氷の令嬢、依頼
重厚な鉄扉の先は、新宿の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
紫煙の香りと、高級そうな革張りのソファ。
壁にはモニターが並び、迷宮内のライブ映像や裏レートの数字が絶え間なく流れている。
部屋の奥、巨大なデスクに座っていたのは、想像していた「裏社会の怪物」とは程遠い人物だった。
「……身なりからして、先ほどのチンピラたちを伸した『暴れ馬』には見えないけれど。あなたが『黒犬』に用があるという結城誠さん?」
冷徹な響きを持つ声。
そこにいたのは、漆黒のスーツを完璧に着こなした若き女性だった。
長い黒髪を夜会巻きにし、縁なしの眼鏡の奥から鋭い瞳が俺を射抜く。その美しさは、どこか人を寄せ付けない刃物のような危うさを孕んでいた。
「マスター、この人……綺麗な顔してますけど、すごく『冷たい』です。それに、なんだか追い詰められているような気配がします」
俺の隣で、エク子が小声で囁く。
彼女の直感は、ステータスの一部として無視できない精度を持っていた。
「……俺の名を知っているとは、仕事が早いな。あなたが『黒犬』のボスか?」
「いいえ。私は幹部の一人、柊まどか。この事務所の責任者よ」
まどかは感情の読めない顔で書類に目を落とした。
ギルド職員時代の記憶が蘇る。
確か黒犬の現ボス、柊宗一朗には数人の子供がいるが、このまどかは「妾の娘」だったはず。
どうやら正妻の子らからは疎まれ、個人の能力は高くとも、こうして場末の弱小事務所を任されるに留まっているらしい。
この事務所の活気のなさは、そのまま彼女の組織内での立ち位置を物語っていた。
他の派閥に潰されるのも時間の問題――そんな焦燥が、彼女の冷徹な仮面の下に隠れている。
「単刀直入に言おう。これを裏のルートで捌いてほしい」
俺はインベントリから、今日手に入れた【豚鬼将の黄金肝】を取り出し、デスクに置いた。
「……ッ!?」
まどかの瞳が大きく見開かれた。
彼女は手袋をはめた手で、震える指先を抑えながらその黄金の塊を凝視する。
「これは……オークの上位変異種からしか採取できないはずの超希少部位。それも、全く劣化していない『完璧』な状態……。どこでこれを?」
「入手経路は問わないのが、この世界のルールだと聞いているが?」
まどかは深く息を吐き、眼鏡を指先で直した。
一瞬、彼女の瞳に強烈な「欲」が浮かんだのを俺は見逃さなかった。これだけの代物があれば、彼女の立ち位置は一変するだろう。
だが、彼女はすぐに冷たい表情に戻った。
「素晴らしいわ。……けれど、断らせてもらうわ」
「何だと?」
「裏の世界で最も重んじられるのは『信用』よ。あなたは昨日リストラされたばかりの、適性なしの元事務員。そんな人間がどうしてこれを持てるのか、その背景にどんなリスクが眠っているのか……保証が何一つないわ。そんな素性の知れない人間と取引して、組織を危険に晒すわけにはいかないの」
まどかの言葉は正論だった。
裏社会は、実績のない人間にはどこまでも冷たい。
「……美桜……妹には時間がないんだ」
俺は拳を強く握りしめた。
一ヶ月。一億円。ここで足踏みをしている暇はない。
「どうしても『黒犬』のボスに会わなければならない。このアイテムを直接、あるいは同等の対価を持って、ボスの信用を買い取りたいんだ」
まどかは俺の必死な目を見つめ、沈黙した。
彼女にとっても、これは大きな賭けなのだろう。この男を利用して、自分を軽んじる本家を見返すか、あるいは共倒れになるか。
やがて、まどかは薄く微笑んだ。
それは氷が割れるような、残酷で美しい笑みだった。
「いいわ。そこまで言うなら、あなたに『実績』を作るチャンスをあげる。その黄金の肝の取引を認めるかどうかは、その後の働き次第よ」
「条件は何だ」
「いくつかの依頼を受けてもらうわ。私の立場を脅かしている敵対勢力の排除、あるいはダンジョンの特定階層での素材調達……。一介の事務員には不可能に等しい、命がけの仕事よ」
「マスター……この人、マスターを便利屋として使い潰すつもりですよ」
エク子の忠告。
…わかっている。
彼女もまた、泥沼の中で必死に生きるために、俺という浮き輪を掴もうとしているのだ。
「いいだろう。その依頼、すべて引き受ける。その代わり、完遂した暁にはボスの席まで案内してもらうぞ」
「……面白いわ。その威勢がただの虚勢ではないことを祈っているわね、結城誠」
まどかはデスクの引き出しから、一通の封筒を取り出し俺に投げた。
「最初の依頼よ。……まずはあなたの実力、見せてもらうわ」
俺は封筒を掴み、中身を確認する。
妹を救うための戦いは、ダンジョンの外でも加速していく。
適性なし。
そのレッテルが、世界を驚かせるための最大の反動になる日は、そう遠くないと願いたい。




