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第13話:その「水上の楽園」は、ただの循環濾過装置点検です

遊泳の基準値は結構厳しい事を知りました。

放課後の更衣室。

俺、佐藤航は、いつもの学生服から、撥水加工された作業着ツナギへと着替えていた。


「……また呼び出しか」


ため息が漏れる。

今日の依頼主は、あの理事長だ。

『屋内温水プールの循環ポンプから異音がする。業者が来るまで待てないから、君の“耳”で聞いてみてくれ』とのこと。


ただの点検作業だ。さっさと終わらせて帰ろう。

俺は腰袋ウエストバッグにモンキーレンチを差し込み、更衣室を出た。


「ワタル! 待ちたまえ!」

「ワタルちゃん、どこ行くの?」


待ち伏せしていたかのように、エスティアとリリスが現れた。


「……点検だ。ついてくるな」

「点検? 嘘をおっしゃい! 水辺に向かうその装備……まさか『滝行』ですね!? 精神統一のための荒行……私も参加します!」

「やだ、屋内プールでしょ? 密室でアバンチュール……大胆ね」


エスティアは目を輝かせ、リリスは頬を赤らめている。完全に話が通じていない。


「……好きにしろ。ただし、湿気で髪が広がっても文句言うなよ」


俺は彼女たちを無視して、屋内プールへの渡り廊下を進んだ。



ガチャリ。

重い防音扉を開けると、ムッとした熱気と、独特の腐敗臭が鼻をついた。


「うっ……なんか臭くない?」


リリスが鼻をつまむ。

目の前に広がるのは、25メートル×8コースの立派な屋内プール……のはずだった。

水面はどんよりと白濁し、壁面には緑色の藻がこびりついている。


「……汚いですね。神殿の清めが必要です」


エスティアが眉をひそめる。

俺はプールの縁にしゃがみ込み、『保全管理の眼』で水槽と配管の状態をスキャンした。


「……酷いな。循環系統の閉塞だ」


俺はスマホの電卓を叩きながら、ブツブツと独り言を始めた。


「プールの水量は約400トン。……通常なら、凝集剤と塩素にpH調整剤を投入し、オーバーフローさせながらろ過機をフル回転させて水質を復旧させる。その方が、水道代とボイラーの昇温コストを考えれば数十万円は安く済む」


管理者の定石はコストダウンだ。水を捨てずに直せるなら、それが一番いい。

だが、俺の視線はポンプ室の圧力計と、プールの壁面に張り付いたヌメリに注がれていた。


「……だが、今回はダメだ」

「え? ダメなんですか?」

「ヘアキャッチャーが髪の毛と絆創膏で完全に詰まってる。これじゃ循環流量が確保できない。それに、壁面のこのバイオフィルム(微生物膜)……ここまで厚くなると、薬液循環じゃ剥離しきれない」


ろ過機を回しても、すぐにフィルターが詰まってパンクするのがオチだ。

それに、週末のプール開き(納期)までに透明度を戻すには、化学処理では時間が足りない。


俺は電卓を閉じ、決断した。


「コストはかかるが……全換水だ。水を全部抜いて、物理的に削り落とすしかない」

「穢れです! 聖なる炎で水を蒸発させ、浄化しましょう!」

「ボイラーが空焚きで爆発するわ! 絶対にやるなよ!」

「じゃあ、この水を全部ドロドロの美容泥(マッド)に変えて……」

「配管が詰まるって言ってんだろ! 産業廃棄物を増やすな!」


俺は頭を抱えた。やはり、この神々は現場の邪魔しかしない。


「……やるぞ。徹底的に洗浄(クリーニング)だ」


俺は排水バルブを操作した。ゴゴゴゴ……と音を立てて、汚れた水が抜けていく。



水が抜け、露わになったプールの底は、ヘドロと水垢で黒ずんでいた。

見るだけで精神が削られる光景だ。

だが、俺にとっては絶好の獲物でしかない。


「出るぞ、相棒」


俺が取り出したのは、特別校務員権限で改造した魔導式高圧洗浄機だ。

水圧20MPa。コンクリートすら削りかねない威力がある。


「汚物は消毒……いや、剥離だ」


トリガーを引く。


ブシュアアアアアアアッ!!


強烈な水流が、床のタイルを叩く。

黒ずんだヘドロが弾け飛び、その下から、新品同様の真っ白なタイルが顔を出す。


「おぉ……!」

「……気持ちいい」


後ろで見ていた神々が声を漏らす。

そうだろう、そうだろう。

この汚れた世界が、物理的な力で秩序ある白へとリセットされていく境界線。

これこそが、洗浄作業における最高のアハ体験(ASMR)だ。


「航くん! 遅くなりましたわ!」


そこへ、ジャージ姿の北条凛が駆け込んできた。

手にはデッキブラシ。髪はきっちりと纏め上げている。


「私も手伝いますわ! ……うわ、ひどい汚れ」

「助かる。北条はコーナーの仕上げを頼む。機械じゃ届かない部分だ」

了解ラジャーですわ!」


凛は躊躇なくヘドロの中に踏み込み、ゴシゴシとブラシをかけ始めた。

無駄のない動き。腰の入ったストローク。……いい筋だ。


「……あら? 私たち、置いてけぼり?」


リリスがぽつりと呟く。

水着(脳内予定)のエスティアたちには、この現場のグルーヴ感に入り込む余地などなかった。



作業は順調に進み、床の汚れはあらかた片付いた。

あとは循環パイプの逆洗浄だ。


「……よし、逆噴射かけるぞ」


俺が操作盤のスイッチを入れた瞬間。


ボコッ! ボコボコボコッ!!


排水口の奥から、黒い塊が逆流してきた。


「きゃあっ!? 何ですの!?」


凛が飛び退く。

現れたのは、ヘドロと油脂が凝り固まった、不定形の怪物――グリス・スライム(油脂の魔物)だ。


「グオオオオ……」


悪臭を放ちながら、スライムが膨れ上がる。

生徒たちがシャワーを浴びずにプールに入ったせいで蓄積した、皮脂汚れの集合体だ。


「魔物ですね! 私が!」


エスティアが聖剣(光の魔力)を振るう。

だが、剣はスライムの体をすり抜け、逆に粘液がエスティアの服に絡みついた。


「ひっ!? ベトベトして取れません!?」

「物理無効か……なら私の闇魔法で!」


リリスが闇の弾丸を放つが、スライムはそれを吸収してさらに巨大化した。


「嘘!? 私の魔力が……汚れ(カロリー)に変換された!?」

「きゃあああ! こっちに来ないでぇぇ! 服が溶けるぅぅ!」


お約束のようにピンチに陥る神々。

ヌルヌル触手プレイの開幕か? 残念だが、ここは神聖なる教育現場だ。


「……騒ぐな。それは魔物じゃない」


俺は冷静に、ポリタンクを持ってきた。


「ただの蓄積した皮脂汚れ()だ」


俺は腰袋から保護メガネを取り出して素早く装着し、さらに耐薬品性のゴム手袋をはめ直した。

そして、タンクからドボドボと注いだのは、業務用水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)と温水の混合液だ。


「劇物注意。目に入れば失明するぞ、お前ら下がってろ」


俺は防護装備越しに、安全を確保したうえでタンクを傾けた。


「油汚れには、強アルカリと熱。……化学反応(ケミカル)の時間だ」


ジュワワワワワ……!!


液体を浴びたスライムが、激しく発泡し始めた。


「グ、ギャアアアア……!?」


スライムの体が白く変色し、崩れていく。

これは攻撃ではない。

油脂とアルカリが反応して起こる鹸化けんか――つまり、石鹸への変化だ。


「ハイ、中和完了。……ただの石鹸水になったな」


俺はホースの水をかけた。

かつて怪物だったものは、無害な泡となって排水溝へ流れていった。


「……え? 終わり?」


呆然とする神々を尻目に、俺はバルブを閉じた。


「よし、配管洗浄完了。注水開始だ」



1時間後。

プールには新しい水が満たされ、照明を反射してキラキラと輝いていた。

機械音が軽快に響く。異音は消えた。


「ワタル! 見て見て!」

「綺麗になったプールで泳ぎましょう!」


背後から、期待に満ちた声が掛かった。

振り返ると、いつの間にかエスティアとリリスが、際どいビキニ姿になっていた。


「防御力が低すぎるぞ。プールサイド(現場)は安全第一だ」


俺は彼女たちを完全に無視し、保護メガネを外してろ過装置の制御盤(コントロールパネル)に向かった。


「泳ぐの? 泳がないの?」

「……静かにしろ。数値が安定しない」


俺が睨みつけているのは、美女の水着姿ではない。

壁に設置された自動水質測定監視盤(水質モニター)だ。


> [Monitoring...]


デジタル表示された数値に、俺の全神経が注がれる。


「遊離残留塩素濃度……0.35mg/L。まだ低いな」

「え? 何の話?」


リリスが首を傾げる。


「基準値は0.4mg/L以上だ。殺菌力が足りない。……塩素代替なら二酸化塩素で0.1〜0.4mg/Lだが、ここは次亜塩素酸だ」


俺は手動で塩素注入ポンプの流量を微調整した。

0.01mL単位の緻密な操作だ。


「pH値……7.2。中性。基準値(5.8〜8.6)内だが、塩素の殺菌効率を考えれば、もう少し下げて微酸性寄りにした方が理想だ」

「……何言ってるの? ワタルちゃん」

「濁度……0.5度以下。よし、クリア。過マンガン酸カリウム消費量も……問題ない」


俺はモニターのグラフを指でなぞった。


「大腸菌……検出なし。一般細菌……10cfu/mL以下。総トリハロメタン……0.05mg/L以下」

「……あのー?」

「……完璧だ。循環サイクルが安定した」


俺は満足げに頷いた。

全ての数値が基準値をクリアし、かつ理想的なバランスで推移している。これぞ、プロの仕事だ。


「さあ! 数値も完璧なら、飛び込みましょう!」


エスティアが待ちきれない様子で、プールサイドに立った。


「待て」


俺は冷徹に言い放った。


「遊泳禁止だ」

「ええーっ!? なんでですか!?」

「循環したばかりの水は冷たい(20度)。ボイラーで温まるまであと2時間は掛かる。……それに」


俺は腕時計をコンと叩いた。


「17時だ。……俺の業務バイトはここで終わりだ」


俺は道具を片付け、呆然とする水着美女たちに背を向けた。


「お先に失礼します。……戸締まり、頼んだぞ」


俺は更衣室へと消えていく。


「ちょっ、待ってよー!」

「私たち、ただの水着コスプレじゃないですかー!」


神々の悲鳴が、誰もいないプールに虚しく響いた。


「……ふふっ。流石ですわ、航くん」


更衣室の入り口で、ジャージ姿の凛がクスリと笑っていた。


「ブレませんわね。……私も着替えて帰りますわ」


彼女だけが、俺の背中を誇らしげに見つめていた。

色気(水着)よりも、実務(数値)を取る男。それが俺、佐藤航だ。

こうして、俺のプール開き(配管清掃)は、無事に定時で幕を閉じたのだった。


本日も一日ご安全に!

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