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帰り道、思いがけなかった出費で持ち金が底をついたことに気がついた。
厄介だった。
コンビニのATMというものは、今やBCI認証のものしか置いていないはずだ。
銀行に寄れば旧来のものも置いてあるだろうが、この時間では閉まっている。
調べてみると少し歩くが、まだ閉まっていないディスカウントストアに置いてあるらしい。
明日を待つのは気が引けたし、今はまだ足を動かしたい気分だったから向かうことにする。
その間もずっと陰鬱な気分が脳裏を占めていた。明日僕は罪を犯す。
殺人ほう助――現代法では立派な重罪だ。
途中で何度も地図を確認して、ようやく到着した。
高層マンションの一階に収まっている店内に入ると、妙なテンションの小煩いBGMが耳についた。
客層は若者が大半を占めているように感じた。
目的のATMは入り口すぐのカウンター近くにあった。
最新型のスタイリッシュな機械に挟まれて所在なさげに鎮座している。
今や預金の引き出しは、脳波の読み取りだけで済むようになった。
信号パターンを抽出して個人を判別する認証は、人類が辿り着いた究極の個人認証だったのだ。
自分の脳ほど身近で、ハックが不可能なプライバシーは他にない。
しかし、僕らはその恵みに預かることができない。
〈脳錠〉はそれ自体がBCIでありながら、脳内に同居するデバイスたちの機能を完全無効化するアンチBCIとして働くからだ。
最低限の生活を営めるだけの金額が振り込まれていた。
一々ATMを探すのも面倒臭いと思ったから家で保管しようと、つい頓着して全額を引き落としてしまった。
受け取った紙幣を財布にしまってズボンの後ろポケットに戻したタイミングだった。
それは本当に一瞬の違和感だった。
不意に下半身の感覚が軽くなった気がした。
財布を落としたのではないかと思い、床に視線を落として筐体付近探したが見つからなかった。
血の気が引いた。
店内を見渡してみると、人の群れを押し除けて入り口へと突進していく背中が視界に入った。
——盗まれた。全身から汗が湧き出して寒気が走った。
その認識に行き着くまでにさらに数秒を要した。
大都会の只中に素寒貧で放り出されることへの恐怖がにわかに湧いてくる。
犯人だと思しき人間は目深に帽子を被っていて、背格好から男性だと分かった。
すぐさま追いかけようと思った。
だが買い物客の群れに阻まれて、駆け足すらままならない状況だった。
「泥棒」と僕は声を張り上げて叫んだが、それに気づいた彼は速度を早めた。
買い物客や店員は何事かという顔で僕を見たが、誰も取り押さえてくれはしなかった。
そうこうしている間に、犯人は店の外へ出てしまった。
多少強引に人々の群れを押しのけて必死に追いかける。
店の外に出れば全速力が出せる。
中学時代、スプリンターをしていた経験が役に立った。
店から三十メートル圏内で、まさに都会の喧騒に紛れようする寸前の犯人を拿捕できる距離まで追いついた。
しかし、そこで気がつく。僕は他人に触れることができない。
触れることはおろか、コミュニケーションを図ることさえできない身の上ではないか。
それでも僕は彼を捕まえようと、がむしゃらに手を伸ばした。
案の定、その手は空を切った。
正面にいたはずの犯人は、気づけば真後ろに立っていた。
すぐに振り返る。
一見小綺麗で善良に見える、黒いマスクをしたひょろ長い黒髪のマッシュヘアの男。
犯人である男は逃げることも止めて、目を大きく見開いて佇んでいた。
「悪いことは言わないから、それを返してくれないか。そうしたら、警察には通報しない。今ここで起きたことはこれっきりですべて忘れてやる」
自分では虚勢を張ってそう言ったつもりだったが、実際それは言葉にはならず、ただ喉の奥から空気が漏れただけだった。
物理的に彼に触れることができず、また話しかけることさえできない。
端から詰んでいたのだ。
「……お前、もしかして〈脳錠〉持ちか?」
心臓が凍りついたような気がした。
やばいと思った瞬間、頭蓋が揺れた。
頬を拳で殴られたのだと気づき、僕の身体は無様に地面へと投げ出された。
「だったらいいや。お前らさ、犯罪者の分際で生意気なんだよ」
打ち捨てられたゴミ袋のように転がる僕の髪を掴んで、犯人は力任せに自分の方へ引き寄せた。
通行人は素知らぬ顔で通り去っていった。
一年以上続いた自堕落な生活のせいで、やはり身体は鈍っていた。
「この金は、俺たちの税金から掠め取ったものだろ。だったら少しぐらい返してもらったってバチは当たらないはずだ」
社会の寄生虫どもが。罵倒と共に革製のソールが露出した鳩尾に突き刺さる。
彼の言葉は無茶苦茶な論理だったが、やはり僕には言い返すことができない。
薄れる視界に閃光が走り、言葉の代わりに胃酸が喉を灼きながら口から漏れた。
〈脳錠〉持ちへの差別は、現代の社会問題として暗に存在している。
僕らは一般人に干渉することができない。
脅迫されて財産を奪われようが、いかに理不尽な理由で暴力を受けようが一切の抵抗を禁じられている。
過去に凄惨な事件の被害者となったケースも少なくはない。
管理部に報告すれば然るべき調査と保護を受け持ってもらえるはずだが、現在進行形で根なし草の僕には当てはまらないし、この状況を潜り抜ける役には立ってくれない。
男は幾度も「犯罪者が」と蔑みの言葉を吐いて僕を蹴り上げた。
もしかしたら、僕の財布を盗んだのは生活苦に起因する出来心だったのかもしれない。
それでも、相手が犯罪者であればどんな所業を行っても罪悪感はない。
それはそうかもしれない。
なぜなら彼らは悪であり、自分たちは正義という盾で殴りつけているだけだから。
止まない暴力で薄れゆく意識の中で、僕はナガシマさんの言葉を思い出していた。
倫理なんて実際ろくでもないものだと彼は言っていた。
何時か身に沁みてそのことを理解すると、も。
不意に視界が開けた。
「無様ですね」
蹴られ過ぎて感覚が麻痺していたのか、いつの間にか暴力が止んでいたことに気がつかなかった。
犯人の代わりに目の前にいたのは、黒光りする警棒を突き立てるように差し出すエイリの姿だった。
「……どうして、ここに?」
散々蹴られて血が滲んだ腹部を手で抑えながら、呻きとともに問いかけた。
「明日の計画で言い忘れたことがあったので、跡を追ってきたんですよ」
犯人はコンクリートに打ち捨てられていた。
腰を抜かしたように地面で後ずさりをしながら、豆鉄砲を食らったような顔を浮かべていた。
突然虚空から殴られた上に、彼には僕が空気に話しかけているように見えている。
やがてお手本のような叫び声をあげて逃げ出した。
エイリは僕の財布を投げるように渡してきた。
僕は羞恥と安堵が半々の心持ちで「助かった」と言った。
「あなたって意外とロクな目に遭わない質なんですね。何もしないでいても、いつか勝手に死ねるかもしれませんよ」
「できれば悪運が強いって言って欲しいな」
「減らず口を叩ける余裕はあるんですね。それとも助けてあげない方が良かったですか?」
「そうでもないよ。僕だってこんな見知らない場所で無意味に野垂れ死にたくはなかった」
ほんの軽口でそう言ったつもりだったが、何かのスイッチが切り替わったようにエイリは明確な侮蔑の視線を僕に向けてきた。
しまった、と反射的に思った。
「……贅沢な話。あなた、死にたいんですよね。そんな人間が死に方とか綺麗に死にたいとか、高望みしないでください。鼻につきます」
彼女が怒りの感情を見せるのは初めてだった。
確かに僕のような人間が死に方に対して注文をつけるのは筋違いだったかもしれない。
模範的な自殺志願者はきっと、死に方だとか死んだ後だとかに頓着しない。
しかし、なぜ僕の軽口が彼女の逆鱗になりえたのか分からなかった。
冤罪で教室の廊下に立たされているかのような理不尽を覚えながら、僕は仕方がなく謝罪した。
「ごめん。不用意な発言だったかもしてない」
エイリは続けて何か口にしたそうだったが、急に頭が冷えたのか不機嫌そうに顔を背けて口を閉じた。
「分かっていますよ。あなたに怒っても仕方がない。……でも、電車でのあなたたちの会話を聞いて、私にも腑に落ちたことがあった。天啓を受けたと言った方がより正確かもしれませんね」
一転して僕を真っ直ぐ見据えながら、彼女は自嘲めいた表情で言葉を紡いだ。
「優しさというものがいかに欺瞞か、私も気がつきました。だってそうでしょう? 特段魅力もない無価値な人間が最後に辿り着くのが優しさじゃないですか。優しさを誇ることに元手はいらない。そんな奴ら、他人を呪うことしか息ができなくなった人間よりマシだっていうだけの話です。いや、自分とは違う人間を排斥しようとするだけ、より罪深いかもしれない」
彼女の痛切な言葉は、僕が信奉していたものをその時確かに殺した。
「全部あなたに言っているんですよ、望月蒼」
僕のTシャツの裾を掴み引き寄せながら、彼女は慟哭するように言った。
理由は分からない。いや、分かるはずがない。
腕の乾き始めた傷がずきずきと痛んだ。




