~回想~ 後編 怒りのない雨
── 沈黙が、続いた
美咲は急かさなかった。
龍司が答えを探しているのか、それとも答えを必要としていないのか、そのどちらとも判断せずに、ただそこに立っていた。
雨の音だけが、二人の間を満たしていた。
龍司は、窓の外を見たままだった。
景色は、まだ歪んでいる
何も変わっていない
だが、さっきとは何かが違う気がした。
この女の言葉が、この白い部屋の空気を、少しだけ変えていた。
変えた、と認めたくはなかった。
だが、そうだった。
美咲が、また顔を近づける
今度は、さっきよりも自然に──
さっきの近づき方は、観察するための距離だった。
今の近づき方は、違う。
何かを届けるための距離だった。
「親分みたいな人とか」
距離が、ゼロに近い。
龍司の目が、わずかに揺れる。
揺れた理由が、自分でも分からなかった。
── 怒りじゃない
警戒でもない
それよりも、もっと奥の方にある何かが、かすかに動いた。
長いこと使っていなかった部屋の、錆びたドアが、ほんの少し軋んだような感覚。
「……バカか」
「よく言われます」
即答。迷いなし。
その即答の軽さに、龍司は一瞬、意表を突かれた。
傷ついた様子もない。
むしろ、慣れているような顔だった。
バカと言われ慣れている。
それでも変えない。
その決意が、言葉の速さに出ていた。
それが、この女の"答え"だった
「普通に生きろよ」
龍司は、視線を逸らす。
窓の外へ──
雨が続いている。
ガラスを伝う水滴が、また新しい線を引いている。
さっきと同じ場所を流れて、さっきと同じように歪んで、さっきと同じように消える。
だが同じ水滴じゃない。
すべて、別のものだ。
そんなことを、なぜか考えた。
「お前みたいなのは、そっち側の人間だろ」
声が、少しだけ掠れた。
肋骨のせいじゃない、と分かっていた。
美咲は、答えない
代わりに──
龍司の手を、取る。
大きくて、傷だらけの手
節が太く、皮が固く、いくつもの古傷が白い線を作っている。
── 綺麗じゃない
優しさとは縁遠い形をした手だ。
この手が何をしてきたか、見れば分かる人間には、すぐ分かる。
血と暴力の歴史が刻まれた手。
それを──
── 両手で、包む
龍司は、動かなかった。
払い除ける理由が、出てこなかった。
この手を振り払ったことは、何度もある。
近寄ってくる人間を、何度も遠ざけてきた。
やり方は知っている。
言葉でも、目でも、沈黙でも。
だが今、何も出てこなかった。
美咲の手は、小さかった。
当然だ、と思った。
この男の手と比べれば、誰の手でも小さい。
だが、その小ささが、妙に、はっきりと分かった。
── 熱があった
生きている人間の、ただの熱。
それだけのことが、この瞬間、妙に、鮮明だった。
そして――
また、顔を近づける
「ちゃんと」
距離は、ほぼ触れる寸前──
「治してください、親分」
優しい声だった
だが
その言葉は―― 傷の話じゃない
龍司には、分かってしまった。
肋骨の話じゃない
肩の話じゃない
包帯で覆われた、この身体の傷の話じゃない。
もっと違うところにある、もっと古い、もっと深い、名前のついていない何かの話だと、この男には、分かってしまった。
分かりたくなかった
分かってしまった
「私にだけでいいです」
少しだけ、笑う
「頼ってください」
雨が、強くなる。
窓を叩く音が、少しだけ大きくなる。
ガラスの向こうで、景色がさらに歪む。
街の灯りが滲んで、ぼやけて、もう何の形だったかも分からなくなっていく。
輪郭が溶けて、全部がひとつに混じり合う。
── 美しい、と思った
この男がそんな言葉を使うことは、まずない。
だが、そう思った。
歪んでいるから、美しい。
形を失っているから、美しい。
正確に見えないものだけが持つ、何かがあった。
龍司は――
手を振り払わなかった。
振り払えなかった。
どちらが本当のことか、自分でも判断できなかった。
ただ、その手が、そこにあった。
小さくて、温かくて、何の目的もなく、ただ包んでいる手が、そこにあった。
「……知らねぇよ」
それが、限界だった。
認めるでも、拒むでもない。
その中間のどこかにある言葉。
この男にとって、それが精一杯の開き方だった。
「はい」
美咲は頷く
それでいい、と言うように。
急かさない
求めない
もっと言えとも、それだけかとも、言わない。
ただ─ ”はい”と言う
この男の「知らねぇよ」を、そのままの形で、受け取る。
そして、少しだけ距離を離す。
ほんの少しだけ。完全には離れない。
その距離感のまま
龍司を見ている
逃がさない距離
でも、押し付けない距離。
その絶妙な間合いを、この女は最初から知っていたかのように、自然に保っている。
龍司は、窓の外を見た。
雨は、まだ続いている。
ガラスを伝う水が、また新しい線を引いている。
一本が流れて、消えて、また別の一本が生まれる。
終わらない
止まらない
── ただ、続く
この雨は、どこから来て、どこへ行くのだろう。
考えたことがなかった。
雨は降るもので、濡れるもので、それ以上でも以下でもなかった。
景色を歪めるもの、というくらいの認識しかなかった。
でも今、その水の行方を、少しだけ考えた。
どこかへ、辿り着くのだろうか──
それとも、ただ流れて、消えるのだろうか。
雨が流れる
世界が歪む
その歪みの中で――
龍司は
初めて
”触れられた”と思った。
この大きな、傷だらけの、汚れた手が。
この男ごと、そのままの形で、包まれた。
どこかで、水が滴る音がした。
点滴だったかもしれない。
雨だったかもしれない。
区別がつかなかった。
そして――
その手は──
二度と、届かなかった
2026年5月5日 5時50分 (5話投稿)
初めて投稿致します。拙い文章でお見苦しいことと思いますが、初めてのことですので何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。楽しんで頂ければ幸いです。
次回、第1話 「今度は、来る?」
投稿予定は 5月15日 18:00 です。




