有名人は歯が命
永禄13年(1570年)春の話で、クマザサとヨモギの話です。
俗説を含みますので、決して真似しないでください
蒲生鶴千代には悩みがあった。
「いやっ、近づかないで!」
「うぐ!?」
可愛らしい拒絶の声に反して、繰り出されるキレのいい技。
今日も今日とて惚れた女に痛烈な攻撃を受け、その場に崩れ落ちる。ああ、心と体が痛い。あそこまで嫌われる理由も分からなければ、可憐な姫があそこまで強い意味も分からない。
「何故だ……、お冬」
遠のく足音を聞きながら、鶴千代は呻いた。
仮にも武家の男が一回りも小さい女に負ける、という普通なら憤死ものの屈辱ではあるが。こうして床に耳をあてていると、心地よい足音を堪能できる。彼女は走っているので、あっという間に聞こえなくなってしまうのが残念でならない。
たまにはゆっくり歩いてくれてもかまわない。
お冬は特別だ。誰にも代わりはできない存在である。
ゆえにお冬を印象付ける全ての事柄が愛おしく思えるのだ。ただ、それだけなのだ。
「変態か」
「織田の父よ、それは褒め言葉と受け取って良いのだな?」
「褒めてねえよ! なんでそうなるっ」
いい加減起きろと言われ、渋々従う。
お冬の父であり、織田家の現当主である織田信長には逆らえない。かつて南近江で大きな影響力を持っていた蒲生家も、今は織田家の一家臣にすぎない。近江国全土を妹婿の浅井長政に預けたせいで、蒲生家は住み慣れた城を追われた。
そのこと自体は特に不満もない。
むしろ裸の付き合いをさせてもらえるほどの信を置かれている、と思う。信長は何も言わないが、鶴千代に対する期待度は尋常ではない。まるで嫡男に据えるかのような厳しい教育を課すようになったからだ。
とにかく織田家は何もかもが型破りだ。
貧民にも学ぶ機会を与え、仕事を選ばせてやる。町や村には治安維持の巡回兵が配備され、大きな町には食事だけを提供する店もある。商売の自由化を進めた結果、様々な店が大通りに並ぶようになった。それでいて、大きな町ほど綺麗に整えられている。
京の町や観音寺城下町を見本にしたらしい。
甲賀郡に逃げた六角親子が未だ健在なのは、この噂も一因している。あの織田信長が見倣う程の名君である、と誤解されているのだ。城下町を整備したのは父・賢秀だというのに。
「なんだよ、鶴坊」
相変わらずの地味面である。
この男には野心がないから覇気もない。勉学においては経験の差が歴然としているとはいえ、武芸も大して強くはない。短筒を常備しているくせに、玉はあらぬところへ飛ぶ。弓を引かせれば天空を目指し、自らが発明した投石術なども使いこなせていない。
それでも織田信長は、天下の覇者だ。
今に日ノ本の全てを支配下に治める男である。
「織田の父よ、質問に答えろ」
「その妙な呼び方やめろって、何度も言ってるよな!?」
「お冬に避けられるのは何故だ」
「聞けよ、人の話!」
「私の問いに答えられぬというのか」
「まず、その傲岸不遜ぶりを何とかしようなっ」
「臭いと言われるのだ」
毎日、湯船に浸かっているのに。
長居は危険なので、適度な入浴を覚えた。へちまと手拭いを使って、全身の垢すりも忘れていない。これも力を入れすぎると痛くて、湯船に浸かれなくなるから加減が必要だ。
あらゆる作法を身に付け、今では風呂の知識は誰よりも勝る。
「なのに臭い、と」
「口臭だろ。一定距離を保つようにすれば問題ない。お冬に臭いと言われたくなかったら、一メー……一間は離れるんだな」
「織田の父よ、それでは本末転倒だ。論点もずれている。そのような意味のない不利益極まりない回答を求めていたわけではないぞ。もう少し考えろ」
「生意気通り越して、普通に腹立つわ!」
「こうしゅう、とは何だ」
「時間差で返球されると受け止めづらい」
「織田の父に言われたくないな」
「んがー!!」
稀に、未来の舅・信長は野生へ帰る。
蒲生家が織田家臣になってから二年経った。
旧主を売り渡したようなものなので、浅井家が統治することになった近江国にはいられなくなり、すぐに畿内の情勢安定へとコキ使うことになった。側近たちはともかく、新たに降伏・臣従してきた家臣は働き次第で知行を与える予定だ。
そうでもしないと広大な領地を治めきれない。
織田流システムを行き渡らせるため、長秀以下側近は一人残らず不眠不休で働いている。土地の整備に衛生面の向上、治安維持、戦争孤児や働き手を失った民への補償などなど。天皇のおわす禁中に近かったせいか、畿内は時代に取り残されたような感じだ。
それでも二年かそこらで、何とかなったのは奇跡に近い。
尾張国だけで十年くらいかかったのだ。俺のあやふやな知識を、この時代に合わせたやり方で要領よく行き渡らせていく方法を側近たちが学んだ、ということだろう。
つくづく奴らには頭が上がらない。
噂では俺が何でもやらかしたことになっているが、実際は違う。
実際に対面してみて、「なあんだ」という顔になる奴を飽きるほど見てきた。いちいちキレかける恒興はともかく、噂を鵜呑みにしちゃいかんという良い教訓になるだろう。
「織田の父よ、森に何の用がある?」
後ろから声をかけられ、横目で姿を確認する。
距離が距離だから馬で駆けてきたのだ。
「ついてこいと言った覚えはねえぞ。勝手に追いかけてきたんだから、余計な口を挟んでくるんじゃねえ」
「疑問はその場で解決する。それが織田塾の教えだ」
「だーっ、もー! ああ言えば、こう言うっ」
初期の鶴千代はもう少し可愛げがあった。
お冬といい、奇妙丸といい、手元に置いておく方が突然変異を起こしやすいのだろうか。あるいはほとんど顔を見ていないから、茶筅丸や三七の変化に気付いていないだけなのか。毎月の報告書を兼ねた文のやり取りで、元気にやっているのは確かだ。
相変わらず三七は勉学が苦手なままらしい。
指南役から逃げる技が、いよいよ磨かれていくと聞く。だからといって義父である具盛が、お冬の付き人みたいな立ち回りになっている理由にはならない。近いうちにどうにかせねばと思いつつ、お転婆姫に開花したお冬を放っておくこともできない。
生母に似る、というやつだろうか。
その理屈でいくと、お五徳が商才に目覚める可能性が出てくる。家康や信康を困らせていなければいいが、などと溜息を吐いた。
「織田の父よ」
「おっ、あったあった」
「人の話を聞けと怒るくせに、自分はいいのか」
不満げな鶴千代は放置。
大きな笹の葉が揺れる一帯へ馬を寄せる。
あまり近づきすぎると笹の葉で切れるため、籠を持って馬から降りた。竹細工などに使われる竹に比べて、白い隈取りのある笹の葉は視線の高さに密集している。ちょうど日当たりの加減がよく、立派な葉が育っているようだ。
裏を確認して、柔らかい若葉を一枚ずつむしっていく。
「笹の葉を集めれば良いのだな」
「ああ、なるべく隈取がない奴を選べ。他の笹もそうだが、葉っぱで手を切るなよ? 血が付いたら使えん」
「そのような心配無用だ痛っ」
「言わんこっちゃない」
「フン、この程度。掠り傷だ。舐めれば治る」
「ド阿呆、さっきの話を聞いてなかったのか」
鶴千代はハッとして、肩を落とした。
「すまぬ」
血の付いた笹を見つめ、悔しそうに唇を噛む。
そこまで深刻になるような話でもないが、あえて慰めないことで深く反省してもらうことにした。どうにも最近の鶴千代は天狗になっている気がする。奇妙丸が謹慎中というのもあるだろう。お冬の婿になれば、蒲生家は一気に織田一門の仲間入りだ。
戦国武将として野心を抱くのは別にいい。
うちの大事な娘を利用するのだけは許せない。ともあれ、鶴千代がお冬に惚れているのは周知の事実であった。これも十分に許せない理由に含まれるが、お冬がその気にならないうちはまだ大丈夫だ。長政とお市みたいに、史実で夫婦だったら泣く。
「おい、おいっ、織田の父!」
「誰が乳か!! 俺は男だっつの」
「自然保護のため、採り尽くすのはご法度だぞ」
「そういや、そうだったな」
小さな禿山みたいになったクマザサを見やる。
籠は笹の葉で山盛りだ。これは選別が大変だなとウンザリしつつ、今度はヨモギを探す。これも大きく育っているものより、小さい方がいいのだ。ヨモギに限らず、山菜は新芽や若葉の方が柔らかくて食べやすい。
「蕗もあるなあ。ワラビにゼンマイ、タラの芽、ウドの大木」
「最後は違う」
「ウドの若芽は食える」
「分かった」
「って、勝手に奥へ行くな! ここらを縄張りにしてる奴らが困るだろっ」
「討伐隊を出さないのは何故だ」
「は? 生態系を壊したら、最終的に俺たちの生活にも悪影響を及ぼすんだよ。そろそろ植林の計画も立てないとマズいな。石炭や石油がどこに埋まってんのか知らないし、どんどん森林伐採して環境破壊もいいとこじゃねえか」
「セキタン、セキユ」
疑問符を出される前に、がしっと肩を掴んだ。
構わず口を開きかけたので、採れたてのヨモギを突っ込む。せめて水洗いするなり、アク抜きするなりしたいが仕方ない。緊急事態である。
「おご、あが」
「これが、口臭対策だ。クマザサの若葉を噛んでも同様の効果が望める。本来は煎じて飲むんだが、そのままでも十分だろ。臭いと言われるのは嫌だもんな?」
噛めと言われ、素直に顎を動かす鶴千代。
かなり苦いのだろう。おそろしく複雑怪奇な表情になってしまっているが、吐き出さないのは褒めてやってもいい。噛んで噛んで苦さで口腔内が麻痺した頃、俺は柑橘水を与えた。
「美味い! なんだこれは!?」
「いつもの柑橘水」
「……お冬の匂いがする」
「嗅ぐな!!」
思いっきり後頭部を叩けば、ヨモギが出た。
茸類もそうですが、山菜は類似品種が多いので正確な知識が重要です。ノブナガが山野草に詳しいのは前世知識ではなく、少年時代に叩きこまれた教育と趣味(狩り)によるものです




