iii
それはきっと僕の人生で最良の瞬間だった。
ふと疲れて目を閉じた時、暗闇の中で自然と再生されるのはいつも変わらずその時の光景と情動、汀の笑顔だった。
しかし、現実というものは得てして無情だ。
僕と彼女の歩幅は時が経つにつれて、少しずつ確実に離れていった。
汀は時を経るごとに美しい女性に成長していった。
そして、幼少期に降りかかった逆向を糧とするかのように自らの優秀さを開花させていった。
六年生になる頃には塾の全国模試で全国三位を取り、僕たちが生まれた地域の子どもはほとんどが進学する公立中学ではなく、より優秀な隣町の私立の中高一貫女子校に進学することになった。
放課後にその話を汀から打ち明けられた時、正直僕はほっとした。
休み時間に汀が担任と協議している姿は何度か目にしていたし、共にする夕飯の席で何か窮屈げにしている気配があったから、薄々はこうなるだろうとは思っていた。
さらに時間を費やして成長していった時、果たして僕は汀の隣に立てるのか。
自信がなかった。
今の真篠汀の姿に、もはやかつての小さい少女の面影はなかった。
他の同級生たちが蛹になって殻に籠り始めた時に、彼女はすでに成虫になって遥かな青空を飛び回っていた。
それでも僕は一ミリも減ることなく、彼女のことが好きだった。
女子校だったら、少なくとも他の男に取られる可能性は低いのだろう。
学校は違ったとしても、別に彼女がここから引っ越すわけではないのだ。
会いたいと思えばすぐに会うことができる。
だから僕は彼女に「応援している」と告げた。汀は「ありがとう」とだけ返し、無言で軽く抱きしめてきた。
久しぶりに感じた彼女の直接的な体温のせいで、僕は一晩中寝入ることができなかった。
次の日から僕は覚悟を決めた。
人が変わったように、勉強に励み、授業に取り組んで、以前にも増して他人と交流してその力になることを志した。
大切にしていたゲームも漫画も、全て土を掘って庭に埋めてしまった。
真篠汀にとって、幼馴染以外の何者かにならないといけないと思った。
汀は近い未来、輪をかけて魅力的な女性に育っていくだろう。
その時に彼女の隣に並び立つには、あらゆる努力を肯定して誰からも認められる正義の人になるしかない。
そうしなければ、あの約束を果たすことはできない。
その強迫観念に駆られて、僕は走り続けることした。
そのマラソンにランナーズハイなど存在しない。
ただ掠れてゆく見知った背中を追い越せるようにとだけ願って、足を動かし続けた。
中学生になって、僕たちはとうとう離れ離れになった。
かつてはほとんど毎日を過ごしていたのに、汀と会う機会は二週間に一回もあれば運がよいと言えるほどに激減した。
僕は夜通し猛勉強をし、常に学内一位の成績をキープした。
部活動は生徒会を選んで校内の奉仕に努め、分け隔てなく周りの人々と接して信頼を獲得することを至上の格率とした。
贔屓目に見ても運動神経も容姿も人より多少は優れていたし、僕はいつの間にか両手で友人たちを抱えていた。異性に告白されたことも片手では数えられないほどあった。
血の滲む努力を対価に、僕はおよそ誰もが羨む理想的な学生生活を手にしていた。
だけど、そんなものに興味はなかった。
僕には真篠汀しか視えていなかった。
汀は、すれ違えば大抵の男が振り向くほど端麗な容姿に成長していた。
短かった髪を腰にかかるほど長く蓄えるようになり、まさに大和撫子と呼ぶのが相応しいような女性になった。
彼女の素質は開花し続けるばかりで、進学先でも入学当初から主席の座をほしいままにしているらしい。
かつての面影と言えば、猫のように身を捩るいつもの癖ぐらいのものだった。
彼女と再会することは、僕にとって至福であると同時に責苦でもあった。
いつも僕は怯えていた。
彼女の口から「好きな人ができた」とか「気になっている人がいる」とか、そんな言葉が飛び出してこないか。
笑ってしまうだろう。
すぐに告白すれば、そんな血を吐くような苦痛に満ちたマラソンは終わったのかもしれない。
だけど、僕には幼馴染という既得権益を失うリスクを負ってまで、彼女との相思に賭ける度胸がなかった。
どれぐらいのペースで、どこまで走り続ければ汀と歩幅を合わせることができるのか、ついぞ分からなかった。
きっとこんなことを話せば、汀は笑い飛ばすように言ってくれただろう。
「今でも蒼は、私にとって憧れだよ」
その純朴さと優しさに甘えている自分が嫌で堪らなくて、僕は考えなしにただ足を早めることしかできなかった。
高校は電車で一時間以上かかる県内有数の進学校に通うことになった。
中学校ではトップだった僕の成績は、背伸びした高校に入学したせいで目に見えて下がった。
それでもなんとか踏み止まるために、勉強時間は倍増し、いつしか睡眠時間さえまともに取れない生活に染まってしまった。
その頃、汀と顔を合わせる機会は二ヶ月に一度ほどだったか。
以前は彼女と出会うことに一抹の恐怖を感じていたが、その頃には一周回って彼女と過ごす時間は余裕のない生活の唯一の癒しとなっていた。
生活の苦しさは、モルヒネのように僕から正常な感覚を奪っていった。
僕は幼馴染という肩書きを不正利用して彼女を色々な場所に連れ出した(大抵、町の中心にある小さな水族館だったが)。
今さら、彼女に近況だとか最近の活躍だとかを積極的に聞こうとはしなかった。
どうせ彼女は僕の知らない才能を発揮して、僕の知らない評価を勝ち取っているのだ。
母親とか旧友からその噂は漏れて聞こえてきたが、なるべく脳内からシャットアウトして彼女と接することに努めた。
しかし、彼女の常人離れした美しさだけは無視することができなかった。
その眩しすぎる光は、いくら厚い布で目を隠そうが漏れ出して網膜を焼いた。
町中で汀と歩いている時は、いつも通行人にすれ違い様不躾な眼差しを向けられた。
その黒髪とそれを束ねるリボンが風に泳いだだけで、どれだけの視線が釘づけになっただろう。
しかし結局、彼女が他の異性に心を奪われることはなかった。
あまりに超然とした才覚は、良くも悪くも他者を畏怖させ内省を促してくる。
彼女に見合うだけの男が、この町には一人もいなかったというだけの話だ。
いっそのこと、僕は彼女の美しさを疎んでさえいたのかもしれない。
それが僕たちの距離を遠ざけるのなら、いっそのことそんなもの消え去ってしまえばいい。
もしあの日のような「事故」が再び起きて汀の全てを奪っても、僕だけは彼女の隣から離れることはないのに。
そんな恥ずべき妄想を巡らせることも再三ではなかった。
僕はどうしようもない馬鹿だった。
いずれそんな懊悩の時さえも幸福であったと知ることになる。
やっと汀の背中に手が届きかけた瞬間、不意に彼女の全身は消え失せてしまった。
つまらない身の上話は以上だ。
真篠汀と望月蒼の二人の物語はこれで完結だ。
幾度となく書かなければならないが、真篠汀は凌辱されて去年の五月一日に自ら命を絶った。
僕と過ごした町の端にある海岸で、彼女は身を投げて死んだ。
その幼馴染は犯罪者の烙印を押されて、生き恥を晒したまま今日も生きている。




