第1話 「今度は、来る?」
風が、草を撫でていた。
丘一面の草が、その風に従って、ゆるやかに揺れている。
寄せては返し、また寄せる。波のようでもあり、息のようでもある。
光が、眩しかった
空は高く、青く、どこまでも澄んでいた。
雲が一つ、白く浮かんでいる。
その雲の端が、陽光を受けてわずかに金色に縁取られている。
柔らかく、温かく、何も責めない光。
草の匂いがした
青い匂いだった。土の匂いも混じっている。
湿っているが、不快ではない。
むしろ、深く息を吸い込みたくなるような、そういう匂いだった。
どこかで花が咲いているのか、甘い何かがそれに溶けて、風が運んでくるたびに、鼻をかすめては消えていく。
虫の声がした
名前も知らない虫の声が、草の中のあちこちから聞こえてくる。
それぞれが勝手に鳴いている。
だがその不規則な重なりが、不思議と耳に心地よかった。
静寂ではない
だが、騒がしくもない
生きているものだけが作れる、そういう音の層だった。
青い草の匂い
土の匂い
どこかから漂う、甘い花の匂い
風が吹くたびに、それらが混ざり合って、また離れていく。
── そこに
男が一人、倒れていた。
最初に届いたのは、匂いだった。
草の匂い
土の匂い
次に、光だった
瞼の裏がオレンジ色になっている。
龍司は、ゆっくりと目を開けた。
── 空が、あった
青い空が、視界いっぱいに広がっていた。
しばらく、そのまま見ていた。雲が一つ、ゆっくりと流れていく。
風が草を揺らす音が、耳の奥まで届いてくる。
体を起こしてみた。
”痛みが、── ない”
龍司は、そこで止まった
───”ない”
腹も、胸も、肋骨も。
あれだけ確かにあった熱が、重さが、どこにもなかった。
── 手を腹に当てた
スーツの生地が、指に触れる。
確かめるように押す。
”痛くない”
スーツを見た。
血が、── ない
あれだけ黒く染まっていたはずの生地が、どこにも汚れていなかった。
”皺すら、ない”
仕立てたばかりのように、整っている。
龍司は、もう一度、自分の手を見た。
”傷が、ある”
古傷は消えていない。
だが、昨夜の路地でできたはずの傷が、どこにもなかった。
── 何だ、これは
周囲を見渡した
─── 草原
見渡す限り、草と空だけが続いていた。
街がない
道路がない
アスファルトがない
ネオンが、ない
”日本ではない”
その結論だけが、静かに出た。
── どこかは、分からない。
なぜここにいるのかも、分からない。
体に傷がないことも、スーツが綺麗なことも、何一つ分からない。
── 分からないことを考えていても、何も状況は変わらない
草原の風が、正面から吹いてきて、スーツの生地を揺らして、通り過ぎていく。
どうするか、どこへ向かうべきかを考えていたとき。
”気配があった”
小さな気配だった
殺気では ── ない
敵意でもない
ただ、何かが近づいてくる。
龍司の体が、静かに反応した。
── 重心が低くなる
── 呼吸が、浅くなる
だが、構えるほどのものではないと、皮膚が告げていた。
長年の経験が、そう言っていた。
”危険ではない”
ならば、見ていればいい。
── 草が、揺れた
風ではない揺れ方だった。
草の中を、何かが掻き分けて進んでくる。
龍司の座っている場所から、十メートルほど。
草丈と比べても、かなり小さい。
”揺れが、止まった”
龍司の目の前で。
─── 一瞬の静止。
それから、草の間から、顔が覗いた。
「………見つけた」
子供だった。
十歳前後の──
それだけ見れば、ただの子供だった。
だが龍司は、その子供から目を離せなかった。
美しい金色の髪が、陽光を受けて、きらきらと輝いている。
風が揺らすたびに、光が散って、消えて、また生まれる。
顔立ちが、整っていた。
白い肌
細い顔
少し長い耳
どこかこの世のものとは思えない、そういう整い方だった。
そして── 瞳
美しい青だった。
今日の空と、同じ色。とても澄んでいる。
─── 綺麗だ
だが、見ていると、気づいた。
綺麗なだけではない。
その奥に、深さがある。
底が見えない深さが、あの青の向こうに沈んでいる。
吸い込まれるような
見ているこちらが、逆に見られているような。
この瞳は、何かを知っている。
そう思いかけた瞬間。
草を掻き分けてきたその子供が、最後の草を抜けて、龍司の目の前に出てきた。
そしてそのまま、迷いなく距離を詰めてきて──
「…親分」
細い腕が、龍司の腰に回っていた。
── 思考が、止まった
それまで積み上げていた全てが、一瞬で吹き飛んだ。
その小さな細い腕が、龍司の体を掴んでいる。
龍司は、動かなかった。
やがて、子供がゆっくりと顔を上げる。
あの青い瞳が、真っ直ぐに龍司を見ている。
風が、金色の髪を揺らしていた。
「……今度は、来る?」
龍司は、すぐには答えなかった。
── 今度は、来る
その言葉の意味が、分からなかった。
今度は、ということは、前があったということだ。
だがこの子供と会うのは、今日が初めてのはずだ。
「……お前、俺を知ってるのか?」
子供が、少しだけ首を傾けた
「……分からない」
「ならなぜ、親分と呼んだ?」
また、間があった
「……分からない。でも、そう呼びたかった」
それだけだった。
嘘ではない。
本当に分からないのだと、あの瞳が言っている。
龍司は、一つだけ息を吐いた。
今は、これ以上聞いても仕方がない。
「お前… 名前は?」
「……サキミ?」
「サキミか… サキミは、人がいる場所を知っているか?」
「知ってる」
今度は、即答だった。
サキミは龍司の腰から腕を外して、草原の向こうを向いた。
地平線のやや右手の方向だ。
それから、小さな手を差し出してきた。
龍司は、その手を見つめる。
── 細く、白く、傷一つない手
少しだけ間を置いて、龍司はその手を取る。
── 小さくて温かかい
ただ、それだけのことが、妙に鮮明に突き刺さった。
そして立ち上がり、二人は歩き始める。
草を踏む音がする
虫の声が混じる
風が草原を撫でていく
金色の髪が、陽光を弾いていた。
空は高く、青く、どこまでも続いていた。




