おばけを殴る権利と、取引
Aランク上位フロアボス『コキュートス・レイス』の核を、俺の魂を込めた黄色い袋(物理)が粉砕した瞬間、広間を埋め尽くしていた蒼い霧は一滴の塵も残さず消滅した。
後に残ったのは、静寂を取り戻した鏡の広間と、肩で息をする俺、そして――。
『――Aランク上位フロアボス【初討伐ボーナス】を確認』
『――条件達成。【存在強奪】が発動します』
『――【筋力】(+150)、【耐久】(+150)、【敏捷】(+100)』
『――【知力】(+0)』
「……よしっ! やっぱりフロアボスの初討伐は実入りが違うな!」
俺は拳を握り締め、体内に溢れ出す爆発的な「力」の奔流を噛み締めた。
一気に100単位で跳ね上がったステータス。先ほどまで悲鳴を上げていた筋肉が、新たな力を得て鋼鉄以上の密度へと再構成されていく。
「おめでとうございます、マスター! ステータスの暴力がまた一歩、神の脳筋領域に近づきましたよ!」
「ふん。……当然です。私の演算リソース(マスターの広背筋)がこれだけ強化されれば、もはやAランクの魔物など、計算するまでもないノイズに過ぎません」
エク子がポンポンを振り回し、トラ子がホログラムの眼鏡をスッと押し上げながら、それぞれのやり方で勝利を祝う。
『――さらに対象の『概念』を強奪。スキル【霊体干渉】を習得しました』
「……霊体干渉? トラ子、これはなんだ?」
「……解析中。……驚きましたね。これは、自身の物理攻撃に『霊的干渉属性』を付与するパッシブスキルです。……マスター、貴方はついに、物理的な実体を持たない幽霊を、文字通り『素手で殴り殺す』権利を手に入れました」
「幽霊を殴る権利、か。……最高じゃないか」
これでもう、霧になって逃げるような小賢しい相手にストロング缶を撒き散らす必要はない。
次からは、どんなに形のないバケモノだろうが、真正面から筋肉(物理)で解決できる。
現在のステータス:
【筋力:2300】
【耐久:2001】
【敏捷:1750】
【知力:20】
「耐久が2000を超えたか……。よし、これで蒼竜のブレスも、さっきよりは余裕を持って受け止められそうだな」
俺は黄色いドドンキの袋を肩に担ぎ直し、さらなる深淵、第16階層へと続く階段へと歩みを進めた。
だが、俺がこの地下深くで勝利に酔いしれていたその時。
地上の新宿では、まどかの絶望がその極致に達しようとしていた。
◆
光の届かない、冷たい地下室。
まどかは、鉄パイプに結束バンドで縛り付けられたまま、暗闇の中で意識を研ぎ澄ませていた。
(誠が帰ってくるまで、あとどれくらい……?)
龍牙と左京に裏切られ、監禁されてから、すでにかなりの時間が経過している。
食事として出された冷え切ったコンビニ弁当は一口もつけていない。
身体の自由は奪われ、喉は渇き、極度の緊張と恐怖で心は摩耗しきっていた。
まどかは、なんとかして地上の味方に状況を伝える術を考え続けていた。
だが、鉄扉の向こうにいるのは、左京の金で魂を売った元部下たちだ。彼らを買収し直すだけの資金も権限も、今のまどかにはない。
この場所がどこなのかさえ分からず、外部へシグナルを送る手段も、解決の糸口も、何一つ見つからなかった。
「……ここまで、なの?」
まどかの瞳に、初めて弱気な涙が滲みそうになった、その時だった。
「――相変わらず、無様な姿ね。黒犬の令嬢」
冷たい空気の中に、場違いなほど鈴を転がすような、凛とした女の声が響いた。
「っ!? 誰よ……!」
暗闇の中から、一人の人影が音もなく姿を現した。
それは、まどかの見張りに立っていた護衛たちではない。漆黒の戦闘服に身を包み、顔の半分を布で覆った――どこか浮世離れした「隠密」の風貌をした女だった。
「……あなたは、確か……『麗奈』様の手のものね」
まどかの記憶が、瞬時に一人の女性を弾き出した。
裏社会において、まどかたち『黒犬』とは別の勢力に属し、独自のネットワークを持つ謎多き才女――麗奈。
素性がよく分からない油断のならない相手だ。
「麗奈様からの伝言よ。『あなたがここで野垂れ死ぬのは勝手だが、あの男(結城誠)が帰ってきた時、主人がいないことに絶望してその才能を腐らせるのは勿体ない』……だそうよ」
「……あいつに、誠に伝えてくれるっていうの? 私が捕まっていることを」
「ええ。私たちの情報網なら、Aランクダンジョンのゲート付近に伝令を送ることくらい容易いことだわ。……ただし、条件がある」
隠密の女は、まどかの至近距離まで詰め寄り、その冷たい瞳で射抜くように見つめた。
「あの男が帰還した際、必ず『一度、麗奈様と二人きりでお会いすること』。そして、『麗奈様からのお願いを一つだけ、無条件で聞き入れること』。……これを承諾するなら、今すぐに伝令を走らせるわ」
まどかはギリッと奥歯を噛み締めた。
麗奈が誠に何を求めているのかは分からない。
だが、彼女の底知れない野心と誠への執着を考えれば、ろくな願いではないことくらい容易に想像がつく。
(……足元を見られている。でも、今の私には……)
左京たちの監視網を潜り抜け、誠に「龍牙の罠」を伝えられるのは、おそらくこのチャンスしかない。
誠が何も知らずに素材を龍牙に手渡し、そのまま蜂の巣にされる最悪の未来を回避するためには、どんな毒杯でも飲み干すしかなかった。
「……わかったわ。承諾する。誠に伝えて。……私が龍牙に捕まっていること、そして――左京を信じるな、と」
「賢明な判断ね。契約は成立よ」
隠密の女は短く答えると、再び闇に溶け込むように姿を消した。
地下室に、再び静寂が戻る。
まどかは、縛り付けられた手首の痛みを耐えながら、心の中でただ祈った。
(誠……。ごめんなさい。また、あなたの筋肉に、面倒な負債を背負わせちゃうわ……。だから、お願い……生きて帰ってきて)
地上の陰謀が、加速していく。
まどかの命、そして美桜の命。
二つの重荷を背負わされた結城誠は、そんな状況も知らぬまま、Aランクダンジョンのさらなる深淵へと突入しようとしていた。




