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人間の身体が壊れる音を初めて聞いた。
意外と何ともない、すぐに環境へ馴染んでしまう地味な音だった。
吹き出す血の赤の鮮やかさと倒れる人体の鈍重さを僕は初めて知った。
人が死ぬのを見るのがこれで二回目だった。
なすすべなく、僕はその場で吐き出した。
目を覚ますと太陽の光は濃く柔らかくなり、西に傾いていた。
昨夜盗人に散々蹴られた鳩尾が痛んで、弾き出されるように布団から抜け出した。
溺れるほど汗をかいていた。
不快感に引き寄せられてシャワーを浴び、目の前に置かれた小型自販機のような出で立ちのコーヒーメーカーを傍目に、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲み干した。
僕は観念して時間を確認した。十八時を少し過ぎている。
エイリと約束した時間にはあと数時間猶予がある。
今一度布団の上に飛び込んで、シーツを乱暴に掴みながら唸り声を上げた。
脳裏を掠めるのは昨日のエイリが僕に放った糾弾の言葉だった。
あの後彼女はさっさとどこかに消えてしまったので、その表情の理由を訊くことはできなかった。
認めよう。それは、望月蒼の魂を殺すのに十分だった。
自分が張りぼての星を目指し、滑稽な劇を踊り続けた道化だと気づかされた。
結局、僕の人生は全部間違いだった。
いや、必死に蓋をしていただけで、そんなことはとうに分かりきっていた。
誰かを殺しかけた、薄汚い犯罪者である今の僕には何も残っていない。
しかしそれで話が済んだら、まだ絶望は軽かっただろう。
真の絶望は、少女に綺麗ごとをアイデンティティにして快楽に浸るなと詰られてなお、自分の中でそうしてしまいたいという憧れを捨てきれないということだった。
結局僕が死を求めるのも、綺麗なものをこれ以上汚してしまう前に終わらせてしまいたいという打算の産物なのだろう。
もう一度だけ、汀と会いたかった。そして、彼女の理想になれなかった自分を謝りたかった。
真篠汀こそが、僕の正義であり生きる意味そのものだったはずだ。
彼女のヒーローになりたかった。
でもそれはもう叶わない願いだ。
涙が溢れて止まらなかった。
出発する直前、ナガシマさんに借りた本を読み終えることができた。
戯曲だから、小説みたいにそんなにページや文量があるわけじゃない。
それに戯曲というものは、記されているテキストよりも記されていない余白を読み取ることの方が重要だ。
エイリの言っていた通り、カリギュラは生けるペストとして貴賤を問わず多くの人々を殺し、最終的に怒りに燃える貴族たちの反抗によって斃される。
結局、人の子であるカリギュラが不条理に成り変わることなど不可能だったのだ。
彼は終盤、愛妾であり世界の敵となった彼に献身の限りを尽くすドリジュラにこんなことを話す。
本当の苦しみは、苦悩もまた永続しない、という事実に気づくことだ。
愛した人が死ぬことが、どうしても人は死ぬから、その事実こそが人は苦しいのではない。
本当の不条理とは、心臓を握り潰されるような過去の悲劇の痛みと悼みさえ、いつか忘れて人は歩き出せるという希望そのものだ。
カリギュラは愛を取るに足らないものと蔑み、死の間際まで不可能だけを希求する。
彼はついぞ何も果たせず、一つの願いは宙へ浮き、それでも死ぬ直前まで彼の言う論理を押し通した。
彼は最期まで、あまりにも人間らしい人間だった。
僕はエイリのことを考えた。
私は月が欲しい。不可能なものを私は手に入れたい。
彼女は初めて出会った日にそんなことを言っていた。
一体何を思って、彼女は僕にカリギュラの話をしていたのだろうか。




