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境界線の上で、立つ — Standing on the Line —  作者: 和泉發仙


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第五十一話 小さなずらし



揺らすとは、

壊すことではない。


止めることでもない。


ほんの少し、

位置を変えることだ。


位置が変われば、

流れはわずかに歪む。


歪みは、

最初は見えない。


だが、

続けば形になる。



三崎は、

黒いコートの男――葛城と名乗った――の言葉を

反芻していた。


破裂を避けたい


守る側の人間が、

破裂を恐れている。


完全な安定ではなく、

持続可能な安定。


その違いは小さい。


だが、

意味は大きい。


「揺らせ」


ミオの言葉が、

重なる。


壊すのではなく、

ずらす。



最初の一手は、

数字だった。


三崎は、

次回の報告書に

新しい項目を加える。


「自発的滞在の質的評価」


量ではなく、

理由。


短い滞在アンケート。


強制ではない。


任意。


答えなくてもよい。


だが、

“なぜ立ち止まったか”を

一行で書ける欄を設ける。


上司は、

眉をひそめる。


「必要か?」


「再発防止の精度向上に」


完全な嘘ではない。


揺れの理由を

記録する。


数字ではなく、

言葉で。


葛城は、

無言で資料を見る。


「試験的に」


その一言で、

通る。


小さなずらし。



駅前。


アンケートは、

イベント形式で実施された。


“安心フェア”の延長。


健康チェックの横に、

小さなボード。


「ここで立ち止まった理由を

教えてください」


人は、

戸惑う。


理由?


「トイレ探してた」


「待ち合わせ」


「ちょっと休憩」


些細な答えが並ぶ。


だが、

時折、

違う言葉が混ざる。


「家に帰りたくなかった」


「誰かと話したかった」


「何もしたくなかった」


三崎は、

その一行を見つめる。


数字にはならない。


だが、

重い。



スーパーの若い店員も、

参加していた。


棚の前で立ち止まった理由を

聞く。


「成分見てた」


「迷ってた」


「値段と相談」


迷いは、

存在している。


消えたわけではない。


ただ、

短くなっていた。


彼女は、

気づく。


迷いを完全に消すことは、

できない。


消したように見せていただけだ。



橘は、

この試みを記事にする。


「理由を記録するという実験」


批判も来る。


「甘やかし」

「無駄」


だが、

支持も来る。


「初めて聞かれた」


「理由を言えた」


小さな共感。


大きくはならない。


だが、

消えない。



医療の現場でも、

同じ動きが始まる。


橘の記事を読んだ

若い医師が、

診察時間を一分だけ延ばす。


「今日は、

どうして来ましたか」


症状ではなく、

理由。


患者は戸惑う。


「いつも通りです」


だが、

時折、

違う答えが出る。


「怖かった」


「眠れなかった」


数字ではない。


だが、

揺れの声。


医師は、

カルテの端に

小さく書く。


“理由:不安”


それは、

薬では治らない。


だが、

記録される。



葛城は、

アンケート結果の報告を受ける。


予想していた。


だが、

想像以上に

“家に帰りたくない”という

言葉が多い。


彼は、

眉をひそめる。


これは、

数字にできない。


だが、

無視もできない。


上層部に報告するか。


葛城は、

少しだけ迷う。


報告すれば、

対策は強化される。


強化は、

再び排除につながる。


彼は、

初めて

報告を遅らせる。


小さなずらし。


守る側の揺れ。



ミオは、

アンケートボードを見て笑う。


「家に帰りたくない、

いっぱいじゃん」


三崎は、

答えない。


彼女は続ける。


「でもさ、

これ出したらどうなんの」


「すぐには、

何も」


正直に言う。


「でも、

消えない」


彼女は、

しばらく黙る。


「ならいい」


それだけ。



数週間後。


報告書に、

新しいグラフが加わる。


滞在理由の分類。


家に帰りたくない。

誰かと話したい。

ただ立ちたい。


数値は小さい。


全体の数パーセント。


だが、

存在が明示される。


誤差ではなく、

理由。


教授は、

資料をめくる。


「興味深い」


評価は、

まだ分からない。


だが、

削られなかった。


それだけで、

一歩だ。



どんでん返しは、

静かに訪れる。


橘のもとに、

一通の内部資料が届く。


匿名。


医療研究費の内訳。


そこに、

黒いコートの男の名前。


彼は、

かつて

医療機器メーカーの

内部監査をしていた。


その報告書には、

一行だけ

赤字がある。


慢性化モデルは、

収益安定に寄与するが、

社会的コストを増幅する可能性。


葛城は、

かつて

内部で警告を出していた。


だが、

握り潰された。


守る側に回ったのは、

外からでは

変えられなかったから。


三崎は、

その事実を知る。


葛城は、

敵ではなかった。


最初から、

揺れを知っていた。



夜。


三人は、

駅前に立つ。


整った光の下。


完全ではない。


だが、

少しだけ

ずれている。


「止めないの?」


ミオが言う。


三崎は、

首を振る。


「止めない」


「ずらす」


エリオットが、

静かに付け加える。


「流れは、

少しずつしか曲がらない」


ミオは、

小さく笑う。


「じゃあ、

毎日揺らせ」



後書き


壊すのではなく、

ずらす。


この回で、

“理由を記録する”という

小さな揺らしを描きました。


そして、

監査の男が

過去に警告を出していた事実。


構造の中にいる人間も、

揺れています。


次は、

この小さなずれが

予想外の場所で

波紋を広げる回になります。



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