172話 ボツ分
没理由:信玄がダメ虎すぎた
東美濃の国境が緊張を増す中、俺と信純は岩村城を出た。
なるべく面倒を避けるため、街道から外れた林の中を爆走する。
上に立つ者として、やっちゃいけないことの五本指に入る異常行為だ。尚清たちがいたら絶対止めただろうし、紛糾する会議の様子に誤解した武田軍が攻め入ってきたかもしれない。
実は遠山氏に、武田側から内通の兆候がある。
何の落ち度もないのに城主の座から引きずり降ろされたため、織田家に恨みを持っていると思われたのだ。それも、あくまで表向きの話。遠山景任は比叡山の坊主どもと結託したり、織田領の情報を他国へ流していたりしていた。
「なんで、それを早く言わない!?」
「だって比叡山は、若様が懲らしめちゃったからさ。しかも延暦寺の僧を捕まえては、岩村城に送り届けていたんだよ。途中で何かおかしいって、半兵衛殿らが気付いたみたいだけど」
「え? は?」
比叡山延暦寺。
今上帝、つまりは正親町天皇の血縁者が座主になっている寺だ。御料地回復の一環で、寺領も返せと言われたんだなーなんて軽く考えていた。領地が完全に別とするなら、それでもいい。
悪さを働いたら、領土侵犯で堂々と処罰できる。
同じ領内の話だから見逃していた点もあったわけで、後ろ盾が何だのギャアギャア喚いても知ったことか。それこそ今の俺は、朝廷にも幕府にも顔が利く。織田領内の問題は全て、一度は俺の所へ集めるようにしている。
何故か、幕府管轄の話まで俺へ上がってくるようになったが。
義昭が将軍のお仕事に慣れるまでの我慢だ。その後は知らん。知らないったら知らない。後の世のためにも、義昭の代で室町幕府は終わってもらわなければならない。
その手で潰すと言ったからには、実行してもらいたいものだ。
「将軍家ともかく、天皇家までは関わりたくねえぞ」
「あ、無理。もう手遅れ」
「んがー!?」
「たぶん、また叙勲の話が来ると思うよ。朝廷や天皇家のために、相当な金額を使ったから」
「聞いてねえぞ、そんな話」
「あのねえ、京の町を何とかしろって言ったのは三郎殿でしょ。忘れたとは言わせないよ? 栗院作戦とか言って、洛中の整備も行ったし」
「クリーン作戦な! やったけどな!!」
「それに何度も断ると……」
ごくり、と唾を飲みこんだ。
腐っても朝廷、日本における最高権力者が天皇である。一番偉い。ナンバーワン。俺なんか足元にも及ばないはずなのに、いつの間にか雲の上の存在じゃなくなっていた。正親町天皇直筆らしい文も拝見した。
「……だ、だって官位とかいらねえし」
「そんなことを言うのは、三郎殿くらいだよ」
今後のことも考えて権力は必要だ。
「副将軍の座を蹴ったのは、官位不足だと思っていたんだけどなあ」
「誰が天下の副将軍だ!」
「あ、うん。天下人に一番近い、の間違いだよね」
「のおおおおっ」
奇声を上げる俺を、ウンザリした顔で馬が振り返る。
走りながら余所見するとか、器用な奴め。誰に似たんだ、母親似か。年を取っていくのは俺だけじゃなく、人間や馬も等しく老いていく。信純の馬も、いつの間にか若駒に変わっていた。
「殿」
どこからともなく伴太郎が現れる。
ちょっと待て、馬に並走するなんて尋常じゃないぞ。驚きのあまりに声が出ない俺に向かって、息も乱れない冷静な声が届けられる。
「何者かが近づいてまいります」
「敵か?」
咄嗟に問いかけて、口の中が苦くなった。
「若様を逃がした者かと」
「名は」
「武藤喜兵衛。真田一徳斎の三男です」
「信濃国人衆だね。どうする、三郎殿?」
武藤氏はピンとこないが、真田の名は気になる。
真田幸村といえば、家康を何度となくビビらせた日本一の兵だ。豊臣方、秀吉の家臣になる前は武田家に仕えていたはずである。となれば、幸村の親戚か血縁者辺りだろう。
「会ってみたいな」
「では、そのように」
伴太郎が消え、蹄の音が近づいてきた。
鬱蒼とした木々の合間から、その男は姿を見せる。武将髭を生やしているものの、思ったよりも若かった。俺と目が合って、二カッと笑う。
「お初にお目にかかる。武藤喜兵衛と申す!」
「織田上総介信長だ」
「ちょ、三郎殿!」
「そんで、こっちは義兄弟の又六郎信純だ」
「お会いできて光栄にござる。よもや、こんなに早くお目通りが叶うとは思いませなんだ。星の巡りあわせとは、斯様に面白きものにて」
「口上はいい。虎のおっさんのところへ連れていけ」
「お任せあれ!」
声のデカい男だ。
喜兵衛と名乗った男が前に出て、俺たちの周りに新たな騎馬が並走し始める。囲まれたなあなんて考えていると、信純が何やら難しい顔をしていた。甲斐国へ向かうのはこれで二度目だ。同盟を結ぶのも紙面で終わらせてしまったし、今思えば希薄な関係だったのかもしれない。
俺の一方的な好意だとしたら、少し寂しいな。
それとも輝虎の言うように、戦国大名として急成長する俺に感化されてしまったのか。そうだとしても、一言くらいあってもいいだろうに。歴史の修正力か、織田信長というチート存在のせいなのか。家康が救援要請を出していないだけで、織田軍はいつでも武田軍と衝突してもおかしくない状況にある。
そして今川も、北条も、上杉も。
相手がどう出るか分からない、というのは落ち着かない。西側がある程度大人しくなっている今しか、チャンスはないのだ。
「奇妙丸殿のお父上ですよね」
隣から声をかけられ、意識がふっと戻る。
「喜兵衛の弟か」
「はい。加津野市右衛門と申します」
「よく似ている」
「ありがとうございます」
姓が違うのは、別々の家へ養子に入ったからだろう。
喜兵衛が三男なら、市右衛門は四男以下だ。長兄が家督を継いで、次男が補佐役についたと思われる。奇妙丸が出奔しなかったら、茶筅丸を養子に出すこともなかった。身内で争う一族もいれば、兄弟で結束を固める一族もいる。
ふわっと微笑む市右衛門は、本当に喜兵衛と似ている。
生母が同じなのかもしれない。
「奇妙丸殿は無事に、国へお戻りになられたでしょうか」
「おかげさんでな」
「それを聞いて、安堵いたしました。あの方が甲斐国に滞在している間、我らの暮らしは随分良くなりました。それなのに恥知らずにもお命を狙うような真似をしでかしたこと、何とお詫び申し上げればよいか」
「お前らが計画したわけじゃないんだろ」
「当然です。罠にかける相手は、ちゃんと選びますよ」
ちょっと聞き流せない台詞だったが、まあいい。
武勇で名を馳せた幸村はともかく、真田家は知略に長けた家柄だったような気がする。直系じゃないからといって、わざわざ俺たちに接触してくる意図が分からない。
「案ずるより産むが易し、だな」
一人ごちて笑う。
怪訝そうな視線を感じたが、話しかけてくる者はいなかった。
無言で馬を走らせて、突如として現れた庵の前に集まる。そこが待ち合わせ場所らしい。まだ甲斐国には入っていない。信玄の病状はそんなに悪くないのだろうか。
そこそこ大きな庵だ。
縁側をしばらく歩いて、締め切った部屋の前に着く。
「お館様、喜兵衛でござる」
「…………」
「どうぞお入りください。あ、お供の方はあちらの部屋でお待ちを」
中からの声は聞こえなかった。
俺たちは二人で、武田方は喜兵衛を含めて四人はいる。待っている相手が信玄だけだ、という保証はなかった。伴太郎以下伊賀忍がついてきているはずだが、武田方にも甲賀忍がいる。
信純が何か言う前に、俺はニヤッと笑った。
「又六郎、大人しく待ってろよ?」
「どこぞの脳筋と一緒にしないでほしいかな」
ひょいと肩を竦めて、奴は言う。
ここまで来てしまった以上は前へ進むしかない。奇妙丸が岐阜城へ戻ってきたから、後のことはそんなに心配していなかった。俺が戻らなかったら元服して、織田家当主を引き継ぐ。それは既に決定事項で、わざわざ通達するまでもない。
何とか本能寺の変まで生き延びたいなー、なんて。
「おう、虎のおっさん。来てやったぞ」
「うつけ殿、か」
障子を開けた途端、思わず顔をしかめた。
むわっと広がる独特の匂いには覚えがある。庵を覆う深い緑のせいで、部屋の中まで薄暗く感じた。予想通りといえば、予想通りの姿だ。
俺が中に入るのを待って、障子が再び閉められる。
ざっと見て、本当に信玄しかいなかった。調度品もなくて、殺風景な部屋だ。煙を吐く鈍色の香炉が、異様な存在感を醸している。
「長命酒を持ってくりゃあよかったな」
「謀神にくれてやった、というアレかの」
「なんだ、知ってるのか」
「寿命が延びる妙薬だそうじゃ」
「天命は変えられんさ」
「ふふ、ふ」
小太りの好々爺は、小さな老人になっていた。
肘置きに体を預けて、億劫そうに呼吸をしている。俺は医者じゃないから、信玄の病状までは分からない。かなり弱っているな、ということくらいだ。
「わしには持病があって、の」
「それなら仕方ない」
「これ、少しは労わらぬか」
「俺が農法や物資のやり取りをしたのは、戦の支援をするためじゃねえぞ」
「痩せた土地に種を蒔き、水をやっても、僅かな恵みしか得られぬ」
「こういうのは長期的な対策が必要なんだ。あんただって知ってるだろ。なんだって今更、方針転換なんか始めた? 死ぬのが怖くなったのか」
「ああ、死ぬのは怖いとも」
目を細めて、信玄は言う。
泣きそうな顔に見えたが、皺だらけの顔は乾いていた。
「太郎がのう、夜な夜な責めるのじゃ。わしが間違っておる、と。国のため、民のために戦を仕掛けたというのに、仏の教えに背く行為だと責めよる」
「いや、おっさんは立派な生臭坊主だろ」
「褒めても何も出んぞ」
「褒めてねえし。あと、太郎は生きてる」
「…………な、に?」
「うちの馬鹿息子が拾ってきた。捨ててこいと言うつもりだったが、おっさんの言葉を聞いて考えが変わった。織田の子にする」
ふよふよと信玄の手が揺らいで、落ちた。
完全に力が抜けた様子で肘置きに寄りかかっている。くぐもった声に嗚咽が混じって、俺は居たたまれない気分になった。武田家の方針をめぐり、父と子で何を話したかは知らない。奇妙丸と会っていないから、どういう経緯で義信を連れてきたのかも知らない。
だが、こう思う。
俺も奇妙丸を喪ったら、泣くだろう。
この世で俺が狂うキッカケがあるとしたら、帰蝶か奇妙丸が死んだ時だ。他の子供たちが大事じゃないとか、側室と正室は違うとかいう分別の問題じゃない。あの二人だけは特別なんだ。
帰蝶の手で死ぬのは構わない。
だが帰蝶を殺すのは、絶対に不可能だ。奇妙丸も然り。直接手を下すか、間接的に指示を与えるかの違いがあっても、無理なものは無理だ。断言できる。
「諏訪勝頼がいるだろ」
「だから、だからわしは武田という家を確固たるものにせねばならぬのじゃ」
「おっさん、あんた……まさか」
「四郎には後ろ盾がない。わしが死んだら、武田は内側から崩壊する」
俄かに動き出した家臣団。
真田の息子たちが俺を進言の元へ導いた理由が、何となく分かった。今の武田家は信玄一人で支えているのだ。持病とやらがいつから信玄を蝕んでいたのかは分からない。それでも信玄は想像を絶する恐怖と戦い続けていたに違いない。
「だったら何で、義信を――」
「今川家に何ができる!? 氏真には北条家がついておる。相模の獅子も老いた。この先、ますます混迷を深めていくのは目に見えておる!」
「だからって先に仕掛けりゃいいってもんでもないだろ! 縁組までして同盟組んでたんだから、話し合って上手く事を運べるようにすればよかったんだ。盤上遊戯みたいな戦で、何が得られる!? 禍根を残して、因縁を引っ張るだけじゃねえか」
「ならば、おぬしが四郎を守るというのか」
「…………っ」
「織田が守るは、身内だけであろうが!」
「……っ、当然だろ!! 俺だって、万能じゃない。神様でもねえ。そもそも腹の探り合いなんか苦手なんだよ。おっさんも、知ってんだろ! 助けてくれって、手を貸してくれって……もっと早くに、そう言ってくれれば」
何もかも遅い。遅すぎた。
織田信長らしく生きるなら、もっと広い視野が必要だった。信玄と友好的な関係を築きたかったら、俺の方から歩み寄ることも必要だった。それでも武田との同盟を続けることは、今後の歴史を大きく変えることになる。
少なくとも、俺は知っている。
何年後かに起きる長篠の戦いは、織田軍と武田軍との戦だ。
敵対するということは、友好な間柄じゃないっていうことだ。いずれ敵対するのだから、親しくなりすぎたら辛くなると思っていた。無意識に心へセーブをかけて、中途半端な同盟になってしまった。
俺の中の矛盾が、この結果を生んだ。
「おっさん、俺はおっさんのことが好きだったよ」
「知っておるわ、とっくにのう」
「そうか。でも四郎は助けられない。太郎は、うちの子だから守る」
「…………」
「同盟は、破棄する。今日から織田と、武田は敵同士だ。家康は俺の弟分なんでな。ちょっかい出されたまま、黙ってるわけにもいかねえんだ」
信玄は答えない。
俯いたままの顔は伺えない。覗き込んでまで知ろうとも思えなかった。憎しみでも怒りでも、俺は受け止めなければならないのだろう。
膝の上で、きつく拳を固めた。
「じゃあな、おっさん。少しでも、長く生きろよ」
部屋を出ると、喜兵衛が無言で頭を下げてくる。
話の内容はだいたい聞かれていただろう。何も言わない理由までは考えない。奇妙丸を見逃してくれた恩を仇で返した後味の悪さが、苦い気持ちにさせる。
「話は終わった?」
「ああ。帰るぞ、又六郎」
「うん」
信純と共に馬を駆ける。
結局、六角氏との関係は分からないままだ。甲賀忍を雇っている以上、全くの無関係とは思えない。かといって率直に問える空気でもなかった。息子のために、次代のために武田家の地位を確たるものにしようとした考えは理解できる。
俺も子供たちのために戦ってきた。
楽隠居は大前提だ。しかし信玄との対話で、奇妙丸のことも考えさせられた。謹慎で引き延ばせても一年、元服してすぐに重要な役目を背負わせることになる。
ありもしない死を想像して、ぶるりと震えた。
武藤喜兵衛と加津野市右衛門は母を同じくする兄弟で生年も同じらしいということから、まさかの双子説があるそうです。この時代の双子って、不吉なもの扱いされていたんじゃなかったっけ…。養子に入ったからいいのかしらん。
人物紹介は本編にて、真田姓に戻った頃に追記します




