2章「魔王、現代では全力が出せないらしい」
——いや、まだ最悪じゃない。これからもっと酷くなる。
「動くな」
低く、押し殺した声で巡は言った。
視線はルミではなく、周囲へ向いている。
逃げ場、遮蔽物、人の流れ。無意識にそれらを拾っていた。
ルミの指先から滲む黒い靄は、まだ消えていない。
空気が、わずかに軋んでいる。
『……なぜだ』
「それ以上やったら、マジで洒落にならない」
短く言いながら、一歩だけ位置をずらす。
ルミと一般人の間に、自分の身体を滑り込ませる。
周囲はすでに騒然としていた。
壊れた信号機。
急停止した車。
スマホを構える人間たち。
誰かが叫ぶ。
「危ないって!!」 「警察呼べ!!」
(……視線、多すぎる)
巡は奥歯を噛む。
戦場とは違う。だが、“詰み方”は似ている。
『……妙だな』
ルミが、ぽつりと呟く。
『魔力が薄い』
「は?」
巡が振り向く。
ルミは自分の手を軽く開く。
黒い靄が、先ほどより明らかに弱くなっている。
一瞬、霧散しかけ——不安定に揺れた。
『この世界、力がほとんど通らない』
「……っ」
巡の背筋がわずかに強張る。
『……だが、完全には消えていない』
(制御できてねぇタイプだ、これ)
遠くでサイレンが鳴り始めた。
確実に、こっちに向かっている。
「……来るな」
巡は小さく呟く。
『この世界の治安維持の者か』
「ああ、そんな感じだ」
『拘束し、尋問し、従わなければ排除する類の者だな』
(……解像度が無駄に高い)
「まあ……だいたい合ってる」
『なら問題ない』
「は?」
ルミはわずかに顎を上げる。
『その程度、脅威にはならない』
巡は即座に首を振った。
「なるんだよ」
一歩、距離を詰める。
「ここじゃお前、全力出せないだろ」
一瞬の沈黙。
ルミの指先の靄が、ふっと揺らぐ。
さっきよりも明らかに弱い。
『……そうだな』
「しかも数で来るし、証拠とかも残る」
『証拠?』
ルミがわずかに首を傾げる。
巡は舌打ちしかけて、短く吐き出す。
「映像とかだよ!スマホとか監視カメラとか!」 「後からバレて、逃げ場なくなるってことだ!」
一瞬の沈黙。
『……その場で排除すれば済む話ではないのか』
「そういう世界じゃねぇんだよ!」
巡は即答する。
「やった時点で終わりじゃないんだ。後から詰むんだよ!」
ルミはわずかに考え、
『……合理的ではないな』
と呟いた。
(やっと通じたか)
「だから」
巡は一歩踏み出す。
「ここ離れるぞ」
『逃走か』
「そうだよ」
『非効率だな』
「いいから来い!」
巡は人混みへ踏み出した。
一瞬、通行人と肩がぶつかる。
謝る余裕もなく、進路だけを確保する。
ルミは周囲を一瞥する。
混乱する人間。
向けられる無数の視線。
『……脆いな』
ぽつりと呟き、静かに後を追った。
「待ちなさい!」
背後から鋭い声。
振り返らない。
巡は速度を上げる。
人の流れを読む。
最短で、ぶつからない道を選び続ける。
『なるほど』
ルミが小さく呟く。
『この世界では、力よりも秩序が優先されるか』
「いいから今はそれに従え!」
角を曲がる。
視線を切る。
さらに細い路地へ滑り込む。
数秒遅れて、喧騒が遠ざかった。
「……はぁ、はぁ……」
巡は壁に手をついて息を整える。
肺が痛い。だが問題ない。
それより——
隣では、ルミが平然としていた。
『興味深い世界だな』
その指先には、まだわずかに黒い靄が残っている。
完全には消えていない。
「観光じゃねぇんだよ……」
巡は顔を上げる。
「……なんで来てんだよ」
ルミは少しだけ考え、
『さあな』
と答えた。
一拍の沈黙。
その直後。
路地の入口の奥、わずかに影が動いた。
巡の視線が鋭くなる。
(……誰かいる)
気配は消えた。だが——
『——だが』
ルミが続ける。
巡が振り向く。
ルミはわずかに目を細めていた。
『お前と同じ場所に来た理由が、無関係とは思えんな』
「……は?」
背筋に、別の冷たさが走る。
遠くで、サイレンがさらに近づいていた。
——嫌な予感が、消えなかった。




