終章 西浦真帆と青柳良馬
青柳先生のベッドの上で夜は更けていく。灯りを落とすと、窓にかけた濃紺の遮光カーテンの間から洩れる隣りのビルの光がぼんやりと室内を照らす。
「……真帆ちゃん」
低い声が私を呼ぶ。大好きな甘い声。
「はい。何ですか、先生」
「真帆ちゃん」
繰り返される声。それだけでドキドキしてしまうけれど、……ちょっとかすれてないか?
「青柳先生?」
私は手を伸ばして彼の顔に触れた。熱い。熱いぞ。情熱の炎的な意味でなく。
「ちょっと電気つけてもいいですか。先生、体温計あります?」
「そこの……サイドテーブルの抽斗……」
かすれた声はそのまま咳になった。私は起き上がって灯りをつけ、抽斗の中を探る。うちで見慣れた解熱剤と一緒に体温計が無造作に放り込んであった。
熱を測らせている間に、冷蔵庫にあったスポーツドリンクを取りに行く。
戻って来てから体温計を受け取ると、案の定三十八度を軽々と越えていた。
「ごめんなさい、やっぱりうつしちゃいましたね」
「いえ……真帆ちゃんのせいでは……。真帆ちゃんこそ熱があったんじゃ……」
「私はもう平気です。休んだら楽になりました。先生、とりあえずスポーツドリンク飲んでください。あと解熱剤も飲みましょう」
先生が薬を飲むのを確認する。効くといいんだけど。
「これで様子見て、明日は病院に行きましょう。かかりつけの病院とかありますか?」
「いえ……僕、あんまり病気はしないので……」
過呼吸持ちの先生だが、体は丈夫なのか。いや、外出しないから外から病原菌をもらってくることが稀なだけか。
「じゃあ近くの病院を調べておきますね。眠ってください。あ、タオル少し使わせてもらっていいですか? 水にぬらしたタオルを腋に挟むと気持ちいいですよ」
青柳先生は笑った。
「真帆ちゃん、みさぴょんさんみたいですね」
えっ。それはほめてるのかけなしてるのかどっちなんだろう。
「まあ、母にしてもらってたことを思い出してやってるだけなので。青柳先生のうちでは、熱が出た時に必ずすることってあります? してほしいことがあったらやりますけど」
「別に……薬飲めとか……そのくらい……」
ゴホゴホと咳き込みながら先生は言う。
「ごめんなさい……せっかく真帆ちゃんが泊まってくれてるのに……。え、何でもしてくれるって言いました……?」
「何でもとは言っていませんが看病に必要なことならします」
今、何を考えた三十一歳成人男性。
「看病かあ……そうですよね……それはそうですよね……」
残念そうにするなや、熱を出している人。
「大丈夫……あの、傍にいてください。一緒に寝てくれるだけでいいです……」
そう言って先生は子供みたいな顔で優しく笑った。ちょ、それ反則。そんな顔を見せられたら心臓わしづかみにされちゃうよ!
「そ、添い寝はしますよ」
顔が赤くなっちゃった。恥ずかしくて青柳先生の顔が見られない。
「良かった……。抱きしめていていいですか」
「いいですけど」
抱きしめられるとやっぱりいつもより熱い。
私は先生の髪に触れる。やわらかい。ふかふかの猫みたい。
時々咳き込む先生の呼吸が、寝息に変わっていくのを夜の中じっと聞いている。
青柳先生と私が初めて一緒に過ごした夜は、そんな風に過ぎていった。
引きこもりで免疫力が落ちていたらしい先生は、結局四十度を超える熱を出した。対応に困った私が青柳先生のおうちに連絡を取ったところ、お父さんが車を出して下さることになったりして結構な騒ぎだった。
ちなみに一緒に行った病院で、後ろから青柳・父に呼ばれた私はあわてて振り向こうとして転びそうになり受付のカウンターに肘を強打した。青柳一族と接近するたびにどこかを強打する呪いはまだ継続しているらしい。
一週間ほど泊まり込んで看病することになった。私はこの人にもう少し体力をつけさせないとダメだと思った。食事と、あとは運動だな。まずは日光に当たるところから。近所の散歩から始めれば良いのだろうか。
私たちが二人で過ごす日々はまだ始まったばかりである。
(終)




