ⅳ
それは転機だったのか、それとも這い上がることのできない破滅への入り口だったのか。
街を彩る桜が散って来る夏の予感に胸を焦がす、五月一日のことだった。
教室にも私の居場所はない。
地元の公立校とは比較にならない有名大学附属の中高一貫女子校に入学することができ、もしかしたら何かが変わるかもしれないと淡い期待を抱いていた。
なぜ成績が突き抜けているわけでもなくカネもない私が、こんな学校に入れたのか。
政府が認可したB型BCIの早期被験者となった人間には、様々な社会的優遇措置が取られるからだ。
それなりの成績と内申点も必要だったが、おかげで月に数度のMRIとペーパーテストを解くだけで高額な学費を賄ってもらっている。
一年前。
中学生までの自分を知る人間がほとんどいない場所で、ひっそりと過不足ない学校生活を送れるかもしれない。
その希望は数カ月で消え失せた。
元々レベルの高い進学校だったせいで生徒同士の競争意識も強く、成績上位者がカーストの上位に収まって下の人間を見下すことが常態化していた。
女子校特有の陰湿な空気もその環境を助長しているのだろう。
そんな環境で、私のようなある意味ズルをして入学した人間は真っ先に攻撃される立場だった。
どこから漏れたのかは分からない。
東雲依莉は〈アルジャーノン〉の装用者だ。
噂がいつの間にか蔓延したことで、私はクラスでも最底辺の扱いを受けるようになった。
その日も放課後に秋谷たちから因縁をつけられて、教室で謝らされ土下座を要求された。
やっていられない。
そう思って衝動的に席を立ち上がって教室から逃げてしまった。
それが得策ではないことは分かっていた。
だけど感情を抑えることができなかった。
廊下を駆け抜けて、そのまま美術室に逃げ込んだ。
美術部もない進学校には無用の長物であるその教室に人気などあるわけもなく、隠れる場所としてはもってこいだと思った。
教壇の影に隠れて、蹲って三角座りをして身を隠した。
涙が自然に溢れてきた。
もう限界だと思った。
子供の頃から、誰にとっても東雲依莉は攻撃の矛先だった。
障害を抱えたまま生きていければ、いっそのこと何も知らずに生きていけて幸福だったのだろう。
ある時突然「まとも」になった私を誰もが気味悪がって排斥した。
そして、「宇宙人」と名前をかけて「エイリ」とあだ名するようになった。
その呼び名を、かつて私は心底憎悪していた。
涙でぼやけた視界の先に何かが映った。
教室の奥にイーゼルに立てかけられた絵が置かれていた。
一メートル以上ある巨大な画用紙に描かれているそれは、人が岩を担いでいる様を描いた絵だった。
荒野のような抽象的な背景の真ん中に後ろ向きで隆起した筋肉で巨大な岩を担いでいる。
顔こそ描かれていないが、さぞかし苦痛を伴っているらしい。
全身から汗が吹き出していて、その印象派にも通じる力強いタッチと色彩が、こちらにも痛ましいという感情を与えてくる。
私は呆気に取られて、しばらく夢中でその絵を眺めていた。
「……え、人」
だから、背後に人が迫っていることに気づかなかった。
我に返って、追って来た秋谷たちかと思って身構えて振り返った。
しかし、それは全く予想だにしなかった顔だった。
「二年生の子? こんな教室に何の用なの?」
制服のリボンの色で即座に私が後輩であると判断したらしい。
その人は途端に相合を崩し、後ろに腕を組みながら尋ねてきた。
顔は知っていた。
私のような生徒でも顔を覚えているほどその人は有名人だったのだ。
真篠汀。
一年前の入学式でも挨拶を担当していたから顔を覚えていた、学校の主席で、生徒会に所属は現在は会長を務めている。
その類まれなる美貌に加え、学術芸術問わず様々な賞まで受賞していると風の噂で聞く、才能まで突出した上級生の先輩だった。
そんな有名人が話しかけてくるなんて、まるで想定しなかった。
私は完全に固まってしまった。
しばらく経ってようやく言葉を絞り出すことができた。
「……この絵、あなたが描いたんですか?」
信じることができなかった。
彼女のような輝かしい存在の作品にしては、その作品が観る者に与えてくるのは欝々とした感情だった。
幾重にも重ねられた彩度の低い色彩を観ているだけで、ぼんやりとした疲労感を感じてくるような絵画だった。
すると彼女は静かに歩み寄って、そっとその絵に触れて言った。
「うん。美術部の友達に色々教えてもらって描いてみたの。自由に描いてみたから、別にコンクールに出そうとかは思ってないかな」
真篠先輩は猫のように身を捩って、長い髪をかき上げて風に靡かせた。
その値千金にも思える艶やかな黒髪に目を奪われる。
「これは何を描いたものなんですか? モチーフとか」
「……シーシュポスの神話。知っている?」
私は首を振った。
そこそこ読書は嗜む方だが耳馴染みがなかった。
「ギリシア神話でね、神さまを欺いた罰で岩を山の頂まで押し続けることになっちゃった人なの。そして山頂まで運び切ったらその岩は絶対に下まで転げ落ちてしまう。それを永遠に続けないとならない」
「それは……、とても大変ですね」
私はしばらく考えて、気の利かない返事をした。
その時、扉を叩く音が聞こえてきた。
私はすぐに近くの机に隠れようとして、反射的に身を捩った。
「どうしたの?」
「すみません。私、逃げて来たんです」
真篠先輩は何かを察したらしく、一人で入り口に歩いて行き扉をそっと開けた。
案の定、ノックの主は私を追ってきた秋谷たちだった。
彼女たちは真篠先輩としばらく何かを話して、それからどこかへ行ってしまったようだった。
どうやら庇ってくれたらしい。
再び戻ってきた先輩に、私は頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
横目を向けて、そして先輩は微妙な表情で尋ねてきた。
「別に答えたくなかったらいいけれど、さっきの子とどうかしたの?」
半ば自棄もあったのだろう。
私は正直に答えることにした。
「私、いじめられているんです。〈アルジャーノン〉の装用者なんですよ。だから昔から白い目で見られてきて、この学校でも憂さ晴らしで目をつけられているんです」
呆気らかんとした私の告白に、さしもの真篠汀もたじろぐと思った。
彼女は「そっか」と小さく呟いて、視線を逸らして机の縁を弄んでいた。
しかし急に私の方に向き直ると、破顔してこんなことを言った。
「ねえ、あなた、私とデートしない?」
私は「は?」と声を出して、固まってしまった。
何を突然言い出すんだろうと思った。
あの真篠汀が私なんかとデートだって?
「……なんで、私があなたみたいな人と?」
口ごもりながらなんとか答える、その不躾にも聞こえる返答にも、彼女は一切表情を崩さなかった。
「違っていたらごめんなさい。あなた、もしかして友だちがいなかったりする?」
ここで見栄を張っても仕方がない。
私は首を縦に振った。
「だったら私が友達になって、色々教えてあげる。それで、もしかしたらあなたを救えるかもしれない」
驚いた。
学校中から一目置かれている真篠汀が、実はこんなエキセントリックな人だったなんて。
しかし、それは私が物心ついて初めて受けた純粋な親切心だった。
くすぐったいような感情が心中を占めた。
「……わかりました。その、よろしくお願いします、真篠先輩」
「汀先輩でいいよ。……えっと、エイリちゃん」
秋谷にそう聞いたのだろう。
訂正しようかどうか悩んだけど、結局やめることにした。
いつもは嫌で堪らないはずのあだ名だけど、彼女の口から呼ばれるのは嫌な気がしなかった。
「じゃあエイリちゃん。これからよろしくね」
汀先輩はそう言って笑って手を差し伸べてきた。
私はおずおずとその手を掴んだ。




