第19話 終戦
「ブモォォォォォォオオ!!」
遠くの空が僅かに白み始めた頃、夜明け前の静寂を切り裂くように、鼓膜を震わせる醜く聞き苦しい喊声が響き渡った。それを合図に、オークの軍勢がキングを先頭にして一斉に突進を開始する。
その光景は、まさに濁流だった。
鈍重というオークのイメージを根底から覆す、猛烈な突進力。一体一体が重戦車のような質量を持ちながら、獲物を食い殺そうとする飢餓感によって、信じがたい速度へと加速していく。
──ドォッ、ドォッ、ドォッ!!
統制の取れた足音ではない。だが、数千の足がバラバラに地を叩く振動と圧倒的な圧力は本物だ。
先頭をいくキングが、その巨躯で前方の空気を力任せに押し退け、目に見えるほどの衝撃波を纏いながら迫りくる。その背後に続く軍勢もまた、王の殺気に当てられたかのように、目に理性の欠片もない狂気を宿していた。
巻き上がる土煙が月光を遮り、戦場を暗転させる。
視界を埋め尽くすのは、波打つ筋肉の塊と、荒い鼻息とともに吐き出される白濁した蒸気。
一歩、また一歩と距離が縮まるたび、大地を打つ重低音が身体の芯を直接殴りつけてくる。
もはやそれは軍隊というより、山そのものが崩れてこちらへ滑り落ちてくるような、回避不能の自然災害に近かった。
真正面から受ければ、文字通り塵も残さず踏み潰される──そんな本能的な恐怖が背筋を駆け抜ける。
だが、真正面から馬鹿正直に受け止める気はハナから無かった。
「……そういうの、猪突猛進って言うのな。悪いが、その勢いを利用させてもらうぜ」
俺は魔力を練り上げ、先頭を駆けるオークの数体に狙いを定めた。
「【遅延】!」
時空魔法の干渉により、王の左右を固めていた精鋭たちの時間が強引に引き延ばされる。
猛烈な勢いで地を蹴っていた巨躯が、まるで目に見えない深い泥濘に突っ込んだかのように、その動きを極端に鈍らせた。
「グガッ……!?」
本人たちは全力で脚を動かそうとしているのだろうが、傍目にはスローモーションのようにしか見えない。だが、その後ろから波のように押し寄せる軍勢には、急にブレーキをかける術など無かった。
──ドガァァァァァッ!!
肉や骨がひしゃげる、凄まじい衝突音。
減速した先頭集団が巨大な「壁」となり、勢いのついた後続が次々とそこへ激突していく。重戦車のような質量が折り重なり、逃げ場を失ったオークたちが自らの突進力によって味方の下敷きとなり、悲鳴を上げながら圧殺されていく。
「全員、続けッ!!」
コルネリアが鋭い号令を下す。彼女もまた、敵の密集地帯に次々と『スロウ』を叩き込み、オークの軍勢を阿鼻叫喚の地獄へと叩き落としていく。
足を止め、身動きの取れなくなったオークの群れ──それはもはや軍勢ではなく、ただの巨大な標的だ。
「一気にいくぞ!」
俺が放った禍々しい黒炎が、密集した敵のど真ん中で爆ぜた。
逃げ場のない数十体のオークが瞬時に黒い炎に飲み込まれ、脂の焼ける嫌な臭いと、喉を焼かれたような絶叫が戦場に充満する。同時に、コルネリアが放つ鋭利な風刃が、身動きの取れないオークたちの首を、まるで熟れた果実でも落とすかのように次々と刈り取っていった。
それだけではない。フィアとミィアら眷属たちが放つ闇弾が、着弾のたびにオークの硬い皮膚を爆ぜさせ、上空のハーピーたちから放たれる無数の矢と風の刃が、雨あられとなってオークたちの頭上へ降り注いだ。
闇の浸食が傷口を腐らせ、風の斬撃が逃げ場を失った肉体を細切れに刻んでいく。
密集して押し固められたオークたちは、盾を構える余裕さえ与えられない。後続の押し出す圧力によって倒れることすら許されず、立ったまま矢の的になり、風に切り刻まれ、絶命していく。
足元は、引き潰されたオークの肉と血で泥濘と化していた。
圧倒的な「数」を武器にしていたはずの軍勢は、今や自分たちの重みで自壊し、壊滅的な打撃を被っていたのだ。
夜明けの光が、血に染まった戦場を赤く照らし始める。
「グガァ……ッ!? オ、オノレぇッ……!!」
王の背後に続く軍勢は、もう居ない。
ある者は自らの突進による圧力で押し潰され、ある者は俺たちの魔法によって文字通り肉の塊へと変えられた。自慢の軍勢が無残に崩壊していく光景を目の当たりにし、オークキングは驚愕と底知れぬ怒りにその巨躯を激しく震わせていた。
「……キング。確かにお前は強い。だが、この状況を覆すほどじゃないよな」
俺があえて嘲笑を浮かべて挑発すると、王としての矜持を傷つけられたキングは、真っ赤に充血した瞳をさらに見開き、面白いように怒りを露わにする。
「グガァァァァァァッ!! キサマぁッ!!」
地響きを立てて地面を蹴る。
怒髪天を衝く勢いとはまさにこのことか。キングはもはや軍の統制など頭になく、ただ目の前の「獲物」を八つ裂きにするためだけに、単騎で凄まじい速度の突撃を開始した。
(──単純な奴で助かるな。冷静に立て直される方がよっぽど面倒だったぜ)
俺は迫りくる巨大な死の圧力を、静かに、そして鋭く見据える。
王の突撃は、先ほどの軍勢とは比較にならないほど重く、速い。その巨躯が空気を切り裂くたび、鋭い衝撃波が頬を掠めていく。
だがな……。
「【遅延】」
俺が指先から魔力を解き放つと同時に、キングの全身を時間の軛が強く締め上げる。
爆発的な加速を誇っていた王の動きが、まるで粘度の高い泥沼の中を無理やり進むかのように、一気に減速した。
「……ッ!? カ、カラダ、ガ……ヌ、ヌオォォォッ!!」
自分の感覚と肉体の動きが強制的に乖離させられる違和感。オークキングの顔が驚愕に歪み、必死に太い腕を動かそうと抗うが、時空の歪みは無慈悲にその機動力を奪い去る。
剥き出しになった王の無防備な全身。
俺は冷徹に、そしてゆっくりと右手を掲げた。
「放て!」
その手を振り下ろすと同時に、俺の背後に控える全軍勢へ非情な号令を下す。
──ドォォォォンッ!!
コルネリアの瞳が輝き、放たれた特大の黒炎が夜明けの空を焦がしながら王の胸元で爆ぜた。
続けざまに、フィアとミィアが放つ鋭利な黒刃が四肢を切り刻み、眷属たちが放つ黒弾と風魔法が、逃げ場のないキングの肉体に容赦なく着弾していく。
轟音と土煙、そして肉の焼ける凄まじい異臭。
時間に縛られたオークキングは、その巨体ですべての飽和攻撃を正面から受け止める巨大な的となった。
だが、煙の中から現れたのは、なおも地に足をつけ、折れぬ牙を剥き出しにした怪物の姿だった。
全身の皮膚はドロドロに焼けただれ、裂けた肉の隙間からはどす黒い血が滝のように溢れ出している。並の魔物なら数百回は絶命しているはずのダメージ。
だが、王はなおも地に根を張る巨木のごとく踏み止まり、その眼球が弾けんばかりの殺意をこちらへ注いでいた。
「……許サ……ヌ。貴様ラ……一匹残ラズ……皆殺……シヨウ!!」
地獄の底から響くような、怨嗟に満ちた咆哮。
オークキングは震える腕で大剣を握り直し、最後の力を振り絞ってゆっくりとこちらに向かって来る。
その執念は、まさに一軍を統べる王としてふさわしいものだった。
だが、その執念さえも、俺は冷徹に切り捨てる。
「……そのタフさは、さすがと言っていいが」
俺は深く腰を落とし、剣を鞘へと収めるような構えを取った。
魔力をすべて右腕に、そして愛剣の刀身へと一点に凝縮させていく。
凝縮された魔力は光さえも吸い込むほどに深い「闇」の輝きを放ち、周囲の大気をピリピリと震わせた。
「終わりだ」
俺は意識のすべてを一点に研ぎ澄ませ、魔力を爆発させた。
「【加速】」
世界から音が消えた。
風に舞う土煙も、王が吐き出す血飛沫も、まるで凝固した琥珀の中に閉じ込められたように停止する。その静止した世界の中で、俺だけが解き放たれた。
踏み込みの一歩で、大地を爆ぜさせる。
手に持った剣には、闇魔法によって極限まで圧縮された魔力が纏わりついていた。
──一閃。
俺が通り過ぎるのと、静止した世界が動き出すのは同時だった。
──ズ、バァァッ!!
硬い皮膚も、太い頸椎も、その一撃の前には存在しないも同然だった。
抵抗らしい抵抗も感じさせぬまま、刃は王の首を真っ向から両断し、巨大な頭部を空高くへと跳ね上げた。
直後、首を失った巨躯が血を噴き出しながら、山が崩れるように轟音を立てて大地に沈んだ。
「……ふう。疲れた……」
俺は荒い息を吐きながら、ゆっくりと剣を収めた。




