第13話:その「水上の楽園」は、ただの循環濾過装置点検です
遊泳の基準値は結構厳しい事を知りました。
放課後の更衣室。
俺、佐藤航は、いつもの学生服から、撥水加工された作業着へと着替えていた。
「……また呼び出しか」
ため息が漏れる。
今日の依頼主は、あの理事長だ。
『屋内温水プールの循環ポンプから異音がする。業者が来るまで待てないから、君の“耳”で聞いてみてくれ』とのこと。
ただの点検作業だ。さっさと終わらせて帰ろう。
俺は腰袋にモンキーレンチを差し込み、更衣室を出た。
「ワタル! 待ちたまえ!」
「ワタルちゃん、どこ行くの?」
待ち伏せしていたかのように、エスティアとリリスが現れた。
「……点検だ。ついてくるな」
「点検? 嘘をおっしゃい! 水辺に向かうその装備……まさか『滝行』ですね!? 精神統一のための荒行……私も参加します!」
「やだ、屋内プールでしょ? 密室でアバンチュール……大胆ね」
エスティアは目を輝かせ、リリスは頬を赤らめている。完全に話が通じていない。
「……好きにしろ。ただし、湿気で髪が広がっても文句言うなよ」
俺は彼女たちを無視して、屋内プールへの渡り廊下を進んだ。
◇
ガチャリ。
重い防音扉を開けると、ムッとした熱気と、独特の腐敗臭が鼻をついた。
「うっ……なんか臭くない?」
リリスが鼻をつまむ。
目の前に広がるのは、25メートル×8コースの立派な屋内プール……のはずだった。
水面はどんよりと白濁し、壁面には緑色の藻がこびりついている。
「……汚いですね。神殿の清めが必要です」
エスティアが眉をひそめる。
俺はプールの縁にしゃがみ込み、『保全管理の眼』で水槽と配管の状態をスキャンした。
「……酷いな。循環系統の閉塞だ」
俺はスマホの電卓を叩きながら、ブツブツと独り言を始めた。
「プールの水量は約400トン。……通常なら、凝集剤と塩素にpH調整剤を投入し、オーバーフローさせながらろ過機をフル回転させて水質を復旧させる。その方が、水道代とボイラーの昇温コストを考えれば数十万円は安く済む」
管理者の定石はコストダウンだ。水を捨てずに直せるなら、それが一番いい。
だが、俺の視線はポンプ室の圧力計と、プールの壁面に張り付いたヌメリに注がれていた。
「……だが、今回はダメだ」
「え? ダメなんですか?」
「ヘアキャッチャーが髪の毛と絆創膏で完全に詰まってる。これじゃ循環流量が確保できない。それに、壁面のこのバイオフィルム(微生物膜)……ここまで厚くなると、薬液循環じゃ剥離しきれない」
ろ過機を回しても、すぐにフィルターが詰まってパンクするのがオチだ。
それに、週末のプール開きまでに透明度を戻すには、化学処理では時間が足りない。
俺は電卓を閉じ、決断した。
「コストはかかるが……全換水だ。水を全部抜いて、物理的に削り落とすしかない」
「穢れです! 聖なる炎で水を蒸発させ、浄化しましょう!」
「ボイラーが空焚きで爆発するわ! 絶対にやるなよ!」
「じゃあ、この水を全部ドロドロの美容泥に変えて……」
「配管が詰まるって言ってんだろ! 産業廃棄物を増やすな!」
俺は頭を抱えた。やはり、この神々は現場の邪魔しかしない。
「……やるぞ。徹底的に洗浄だ」
俺は排水バルブを操作した。ゴゴゴゴ……と音を立てて、汚れた水が抜けていく。
◇
水が抜け、露わになったプールの底は、ヘドロと水垢で黒ずんでいた。
見るだけで精神が削られる光景だ。
だが、俺にとっては絶好の獲物でしかない。
「出るぞ、相棒」
俺が取り出したのは、特別校務員権限で改造した魔導式高圧洗浄機だ。
水圧20MPa。コンクリートすら削りかねない威力がある。
「汚物は消毒……いや、剥離だ」
トリガーを引く。
ブシュアアアアアアアッ!!
強烈な水流が、床のタイルを叩く。
黒ずんだヘドロが弾け飛び、その下から、新品同様の真っ白なタイルが顔を出す。
「おぉ……!」
「……気持ちいい」
後ろで見ていた神々が声を漏らす。
そうだろう、そうだろう。
この汚れた世界が、物理的な力で秩序ある白へとリセットされていく境界線。
これこそが、洗浄作業における最高のアハ体験だ。
「航くん! 遅くなりましたわ!」
そこへ、ジャージ姿の北条凛が駆け込んできた。
手にはデッキブラシ。髪はきっちりと纏め上げている。
「私も手伝いますわ! ……うわ、ひどい汚れ」
「助かる。北条は隅の仕上げを頼む。機械じゃ届かない部分だ」
「了解ですわ!」
凛は躊躇なくヘドロの中に踏み込み、ゴシゴシとブラシをかけ始めた。
無駄のない動き。腰の入ったストローク。……いい筋だ。
「……あら? 私たち、置いてけぼり?」
リリスがぽつりと呟く。
水着のエスティアたちには、この現場のグルーヴ感に入り込む余地などなかった。
◇
作業は順調に進み、床の汚れはあらかた片付いた。
あとは循環パイプの逆洗浄だ。
「……よし、逆噴射かけるぞ」
俺が操作盤のスイッチを入れた瞬間。
ボコッ! ボコボコボコッ!!
排水口の奥から、黒い塊が逆流してきた。
「きゃあっ!? 何ですの!?」
凛が飛び退く。
現れたのは、ヘドロと油脂が凝り固まった、不定形の怪物――グリス・スライムだ。
「グオオオオ……」
悪臭を放ちながら、スライムが膨れ上がる。
生徒たちがシャワーを浴びずにプールに入ったせいで蓄積した、皮脂汚れの集合体だ。
「魔物ですね! 私が!」
エスティアが聖剣を振るう。
だが、剣はスライムの体をすり抜け、逆に粘液がエスティアの服に絡みついた。
「ひっ!? ベトベトして取れません!?」
「物理無効か……なら私の闇魔法で!」
リリスが闇の弾丸を放つが、スライムはそれを吸収してさらに巨大化した。
「嘘!? 私の魔力が……汚れに変換された!?」
「きゃあああ! こっちに来ないでぇぇ! 服が溶けるぅぅ!」
お約束のようにピンチに陥る神々。
ヌルヌル触手プレイの開幕か? 残念だが、ここは神聖なる教育現場だ。
「……騒ぐな。それは魔物じゃない」
俺は冷静に、ポリタンクを持ってきた。
「ただの蓄積した皮脂汚れだ」
俺は腰袋から保護メガネを取り出して素早く装着し、さらに耐薬品性のゴム手袋をはめ直した。
そして、タンクからドボドボと注いだのは、業務用水酸化ナトリウムと温水の混合液だ。
「劇物注意。目に入れば失明するぞ、お前ら下がってろ」
俺は防護装備越しに、安全を確保したうえでタンクを傾けた。
「油汚れには、強アルカリと熱。……化学反応の時間だ」
ジュワワワワワ……!!
液体を浴びたスライムが、激しく発泡し始めた。
「グ、ギャアアアア……!?」
スライムの体が白く変色し、崩れていく。
これは攻撃ではない。
油脂とアルカリが反応して起こる鹸化――つまり、石鹸への変化だ。
「ハイ、中和完了。……ただの石鹸水になったな」
俺はホースの水をかけた。
かつて怪物だったものは、無害な泡となって排水溝へ流れていった。
「……え? 終わり?」
呆然とする神々を尻目に、俺はバルブを閉じた。
「よし、配管洗浄完了。注水開始だ」
◇
1時間後。
プールには新しい水が満たされ、照明を反射してキラキラと輝いていた。
機械音が軽快に響く。異音は消えた。
「ワタル! 見て見て!」
「綺麗になったプールで泳ぎましょう!」
背後から、期待に満ちた声が掛かった。
振り返ると、いつの間にかエスティアとリリスが、際どいビキニ姿になっていた。
「防御力が低すぎるぞ。プールサイドは安全第一だ」
俺は彼女たちを完全に無視し、保護メガネを外してろ過装置の制御盤に向かった。
「泳ぐの? 泳がないの?」
「……静かにしろ。数値が安定しない」
俺が睨みつけているのは、美女の水着姿ではない。
壁に設置された自動水質測定監視盤だ。
> [Monitoring...]
デジタル表示された数値に、俺の全神経が注がれる。
「遊離残留塩素濃度……0.35mg/L。まだ低いな」
「え? 何の話?」
リリスが首を傾げる。
「基準値は0.4mg/L以上だ。殺菌力が足りない。……塩素代替なら二酸化塩素で0.1〜0.4mg/Lだが、ここは次亜塩素酸だ」
俺は手動で塩素注入ポンプの流量を微調整した。
0.01mL単位の緻密な操作だ。
「pH値……7.2。中性。基準値内だが、塩素の殺菌効率を考えれば、もう少し下げて微酸性寄りにした方が理想だ」
「……何言ってるの? ワタルちゃん」
「濁度……0.5度以下。よし、クリア。過マンガン酸カリウム消費量も……問題ない」
俺はモニターのグラフを指でなぞった。
「大腸菌……検出なし。一般細菌……10cfu/mL以下。総トリハロメタン……0.05mg/L以下」
「……あのー?」
「……完璧だ。循環サイクルが安定した」
俺は満足げに頷いた。
全ての数値が基準値をクリアし、かつ理想的なバランスで推移している。これぞ、プロの仕事だ。
「さあ! 数値も完璧なら、飛び込みましょう!」
エスティアが待ちきれない様子で、プールサイドに立った。
「待て」
俺は冷徹に言い放った。
「遊泳禁止だ」
「ええーっ!? なんでですか!?」
「循環したばかりの水は冷たい(20度)。ボイラーで温まるまであと2時間は掛かる。……それに」
俺は腕時計をコンと叩いた。
「17時だ。……俺の業務はここで終わりだ」
俺は道具を片付け、呆然とする水着美女たちに背を向けた。
「お先に失礼します。……戸締まり、頼んだぞ」
俺は更衣室へと消えていく。
「ちょっ、待ってよー!」
「私たち、ただの水着コスプレじゃないですかー!」
神々の悲鳴が、誰もいないプールに虚しく響いた。
「……ふふっ。流石ですわ、航くん」
更衣室の入り口で、ジャージ姿の凛がクスリと笑っていた。
「ブレませんわね。……私も着替えて帰りますわ」
彼女だけが、俺の背中を誇らしげに見つめていた。
色気よりも、実務を取る男。それが俺、佐藤航だ。
こうして、俺のプール開きは、無事に定時で幕を閉じたのだった。
本日も一日ご安全に!




