬉しい」
「なぜ?」
殿下が。
止まる。
「……」
「殿下?」
「次に」
「はい」
「何か」
一度。
言葉を選ぶ。
「一緒に食べる機会があれば」
ご令嬢の頬が。
少し。
赤くなる。
「はい」
「選べる」
「黄桃を?」
「ああ」
「私のために?」
殿下が。
固まる。
「いや」
言いかける。
止まる。
ご令嬢が。
待つ。
「……あなたが好きなら」
「はい」
「選びたい」
「それは」
「はい」
「特別扱いですか」
殿下が。
少し。
困る。
以前。
公平について。
何度も。
話した。
「一緒に食べるなら」
「はい」
「相手の好きなものを」
「はい」
「選ぶことは」
一度。
考える。
「普通だと思う」
「はい」
「だが」
「はい」
「あなたが喜ぶと」
「はい」
「私も嬉しいと思う」
ご令嬢の目が。
少しずつ。
柔らかくなる。
「なら」
「何だ」
「いつか」
少し。
恥ずかしそうに。
「一緒に。食べたいです」
殿下の動きが。
止まる。
「黄桃を?」
「黄桃でも」
「はい」
「お菓子でも」
「……」
「最初は」
ご令嬢が。
少し。
笑う。
「研究会の皆さんと?」
殿下が。
顔を赤くする。
「覚えているのか」
「はい」
「忘れてよい」
「難しいです」
「マリアと同じ」
「少しだけ」
「では」
殿下が。
長く。
迷う。
「最初は。皆と」
「はい」
「その次は」
止まる。
ご令嬢も。
待つ。
「二人でも」
小さな声。
「よい」
ご令嬢の頬が。
はっきり。
赤くなる。
「はい」
「ただし」
殿下が。
慌てて。
続ける。
「いつかだ」
「はい」
「約束では」
「ありません」
「……」
ご令嬢が。
笑った。
「また。約束にしそうでしたね」
「ああ」
「では」
「何だ」
「いつか。そうなったら嬉しいですね」
殿下は。
少し。
考える。
「それがよい」
「はい」
「私も」
「はい」
「嬉しいと思う」
約束ではない。
でも。
願い。
それくらいの。
未来。
◇
「殿下」
少し。
時間が過ぎた頃。
ご令嬢が。
急に。
真面目な顔になる。
「何だ」
「残り二つの質問」
殿下の背が。
少し。
固くなる。
「今日?」
「いいえ」
殿下の肩から。
分かりやすく。
力が抜ける。
ご令嬢が。
笑った。
「安心しました?」
「少し」
「かなり?」
「かなり」
「殿下」
「何だ」
「質問をされるのが。嫌ですか」
「嫌ではない」
「では」
「怖い」
殿下は。
正直に。
言った。
「何を聞かれるか」
「はい」
「何と答えるか」
「はい」
「あなたが」
一度。
少し。
視線を落とす。
「傷つくかもしれない」
「はい」
「それが怖い」
ご令嬢は。
静かに。
聞いている。
「でも」
「何だ」
「私は」
一度。
石卓の上。
指先を。
重ねる。
「殿下のお答えで。少し傷つくことがあっても」
「……」
「聞きたいです」
殿下の表情が。
少し。
強張る。
「なぜ」
「本当のことを。知りたいからです」
「私が。まだ分からないことも」
「分からないと。おっしゃってください」
「期待と違っても」
「はい」
「あなたが。寂しくても」
「はい」
「聞きたい?」
「はい」
殿下は。
長く。
黙る。
「あなたは」
「はい」
「強いな」
「そうでしょうか」
「ああ」
「殿下も」
「私は」
「怖いと。言えています」
「それが強い?」
「私は。そう思います」
殿下は。
何も言わない。
「殿下」
「何だ」
「質問は」
「はい」
「殿下を試すためではありません」
「……」
「正しい答えを求めているわけでも」
「はい」
「私が知りたいことを」
「はい」
「殿下が。今どう思っているか」
「はい」
「聞きたいだけです」
殿下は。
静かに。
息を吐いた。
「分かった」
「はい」
「怖いが」
「はい」
「逃げない」
「はい」
「いつ聞く?」
ご令嬢が。
少し笑う。
「殿下」
「……」
「今のは?」
「忘れろ」
「難しいです」
「では」
「はい」
「聞きたいときに」
「はい」
「聞いてほしい」
ご令嬢の目が。
少し。
柔らかくなる。
「分かりました」
「はい」
「私は」
「はい」
「待つ」
「はい」
今度は。
本当に。
少しずつ。
待てるようになっている。
◇
二人が。
小庭から。
戻った頃。
私は。
研究棟の入口近くで。
殿下を。
待っていました。
待つと。
約束は。
していません。
でも。
殿下が。
あとで話すと。
言ったから。
私は。
自分で。
待った。
近くの窓から。
夕方の光。
床へ。
長い影。
研究会員たちの。
話し声。
廊下を。
通る生徒。
私は。
本を。
読んでいる。
時々。
階段を見る。
一回。
二回。
……やめました。
数えると。
また。
殿下に。
言われる。
「マリア」
声。
顔を上げる。
殿下。
その少し後ろ。
ご令嬢。
「終わりました?」
「ああ」
殿下が。
私を見る。
「待っていた?」
「はい」
「何分」
「殿下」
「……聞かない」
「成長しましたね」
「だが」
「はい」
「何回見た」
「同じです」
「違う」
「違いません」
ご令嬢が。
少し笑う。
「マリア様も?」
「何がです?」
「待つと」
「少しだけ」
「扉を?」
「階段を」
「何回?」
「ご令嬢」
「すみません」
ご令嬢が。
笑う。
殿下も。
少し。
笑った。
「では」
ご令嬢が。
私へ。
頭を下げる。
「私は。研究会へ戻ります」
「はい」
「マリア様」
「はい」
「殿下を」
一度。
言いかける。
止まる。
「何です?」
「いえ」
ご令嬢が。
殿下を見る。
少しだけ。
恥ずかしそうに。
「また。明日」
殿下が。
止まる。
でも。
今度は。
約束か。
何時か。
どこか。
聞かない。
「ああ」
一度。
少し。
笑う。
「また。明日」
ご令嬢が。
研究会へ戻る。
その背を。
殿下は。
少しだけ。
見送る。
「殿下」
「何だ」
「今」
「分かっている」
「はい」
「約束には」
「しない」
「はい」
「でも」
殿下の口元が。
少し。
緩む。
「会えたら嬉しい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「それでよい」
「はい」
「……」
「殿下」
「何だ」
「少し。寂しい?」
「もう?」
「ご令嬢が戻られて」
殿下は。
研究会の扉を見る。
「少し」
「はい」
「だが」
「はい」
「今日は。話した」
「はい」
「また。会いたい」
「はい」
「それで」
一度。
息を吐く。
「十分だ」
私は。
その言葉を。
静かに。
受け取りました。
◇
翌朝。
当然。
噂は。
さらに。
増えていました。
王太子殿下は。
ご令嬢を。
研究会の前で。
ずっと待っていた。
ご令嬢も。
朝から。
殿下を待っていた。
二人は。
『お互いに待ち続ける』
と。
永遠の約束を交わした。
さらに。
黄桃を。
二人で。
毎年食べることを。
婚約の代わりの誓いにした。
……。
「何だ。それは」
朝。
校舎裏。
殿下は。
本気で。
理解できないという顔をしていました。
「私も分かりません」
「なぜ。黄桃が。婚約になる」
「お二人で食べたいという話から」
「まだ食べていない」
「はい」
「約束もしていない」
「はい」
「いつかと言った」
「はい」
「なぜ。毎年になる」
「噂です」
「便利な言葉だな」
「はい」
「それから」
「何です?」
「永遠に待つとは」
「言っていません」
「私は」
「はい」
「永遠には待てない」
「そうなのですか」
「寿命がある」
「殿下」
「事実だ」
「そういう話ではありません」
「では。どのくらい」
「決めません」
「……」
「殿下」
「今」
「はい」
「また。時間を決めようとした」
「はい」
「危なかった」
「ご自分で気づけました」
「褒める?」
「はい」
「今日は」
一度。
少し考える。
「受け取る」
「はい」
「かなり?」
「そこは私が聞くのですか」
「マリアがいつも聞く」
「では。かなり」
「……そうか」
殿下は。
少しだけ。
満足そうだった。
「殿下」
「何だ」
「今日は。どうします?」
「何を」
「ご令嬢と」
殿下は。
少し。
考える。
「分からない」
「はい」
「会いたい」
「はい」
「だが」
「はい」
「彼女も。会いたいかは」
「ご令嬢が決める」
「ああ」
「では」
「今日は」
一度。
朝の空を見る。
「自分のことをする」
「はい」
「授業」
「はい」
「昼食」
「はい」
「公務の勉強」
「はい」
「その中で」
「はい」
「会えたら」
少し。
笑う。
「嬉しい」
「はい」
「会えなければ」
「はい」
「また」
一度。
言葉を。
選ぶ。
「次に会える日を。待つ」
「はい」
「でも」
「はい」
「待っている間も」
「はい」
「自分の時間だ」
私は。
殿下を見た。
「殿下」
「何だ」
「それ」
「はい」
「ご令嬢にも。いつかお伝えしてはいかがですか」
「なぜ」
「とてもよい言葉だからです」
「今。言う必要はない」
「はい」
「言いたくなったら」
「はい」
「言う」
「はい」
殿下は。
もう。
何もかも。
今日。
伝えようとは。
しませんでした。
大切なことでも。
いつか。
言いたくなったとき。
相手が。
聞けるとき。
そのときで。
よい。
それも。
待つこと。
なのかもしれません。
◇
誰かに。
待っていました。
と。
言われること。
それは。
相手の時間を。
奪ったという意味では。
ありません。
少なくとも。
いつも。
そうではありません。
会いたい人を。
少しだけ。
思い浮かべる。
来るかもしれないと。
扉を見る。
一回。
二回。
三回。
そのあいだに。
自分のこともする。
研究。
勉強。
仕事。
友人との会話。
そして。
来たら。
嬉しい。
来なくても。
その日が。
全部無駄になるわけではない。
王太子殿下は。
ようやく。
そういう。
待ち方を。
少しずつ。
覚え始めました。
そして。
誰かに。
待ってもらうことも。
少しずつ。
受け取れるようになっています。
申し訳ない。
時間を奪った。
無理をさせた。
そう。
すぐに。
自分を責めるのではなく。
待っていてくれた。
嬉しい。
と。
思うこと。
それは。
殿下にとって。
思っていた以上に。
難しいことでした。
でも。
今日。
ご令嬢は。
殿下を待っていた。
殿下も。
ご令嬢を待った。
二人とも。
相手から。
待てと。
命令されたわけではありません。
約束でもない。
ただ。
会いたかったから。
少し。
待った。
それだけ。
そして。
会えた。
嬉しかった。
その時間を。
二人とも。
自分で。
選びました。
殿下。
恋は。
誰かの時間を。
全部。
自分のものにすることではありません。
でも。
誰かが。
自分のために。
少しだけ。
時間を空けてくれたとき。
そのことを。
嬉しいと。
受け取っても。
よいのです。
たぶん。
それも。
相手の気持ちを。
信じるということです。
ただ。
殿下。
一つだけ。
問題があります。
好きなご令嬢からの質問は。
残り。
二つ。
あなたは。
今日は。
予想しませんでした。
紙も。
開かなかった。
とても。
立派です。
ですが。
その夜。
王宮へ戻られる直前。
あなたは。
私へ。
こう。
おっしゃいました。
「マリア」
「はい」
「質問が」
「予想はしません」
「まだ。何も言っていない」
「お顔で分かります」
「では。予想ではなく」
「はい」
「一つだけ。聞いてよいか」
「何でしょう」
「彼女は」
「はい」
「残り二つを」
「はい」
「いつ聞くと思う」
「殿下」
「内容ではない」
「はい」
「時期だ」
「それも待ってください」
「……」
「殿下」
「分かった」
「はい」
「待つ」
「はい」
「だが」
「はい」
「かなり気になる」
「それは大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「なら」
一度。
深く。
息を吐く。
「気にしながら待つ」
「はい」
「それでよい」
「はい」
殿下は。
少しだけ。
安心したように。
うなずきました。
待つ。
ということは。
何も考えないことではありません。
気になる。
知りたい。
早く聞きたい。
会いたい。
その全部を。
抱えたまま。
相手が。
自分で。
差し出してくれるまで。
急がないこと。
王太子殿下。
あなたは。
今日も。
少しだけ。
待てるようになりました。
……本当に。
少しだけ。
ですけれど。




